今回は、ヨハネ3:22~30、4:1~3を学びましょう。
1.イエスのバプテスマ
3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
3:23 一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。
3:24 ヨハネは、まだ投獄されていなかった。
4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
イエス様がバプテスマを授けていたことは、ヨハネの福音書に記されています。バプテスマという言葉は、ギリシア語のβαπτίζω(バプティゾー)が語源で、「浸ける」という意味があり、洗礼と呼ばれるものです。当時、バプテスマは、外国人がユダヤ教に改宗するときに行われていた儀式でした。バプテスマのヨハネは、ユダヤ人に対して、罪を悔い改めるバプテスマを授けていました。
イエス様は、弟子たちと一緒にユダヤの地に行き、バプテスマを人々に授けていました。また、バプテスマのヨハネも、同じ頃に「サリムに近いアイノンでバプテスマを授けてい」ました。すなわち、イエス様のグループと、バプテスマのヨハネのグループが別々にバプテスマを授けていたのです。
イエス様は、多くの弟子を持ち、彼らにバプテスマを授けていました。私たちは、しばしば12弟子に焦点を当てがちですが、実際には多くの人々がイエス様の弟子となりました。イエス様が復活した際には、500人以上の弟子たちがいたのです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。 Ⅰコリント15:6
イエス様は、バプテスマのヨハネと同じように、バプテスマを授け、ご自身の弟子とされました。
イエス様の弟子とは、イエス様の言葉にとどまる(生き続ける)、また、互いの間に愛がある関係です。
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。 ヨハネ8:31
互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」 ヨハネ 13:35
イエス様の弟子として生き続けるには、必要なものがあります。
それは何でしょうか。使徒19:1-7を見てみましょう。
使徒19:1-7
1 アポロがコリントにいたときのことであった。パウロは内陸の地方を通ってエペソに下り、何人かの弟子たちに出会った。
19:2 彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えた。
19:3 「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。
19:4 そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」
19:5 これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。
19:6 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。
19:7 その人たちは、全員で十二人ほどであった。
使徒パウロがエペソに行ったとき、12人の弟子たちに会いました。パウロは彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。しかし、彼らは聖霊を知りませんでした。彼らは「ヨハネのバプテスマ」を受けただけだったからです。パウロは「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と説明し、イエス様のバプテスマを受けるように勧めました。
ヨハネのバプテスマは、イエス様を信じる準備として、罪を悔い改めるバプテスマを授けました。彼らはイエス様の十字架による罪の赦し、聖霊について知らなかったのです。彼らは聖霊を受けて、異言を語り、預言をしたのです。
イギリスの宗教指導者チャールズ・スポルジョンは、こんなことを言っています。
「信じてから、あなたがたは聖霊を受けましたか。愛する者たち、あなたがたは今、御霊を受けていますか。御霊の神聖な影響の下に生きていますか。聖霊の力に満たされていますか。個人的に質問してください。また、聖霊の救いの御業を少しは享受したことがあっても、その崇高さと聖めの影響力をあまり知らないことを告白しなければならない人もいるでしょう。」
私たちが、イエス様の弟子として、イエス様の教えに生き、互いに愛し合うには、必ず、必要なもの(というより、お方)があります。それが聖霊です。私たちは、聖霊を受けて、聖霊によって生きることが必要なのです。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。 ガラテヤ 5:22-23
イエス様の教えに生き、互いに愛し合う、このような生活を希望するなら、私たちは聖霊というお方が必要です。もし、聖霊が私には必要と思うなら、是非、神様に求めて下さい。
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。 ルカ11:13
2.花婿の友ヨハネ
3:25 ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。
3:26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」
3:27 ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。
3:28 『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。
3:29 花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。
3:30 あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」
