カナの婚礼 ヨハネ2:1~11


さて、今回も引き続き、ヨハネの福音書を学ぶことにしましょう。今回の聖書は、有名なカナの婚礼です。このところは多くの方が、好きな聖書箇所ではないでしょうか。

ヨハネの福音書1章では、この宇宙を創造された神様が存在し、この神様が人としてこの世界に現れたことが記されています。このお方こそ、イエス様です。このイエス様を神の子キリストと証しする人々、バプテスマのヨハネ、アンデレ、シモン・ペテロ、ピリポ、ナタナエルが登場しました。イエス様は弟子たちに言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」 ヨハネ1:51

イエス様と共に歩む弟子たちに、イエス様を通して、神様の御業を見ることを約束しています。

1.何の関係がありますか(1~5節)

2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。

2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。

2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。

2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」

2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」

イエス様がナタナエルと出会った後、三日目に、イエス様はガリラヤ地方のカナで行われた婚礼に招かれました。そこには、イエス様の母マリアが同じく招待を受けていました。

昔のユダヤの結婚は、人生の中でとても大事な出来事でした。花婿の家で結婚式が行われた後、7日間もの間、宴会が開かれたのです。特に、婚礼のぶどう酒は欠かせないものでした。ユダヤ教の教え、タルムードには、ぶどう酒を喜びと幸福の象徴、夫婦の新たな人生のしるし、男性と女性の愛の象徴とされています。ですから、現在も、ユダヤ人の結婚式では、ぶどう酒の杯の前で祈り、祝福され、新郎新婦がぶどう酒を飲み干し、花婿が杯を割るまでの儀式が行われます。宴会でも、沢山のぶどう酒が振る舞われ、出席した人々はぶどう酒を飲みながら新郎新婦を祝福するのです。ですから、非常に沢山のぶどう酒を要したことが理解できます。

母マリアは、宴会のぶどう酒が足りなくなったことを知りました。彼女は、イエス様に対して、「あら、困ったわ。ぶどう酒が無くなっちゃったみたいなのよ」と打ち明けたのです。彼女は、新郎新婦を心配して、「どうしたらいいのかしら・・・」と思い悩んだのです。マリアの心配に対して、イエス様は、どう答えたでしょうか。聖書には「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。」とあります。ここは実際の聖書の原文では、「τί【何か関係ある?】 ἐμοὶ【私に、】 καὶ【そして】 σοί【あなたに】」と書かれています。すなわち、「ご婦人。このことが、あなたとわたしとに何の関係がありますか」と言い換えてよいでしょう。すなわち、イエス様は、「婚礼の主催者の問題だから、私たちとは関係ないのでは」というのです。少し、冷たい感じもしますね。更に、イエス様は、マリアに、「わたしの時はまだ来ていません」とも言っています。このことについては、後ほど、考えましょう。

マリアは、このまま何もしないでいいと思いませんでした。ですから、給仕の者たちに「あの方(イエス様)が言われることは、何でもしてください」と言ったのです。それは、「神の子キリストであるイエス様なら何とかしてくださる」というマリアの信仰から来たものです。

さて、私たちは、人と関係するときに、境界線ということを意識しなければなりません。相手の境界線を超えて、相手に関わることを、「おせっかい」とも言います。心理学者の丸屋真也先生によれば、相手の境界線を越えることは、相手の尊厳を傷つけ、相手の成長を阻むそうです。

マリアは、婚礼の客という境界線を越えようとしました。彼女は、お祝いの席でぶどう酒が無いという問題を見過せかったのでしょう。でも、本来なら、当事者である花婿、そして宴会の世話役が状況を知り、解決すべきことでした。それでも、イエス様ならなんとかして下さるとするマリアに対して、イエス様は表には現れないような愛の業で答えられたのです。

2.持っていきなさい(6~8節)

