今日は、本当は別の牧師がお話しする予定でしたが、事情により、急きょ私が代わりに担当することになりました。
先週は出席する人も少なく、部会もありませんでしたので、今日は先週の内容を振り返りながら分かち合いたいと思います。
先週の題は「初めの愛を思い起こす」でした。これは、ヨハネの黙示録2章にあるイエス様がエペソの教会に語られたメッセージを中心に学びました。
エペソという町は、その当時、女神アルテミスの信仰の中心地でした。そこでは、偽物のクリスチャンや間違った教え(ニコライ派)との戦いがあり、さらにローマ皇帝ドミティアヌスによる迫害もあって、とても厳しい状況でした。
その中で、エペソの教会は教えを守り、一生懸命働き、忍耐していました。イエス様はその努力をよく知っておられました。
でも同時に、「初めの愛を失った」と指摘され、「思い起こしなさい」と命じられました。
私たちもイエス様を最初に愛したときの気持ちを思い出す必要があります。もしその心を失ってしまっているなら、なぜそうなったのかを考えることが大切です。
エペソの教会が「初めの愛」を失った理由の一つは、間違った教えや偽りに対抗するあまり、厳しすぎる信仰になってしまい、愛の心が冷えてしまったことでした。
厳しいだけの信仰は、形だけの礼拝になりやすく、本当のいのちを失ってしまいます。
ですから、教会がいのちを取り戻すために大切なことを、今日もみなさんと一緒に分かち合いたいと思います。
1.いのちのある教会と枯れた教会
「いのちのある教会」とはどんな教会でしょうか。少し考えてみましょう。
私たちは毎週日曜日、教会に集まって礼拝をしています。礼拝では、祈ったり、賛美したり、メッセージを聞いたりします。けれども、もしそこに喜びや楽しさがなくて、ただ習慣だからと参加しているだけなら、日曜日に教会に行くことがだんだん重荷(おもに)のように感じてしまうかもしれません。
聖書の詩篇16篇11節にはこう書かれています。
「あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり 楽しみがあなたの右にとこしえにあります。」(詩篇16:11)
神様を礼拝するときに、私たちの心に「満ち足りた喜び」や「楽しみ」があるのは、そこに「いのち」があるからではないでしょうか。
たとえば、野菜を育てているとき、元気な枝や青々とした葉、実がしっかり実っている姿を見ると、とても嬉しくなります。だから農業は楽しいのだと思います。逆に、枝や葉がしおれて枯れてしまっていると悲しくなりますよね。
このように、「いのちがある姿」と「枯れた姿」ははっきり違います。教会も同じで、もし私たちの教会が喜びも楽しさもなくなってしまったら、それはただ形だけがある「いのちのない枯れた教会」になってしまうのです。
では、「枯れてしまった教会の姿」とはどんなものだったでしょうか。もう一度ふり返ってみましょう。
枯れてしまった教会の姿としては、次の7つが挙げられます(日本セルチャーチ宣教ネットワーク(JCMN)より要約)。
・プログラム中心:行事や礼拝のやり方そのものが目的になり、中身のいのちを失う。
・お世話ばかり:牧師やリーダーが信徒をお世話するだけで、信徒がキリストの弟子として成長できない。
・権威の独占と囲い込み:指導者が権威や情報を独占し、信徒の賜物やリーダーシップが育たない。
・牧師中心:牧師がいないと何も進まず、「万人祭司」の教えが失われる。
・内向き:教会の中の安心や秩序だけを守り、地域への使命を忘れる。
・孤立:他の教会との交わりを避け、自分の教会だけで完結する。
・伝統重視:「昔からこうしてきた」という理由だけで新しい働きを受け入れない。
イエス様の愛を実際の生活で行いながら伝道する「生活伝道」を提唱したある牧師は、一生懸命に伝道して、多くの人を教会に集めました。ある時は30人ほどが集まるまでになりましたが、最終的には一人も教会に残らなかったのです。
その牧師ご夫妻は、「一体どこに問題があったのだろうか」と深く悩みました。そして、ご夫妻は6か月もの間、毎日、悔い改めの生活を続けました。兄弟姉妹に神様が望まれない重荷を負わせて苦しめていたことなど、愛のない行動を思い出し、「形式的に集会に出席したり奉仕をしていても、愛がなければ神様に喜ばれない」と強く示されたのです。
その後、ご夫妻は「目の前に困っている人がいるなら、その人を助けなさい」という神様の言葉を信じ、それまで、教会の仕事があるからと、断っていた学校役員の仕事なども引き受けるようになりました。すると、少しずつ新しい道が開かれていったのです。