バプテスマのヨハネの弟子たちは、ユダヤ人ときよめについて論争をしました。当時、ユダヤ人たちは、聖書に書かれた一字一句を厳格に守ろうとしていました。聖書には、「きよめ」について、どうするのかが記されています。しかし、ヨハネは、このようなユダヤ人たちに対して、バプテスマを授けていました。一見、聖書のきよめだけでは足りないと言っているようです。ヨハネは、聖書にあるルールだけを守ればいいという考え方を否定して、神様への真心が伴わなければ、何の意味もない、まず、神様に心を向けること(悔い改め)を説いたのです。
聖書に記されたルール(戒律)を律法と呼びます。この律法の語源は、「神の教え」です。ユダヤ人たちは、これらのルールを具体的に事細かに定めて実施しました。ところが、彼らはルールさえ守ればいいと考えるようになり、そのルールを与えられた神様の心を見失ってしまったのです。
たとえば、安息日のルールは、今も厳格に行われています。安息日には、一切、働いてはいけないのです。だから、イエス様が安息日に病気を癒されたのを、ルール違反だと人々は抗議したほどです。しかし、安息日は本来、神様が人のために設けられた、神様の愛によるものです。たとえば、交通ルールで通学路の徐行を考えてみますと、「徐行しなければならないから、徐行すること」と、「子供たちを危険から守りたいから徐行すること」では、その動機が異なります。前者はルールだから、罰則があるからという理由ですが、後者は子供たちへの愛によります。聖書の律法を読むとき、何故、神様はこの律法を私たちに下さったのかと、その背景にある神様のご愛を知ることです。
ヨハネが行った悔い改めのバプテスマは、その神の愛に応えるためのものと言えます。
さて、ユダヤ人との論争のとき、ヨハネの弟子たちは、ユダヤ人たちから、大きな事実を知りました。そして、彼らは、急いでヨハネ先生のところに行ったのです。
「先生、あの方が、なんと!!バプテスマを授けています!!」
ヨハネの弟子たちは、ヨハネからバプテスマを受けて、弟子になりました。だから、彼らから見れば、イエス様は自分たちと同じ弟子の存在です。ユダヤのルールには、弟子が師匠の前で律法の教義や文章を教えることは禁じられているのです。故に、ヨハネ先生を差し置いてバプテスマを授けていることは腹立たしいことなのです。しかも、人々はヨハネ先生に来ないで、イエス様の方に行ってしまうというのですから、悔しいやら、恨めしいやらです。
しかし、ヨハネ先生は、この弟子たちの訴えに、冷静に答えました。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。 『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます」。
彼の潔さは徹底していました。何故でしょうか。彼の自己評価はとても低いのでしょうか。彼は既に諦めているのでしょうか。いいえ、ヨハネは、自分を「花婿の友人」だと言うのです。
花婿の友人とは、特別な立場にいる人です。欧米の結婚式でベストマンと言われる立場です。このベストマンは、花婿の付添人のまとめ役、花婿をサポートし、彼らの指輪の管理、パーティの進行をする人物です。ですから、ベストマンになる人物は、花婿から信頼された人物です。ベストマンは、自分が注目されることを望みません。管理する結婚式が滞りなく行われ、花婿花嫁が人々に注目されることが、彼にとって最高の喜びです。ヨハネは、自分がイエス様のベストマンだというのです。自分を卑下しているどころか、最高のポジションにあると宣言しています。そして、これが彼の仕事なのです。
私たちは、様々な仕事をしています。会社員、学校の先生、家の家事や家族の介護も仕事です。学生は勉学でしょうか。私たちは、これらの仕事に対して、誇りをもって行っているでしょうか。仕事の範囲を広げて、ボランティアや家族や友人の悩みを聞くことも仕事と考えていいと思います。何故なら、私たちの仕事は、神様から与えられた使命によるからです。あるカナダに住む日本人女性の話です。彼女は、英語が出来ないために、大きな病院の掃除の仕事をしていました。彼女は、自分の仕事が神様から与えられたものであるということ、そして、その仕事こそが神様への奉仕であると気付いたそうです。彼女の掃除という仕事は、汚い所をきれいにする仕事、イエス様の仕事と同じではないかと。イエス様は、私たちの汚い心を清くして下さるお方ですから。それから、彼女は、イエス様に仕えるように、掃除の仕事をしたそうです。その病院では、毎年、5人の最も優秀な職員を表彰するときがありました。普段は、医者や看護師が表彰されるのですが、初めて、掃除の仕事をしている彼女が表彰されたそうです。
「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません」、すなわち、現時点での自分の立場が、天から与えられているものだとも言えます。それを卑下することなく、その与えられている立場で、彼女のようにイエス様に精一杯仕えることが必要なのではないでしょうか。ヨハネが花婿の友人であると自分を高く評価したように、また、イエス様のように掃除する者のように、私たちは、イエス様によって見出されたとき、世の光として輝くのではないでしょうか。また、私たちは更に、神様に求め、成長することが出来ます。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。 ヨハネ14:14
イエス様の弟子として、イエス様の言葉によって生きる、互いに愛し合うという人生を送りたいものです。そのために、神様は、私たちに聖霊をお与えになります。また、私たちはそれぞれイエス様のために行う仕事が委ねられています。それをヨハネのように忠実に行うことが求められているのです。更に、私たちに必要なものを与えて下さると御言葉は約束しておられるのです。この御言葉の約束を抱き、私たちに成して下さる素晴らしいことを期待して歩み続けようではありませんか。
勧士 高橋堅治