罪人を救うために来られたキリスト ヨハネ 3:16-21


1.約束を通して現わされた神の愛

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネ3:16

最初に、少し、簡単な二者択一のクイズを出します。あなたはどちらを選ぶでしょうか。

※あくまでも、仮定のクイズです。

(1)あなたは、沖縄への往復チケットを買って、沖縄に旅行しようとしています。
下記のA, Bどちらの飛行機のチケットを購入しますか?

A) 全日空ANA 787 チケット代 \25,000円、過去の重大事故無し

B) ツポレフTu-104 チケット代 \10,000円、 
過去の重大事故 飛行機の20%が大きな事故で失う(通称、空飛ぶ棺桶と呼ばれる)

(2)あなたは、100万円を持っていて、預金をしたいと考えています。
下記のA, Bどちらにお金を預けますか?

A) 大手○○銀行 元金保証, 但し、年利率0.05%

B) 町で声をかけられた見知らぬ人、彼曰く「俺に預ければ、2倍にしてあげるぞ・・・」
小声でボソっと「ただし、うまくいけばのはなしだけど・・・」

さあ、あなたはどちらを選ぶでしょうか?

実は20人ぐらいの人に聞きましたら、アマノジャクの人?(若干1名)を除き、両方ともAを選びました。私たちは、飛行機のチケットを買ったり、お金を預けたりする場合、まず、その約束が守られるかどうかで判断します。もし、選択を間違えると、例えば、飛行機ならば、事故で命を落とかねませんし、そもそも、旅行がちっとも楽しみになりません。預金なら、大切なお金を失ってしまうかもしれません。

では、神を信じるということでは、どうでしょうか?

聖書に、信仰とは何かということが次のように書かれています。

さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 ヘブル 11:1

望んでいることを保証」するとは、「既に、約束を得ているものとする」ことです。例えば、飛行機チケットならば、チケットを購入した時点で、たとえ、旅行前であっても、既に旅行に行って帰って来ることを手にしたものと私たちは思います。預金であれば、預けたときに、既に1年後にいくらかの利益を持ったと思うでしょう。信仰も同じで、私たちが神を信仰したとき、神の約束を既に頂いたと確信するのです。

日本のことわざに、「イワシの頭も信心から」といって、信心が重要だということから、何でも手を合わせる習慣があります。であれば、私たちは、イワシの頭を拝んで、イワシの頭から約束を期待できるでしょうか。もし、神の約束を期待するなら、本物の神でなければなりません。神を信仰するとは、私たちの大切な人生を委ねるだけでなく、私たちの死後も委ねることになります。それほど、大切な選択を、空飛ぶ棺桶と呼ばれた飛行機ツポレフを選ぶように、いい加減に選んでよいのでしょうか。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」これは、聖書の最も有名な言葉です。神様が、私たちひとりひとりを愛しておられると言う言葉だからです。そして、それは、「ひとり子をお与えになった」ことで明かにされたというのです。この言葉を素直に信じるなら、本当にこの世界に神様が存在し、その神様が私自身を愛しておられることを実感できます。しかし、私たちは、神様がおられること、まして、その神様が私たちに関心を持ち、愛しておられるなんて理解できません。だから、聖書は、「ひとり子を与える」という愛の行為から、神様の存在と、その愛を知ってほしいというのです。この「ひとり子を与える」神様の愛の行為は、歴史の中で、約束と、その実現で現わされているのです。

今から4000年も前のことです。アブラハムという人がいました。彼は、神様の祝福の約束を信じ、イラク東部にあるウルという場所から、1000kmほど離れたカナンという場所に旅をしました。このカナンは、今のイスラエルの場所です。それから、アブラハムは、神様の約束によって、年老いたサラとの間に、約束の子イサクをもうけました。イサクはたくましく成長しましたが、あるとき、神様からアブラハムに、とても難しいことを言われたのです。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」 創世記22:2

アブラハムは、これを聞いて、きっと、動揺したでしょう。神様が何故、こんなことを言うのかと心に葛藤があったと思います。でも、彼のこれまで神様との間で築いてきた信頼関係はとても強いものでした。だから、

彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。 ヘブル11:19

アブラハムは神様の言うことを信じ、息子イサクをささげようとしたその時です。

御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」 

創世記22:12

続けて、神様はこう答えられました。

「わたしは自分にかけて誓う──【主】のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」 創世記22:16-18