先週、私たちは「いのちのある教会の原則」として「七つの本質」を学びました。これは単なる教理(おしえのまとめ)ではなく、聖書から導き出された、教会が本来持つべき大切な基本の原則です。
関係(Relationship)
教会は、神様に呼び集められた人々の集まり(エクレシア)。
互いに愛し合い、人々を愛することが大切。
喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに
泣きなさい ローマ人への手紙12章15節
参加(Participation)
牧師だけでなく、すべての信徒が神様に仕え、人々に仕える(万人祭司)。
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、
神のものとされた民です ペテロの手紙 第一 2章9節
能力付与(Empowering)
ひとりひとりがキリストの弟子として成長し、自分の賜物や技能を使って、教会(キリストのからだ)を建て上げること。
キリストご自身が…聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。 エペソ人への手紙 4章11-12節
イエス中心(Focus on Jesus)
教会の頭(かしら)は牧師ではなく、イエス様。イエス様にならって、毎日、愛を実践して生きること。
神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません ヨハネの手紙 第一 2章6節
伝道と増殖(Outreach and multiplication)
イエス様を知らない人に福音を伝え、新しい弟子を生み、育てること。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい
マタイの福音書28章19節
ネットワーク(Networking)
自分の教会だけで閉じず、他の教会ともつながって協力し合うこと。
キリストによって、からだ全体は…それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して… エペソ人への手紙 4章16節
適応可能な構造(Adaptable structure)
教会の形や仕組みは固定ではなく、状況に合わせて変えられるもの。
キリストのいのちがあふれるために、ふさわしい形を整える。
弱い人たちには、弱い者になりました…何とかして、何人かでも救うためです Ⅰコリント人への手紙 第一 9章22節
この「七つの本質」には、教会がキリストのいのちで満たされるために大切な目的があります。
それは、神様の家族として互いに愛し合うこと、そしてキリストの弟子として、一人ひとりが神様から与えられた使命に生きることです。
関西で長年牧会をしていたある牧師は、ある時「本当にこれが主の教会なのだろうか」と悩み、牧師を辞めてしまいました。けれども、その後「七つの本質」に出会い、再び「主の教会に仕えよう」と決心されたのです。
私たち杏の里教会も、礼拝に喜びと楽しみがあり、キリストのいのちがあふれる教会を目指していこうではありませんか。
2.神の家族である教会
七つの本質の中で、最も大切だと言われているのが「関係」です。
なぜなら、信仰や愛は、結局「信頼関係」や「愛の関係」というつながりそのものだからです。
聖書が示す教会は「神様に呼び集められた人々の集まり(エクレシア)」です。そして、その集まりを結びつけるものは「愛」です。
聖書にはこう書かれています。
「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3:14)
イエス様もこう言われました。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)
また、教会という集まりは、神様を父とし、イエス様を通して神の子とされた新しい家族でもあります。
「神は……私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:5)
家族というのは、生活を共にし、愛や安心を分かち合い、互いに支え合う共同体です。イエス様の教会も同じで、信仰を土台に、愛し合い、支え合う共同体なのです。
実際に、初代教会では生活そのものを分かち合っていました。
使徒の働き2章44〜47節には、初代教会の人々が心を一つにして持ち物を分け合い、毎日集まって神を賛美していたことが記されています。
ですから、教会は単なるサークルや社会の団体とはちがいます。
名前が○○教会であるとか、会員名簿に名前があるかどうかよりも大事なのは、私たちが「キリストに呼び集められた家族」だということです。