2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。

2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。

ユダヤ人の「きよめのしきたり」によって、花婿の家には6つの水がめが置かれていました。このきよめのしきたりは、「ミシュナ(口伝律法)・ヤダイム」と呼ばれる手を浄める定めでした。定まった量の水を使い、手を浄め、また、水を入れる容器の素材も決められていました。水がめの大きさは、2あるいは3メトレテス(1メトレテス=40リットル)からなり、水がめ全部では600リットルほど(家庭のお風呂の2杯分)になります。それを、イエス様は、給仕の者たちに「水でいっぱいにしなさい」と言いました。現代なら、水道の蛇口にホースを付け、蛇口をひねれば、簡単に水を満たせますが、当時は、小さな桶で、共同の井戸、又は泉に何度も汲みにいかなければなりませんでした。もし、桶が20リットル程のものなら、30回も往来が必要になるほどです。しかも、普通、家から井戸や泉までに距離があるので、大変な仕事になります。それでも、給仕の者たちは、この労苦をためらうことなしに、水がめの縁までいっぱいにしました。

イエス様は、水がめがいっぱいになったのを知って、引き続き、彼らにこう言いました。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」

このイエス様の言葉に、すぐに答えることができるでしょうか。イエス様は、給仕の者たちに、その上司である世話役へ、水をぶどう酒として持っていくように命令しているのです。給仕の者たちの心は、きっと穏やかではなかったことでしょう。「そんなことを言われても・・・」と、戸惑いや恐れが沸いてきたと思います。イエス様の「持って行きなさい」という言葉には、給仕の者たちの心を察した思いが含まれています。すなわち、「世話役のところに持っていくことに抵抗があると思うけれど、それに打ち勝つべきだ!」という励ましが含まれているのです。

私たちにとって、水がめに水を満たすことは、大変な労苦が伴う労働にたとえることができます。しかし、たとえ労苦があっても、なんとかやり遂げることが出来るのではないかと思います。しかし、水を世話役のところに持っていくことは、肉体的な労苦はありませんが、水を満たす以上に、心に抵抗があるはずです。それは、信仰が試されるときと同じだと思います。給仕の者たちは、もし、ぶどう酒が水のままであったら、世話役から厳しい叱責を受け、そして、給仕という仕事を失う恐れがあります。これらの抵抗感が、私たちの行動を制限しようとするのです。しかし、イエス様は、その抵抗感に打ち勝つことを勧めているのです。実に、ここに信仰が必要なのです。

そして、給仕の者たちは、ためらわずに「持って行った」のでした。

3.栄光を現された(9~11節)

2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、

2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」

2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

宴会の世話役は、給仕の者たちが運んできた水を味見しました。それから、すぐに花婿を呼び、こう言いました。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました」。花婿は、世話役が何を言っているか全く分からなかったはずです。でも、彼は、世話役から称賛を受けたのです。本当は、この称賛はイエス様に向けられて行われるものでした。

ところで、カナの婚礼の奇跡は、他の聖書の奇跡と少し違います。他の奇跡を見ると、イエス様の言葉に従って行動したのは弟子たちでした。しかし、ここでは給仕の者たちが行いました。そして、奇跡の結果、称賛されたのは、イエス様でなく、花婿でした。

先に、イエス様が、「わたしの時はまだ来ていません」と言われています。この最初の奇跡は、イエス様ご自身を隠し、裏方で行われています。ですから、イエス様に従って、労苦と戸惑いつつも従い続けた給仕の者たちが、イエス様の奇跡をまのあたりにしたのです。

私たちの人生、仕事や子育てなど、多くの人々が様々な評価をします。厳しかったり、又は称賛されたり、しかし、それは花婿や世話役のように、その過程を知らずに評価されることも多いと思います。しかし、実際の私たちは、その過程で大変な労苦をして、戸惑い、苦しんできました。私たちの人生にイエス様が共におられたら、そこにイエス様の奇跡、神様の恵みが見られたのではないでしょうか。それは、この給仕の者たちと同じ、イエス様の栄光を見る祝福を頂いたことなのです。

そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」 ヨハネ 1:51

勧士 高橋堅治