神様は、アブラハムの信仰を見て、今まで以上の大きな約束をしました。特に、「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受ける」という約束です。やがて、アブラハムの子孫が、全世界の国々を祝福するという約束です。

この約束から1300年後、預言者イザヤは、神様の特別なメッセージを発表しました。そのメッセージとは、「一人の人が神様のもとから来て、多くの人々の罪のために死に、その死によって多くの人々を義とする」という詳細なメッセージでした。

しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。

「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。 イザヤ53:10-11

イザヤの他にも、多くの預言者を通して、アブラハムの約束の子孫について、明らかにされてきました。人々は、その方をメシア(キリスト、救い主)として待ち望みました。この神様の約束は、イザヤのメッセージから700年後に、イエス・キリストが生まれ、アブラハムとの約束が成就したのです。この祝福は、現在も世界の多くの人々が授かっているのです。

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。          Ⅰペテロ 2:24

このように、神様は、「ひとり子をお与えにな」るという約束を果たしました。そして、「ひとり子をお与えになった」という事実を通して、本当に神様が存在し、その神様が「ひとり子をお与えになったほど」、私たちひとりひとりを愛しておられるということが分かったのではないかと思います。

神様は真実なお方なのです。

2.御子によって救われる

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

アブラハムによって約束され、イザヤによって明らかにされ、イエス・キリストによって実現した神様の約束は、「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ということです。この「一人として滅びることなく」という言葉は、「一人も失われることなく」とも言えます。

聖書は、私たち人間のことを「失われたもの」と言います。ルカ15章では、私たちを100匹の羊の中の1匹や、銀貨十枚の中の1枚として私たちをたとえています。

でも、なぜ神様は私たちを「失われたもの」と呼んでいるのでしょうか。私たちは生きていると言いますが、本当は大切な永遠のいのちを失っているからです。

聖書では、

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている ヘブル 9:27

といっています。死後のさばきで何がさばかれるかというと、神様の律法を破ったかどうかです。

神様の律法を破ることを、聖書で罪であると言っています。

私たちは、罪というと、人殺し、怪我を負わす、盗みなどの犯罪を思い浮かべます。でも、聖書の罪は、私たちが普段している、嘘、貪欲、妬みなどが含まれます。また、聖書の罪には重い、軽いがありません。私たちは、誰もが人殺しは悪いことと思いますが、人を馬鹿にすることは罪ではないと考えることが多いと思います。しかし、聖書の罪では、人殺しと、人を馬鹿にすることは同罪です。人を馬鹿にすることと、人殺しは、両者とも命を軽視するからです。また、神様に逆らうことも罪です。例えば、神様の代わりに、木や石の神様でないものを拝むことは、神様を冒涜していることに相当します。例えば、お母さんが食事を作ったとき、お母さんにありがとうを言わず、お母さんの前で、人形を「お母さん」として、人形にありがとうって言ったら、お母さんはどう思うでしょうか。悲しみますよね。しかし、私たちは神様に対しては、同じような過ちをしていないでしょうか。

そして、聖書では、

罪の報酬は死です。 ローマ 6:23

と言っています。この罪を犯すと、死後のさばきで有罪判決され、第二の死が待ち受けます。

ある人が、愛の神様がどうして、こんなに厳しいのかと言っていました。神様は愛なる方でありますが、正しいお方でもあります。この神様が定めた律法を破った罪に対しては、神様は最高の、永遠の罰をもって、罰することを要求されるのです。ですから、考えてみて下さい。どうして、イエス様が十字架について死ななければならなかったか。聖書の罪の報いは、神のひとり子を十字架で殺すほどに大きいのです。
しかし、もし、このイエス様の十字架の死が私の罪のためであったと信じるなら、その罪は御子の十字架に一緒にはりつけされ、死からいのちへと救われます。それだから、イエス様の十字架を信じた者には、死後のさばきを恐れる必要はないのです。

3.罪人を救うために来られたキリスト

3:19 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

3:20 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。

3:21 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

私たちは、自らの罪を認めるのを嫌います。罪を知れば、自分の汚れを知り、情けなく、みじめになるからです。だから、光である神様のもとに来ることを恐れます。何故なら、光は闇(罪)を照らし出し、白昼に晒すからです。

私は以前1年間、心身症で仕事を休んだことがありました。私は、復職のために、長野障害者職業センターのリワーク支援に通いました。心身症は、主に仕事などのストレスが原因で、リワーク支援では、ストレスの対処方法を学びました。ストレス対処には、コーピングという方法があります。私たちはストレスを受けたとき、セルフトークと呼ばれる、心の中で口癖を言います。たとえば、仕事上でミスをして、上司に叱られたとします。そのとき、ある人は「くそ、また、俺だけを叱りやがって」とセルフトークし、また、ある人は「また、叱られた。もう、俺はだめだ」とセルフトークする。また、ある人は、「今度は気を付けよう」とセルフトークします。消極的なセルフトークでは、ストレスを更に増やしてしまいます。このセルフトークを、私たちは普段、無意識にしています。これを意識的に行えるようになるため、過去に体験した嫌な感情の状況を振り返って整理し、正しいセルフトークを身につける方法があります。認知行動療法と呼ばれるものです。リワーク支援では、毎日2件以上の体験整理シートを残します。毎週、支援者全員に発表し、カウンセラーから助言を受けていました。この認知行動療法は、心の中を深く見つめるために、実はとても大きな負担でした。あるとき、私は、ある人が褒められ、自分が非難されたことに、強い嫉妬心を覚えました。そこで、この状況を体験整理シートに記しました。私は、自分の心から黒いものが溢れているイメージを持ちました。このとき、みじめで、情けない心でいっぱいになりました。まさに、パウロの次の言葉と同じです。

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

ローマ7:24

しかし、その後、私は聖書のある御言葉に目をとめました。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。 Ⅰヨハネ1:7

私の心は汚いけれど、イエス様が十字架で流された血は、その心の汚れもきよめて下さるのだと。

パトリシア・セント・ジョンが書いた「雪のたから」という童話をご存じでしょうか。以前に、世界名作劇場で「わたしのアンネット」というアニメ番組で放映されました。 

この物語は、スイス・ロシニエール村に住む貧しい農家の娘アンネットと、幼なじみで親友でもあるルシエン。おてんばなアンネットは幼い弟ダニーの面倒をみながら、体の悪い母親を助けて家族で仲良く暮らしていた。ある日アンネットの飼うオコジョのクラウスがルシエンの木彫りを壊してしまい、怒ったルシエンはクラウスを谷底に投げ捨ててしまう。そのとき、クラウスを助けようとしたアンネットの弟ダニーも谷底に落ち、歩けない体に。それ以来アンネットはルシエンに辛くあたります。ルシエンは、コンクールのために馬の木彫りを作りましたが、アンネットは、ルシエンが優勝しないように、その木彫りをこっそり壊してしまいました。アンネットは、ルシエンを憎み、罪悪感で平安はありません。クリスマスのときです。教会の牧師は、人々に幼子のイエス様が心の戸を叩かれる、その心を開けてイエス様を迎い入れることを話されました。アンネットは、雪の降る夜、山道で滑って足をねんざしてしまいました。ちょうど、通りかかったルシエンが彼女を見つけてそりを取りに出かけます。そして、ルシエンは彼女に凍えないためにマントを渡しました。アンネットは、彼の暖かさに触れ、彼をねたんで木彫りを壊したことから、自分の心の醜さを知り、イエス様を心に迎えたのです。このとき、彼女は、勇気をもって、自分がルシエンの木彫りを壊したことを告白するのです。

著者のパトリシアは、第二次世界大戦が終わったとき、戦争で行われた残虐行為に怒りと憎しみを覚えたそうです。彼女は戦争の写真展を見た人々の顔を思い出し、他人を許せない心、自分自身を許せない心を後悔し、赦すことの大切さについて、この本を書いたそうです。

神様は、あなたを愛し、あなたのためにひとり子イエスを与え、あなたを赦すために十字架に架けられたのです。あなたは、この神様の愛を受け入れておられるでしょうか。

クリスチャンを迫害し、その後、キリストと出会って回心した使徒パウロが次のように言っています。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 Ⅰテモ 1:15

彼は自分こそ、罪人のかしらであり、自分のためにキリストが世に来られたのだと。

あなたに神様の祝福がありますように。

勧士 高橋堅治