そして、その家族を結びつけているのは「愛」という帯なのです。
よく「障害のある家族の存在そのものが、家族にとってかけがえのない宝」と言われます。
それは、障害のある家族がいることで、家族の絆(きずな)が深まり、新しい気づきや学びが生まれるからだそうです。
同じように、神の家族である教会にも、弱さを持つ方々がおられます。私たちは、その方々を心にとめて愛することを通して、本当の「愛すること」を学ぶことができるのです。
聖書にはこう書かれています。
「あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」(ルカ9:48)
イエス様がこう言われたのは、教会で一番大切な「愛すること」を教えてくれるのが、小さい者だからではないでしょうか。
だから私たちは、そのような方を愛し、大切にすることを通して、「愛すること」を学ぶべきなのです。
3.小さい者を愛する
小さい者を愛するとはどんなことでしょうか。そのことをバルナバの姿から学んでみましょう。
3-1.パウロを引き受ける
使徒の働き4章36節にこう書かれています。
「バルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフ」(使徒の働き4:36)
バルナバという名は本名ではなく、彼の人柄を表す呼び名でした。「慰めの子」とは、落ち込んでいる人を励まし、孤立している人を受け入れる人だったからです。
使徒9章では、サウロ(後のパウロ)がエルサレムに来たときの様子が書かれています。
使徒の働き9章26〜27節では、弟子たちがサウロを恐れて信じなかったとき、バルナバだけがサウロを引き受けて使徒たちのところに連れて行き、彼の回心と大胆な宣教の様子を説明しました。
パウロは、後に大きな働きをしましたが、このときは「小さい者」でした。なぜなら、もともと教会を迫害し、クリスチャンを苦しめていた人物だったからです。パウロ自身もこう告白しています。
「私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。」(Ⅰコリント15:9)
だから、パウロがエルサレムに来ても、弟子たちは彼を信じられず、受け入れませんでした。けれども、誰も受け入れなかったパウロを、ただ一人、バルナバだけが理解して引き受けました。
そのおかげで、パウロはエルサレム教会に迎え入れられたのです。
3-2.パウロの使命を助ける
異邦人(ユダヤ人以外の人々)にも福音が広がり始めたとき、エルサレム教会はバルナバをアンティオキアに送りました。
使徒の働き11章23〜24節をお読みください。バルナバは神の恵みを見て喜び、心を堅く保っていつも主にとどまるようにと皆を励ましました。
アンティオキアで多くの人が救われましたが、そこでバルナバは、ふとパウロのことを思い出しました。パウロは一度タルソという故郷に戻っていて、しばらくの間、働きが止まっていたのです。
バルナバは「パウロには神様からの使命がある」と信じ、わざわざ約300kmもの道のりをかけてタルソまで探しに行き、彼をアンティオキアに連れてきました。
使徒の働き11章25〜26節では、バルナバがサウロを捜しにタルソに行き、アンティオキアに連れて来て、まる一年の間、教会で大勢の人たちを教えたことが記されています。
バルナバは、使命を持ちながら一時的に沈んでいたパウロを見出し、彼が再び立ち上がるのを助けました。
その後も、バルナバはパウロと共に働き、第一回伝道旅行にまで同行したのです。
3-3.マルコの失敗を赦し、立ち上がらせる
第一回伝道旅行のとき、マルコは途中で一行を離れてしまいました。
(使徒の働き13:13)
その後、第二回伝道旅行に出るとき、マルコを連れていくかどうかでパウロとバルナバは激しく対立しました。(使徒の働き15:37〜39)
パウロは「マルコは失敗したから、もう用いるべきではない」と考えました。
けれども、バルナバは「若さのゆえの失敗だから、赦して育てるべきだ」と信じました。
その結果、パウロとバルナバは別々の道を行くことになりましたが、バルナバはマルコを見捨てずに共に歩み続けました。
その後、マルコは成長してペテロと共に働き、「マルコの福音書」を書く人物となりました。
さらに後には、パウロ自身からもこう認められるようになりました。
「彼は私の務めのために役に立つからです。」(Ⅱテモテ4:11)
3-4.小さい者に仕え、育成したバルナバ
バルナバは「小さい者」に仕え、その人を育てました。そこには共通する4つの特徴がありました。
(1)小さい者に関心を持つ(パウロ、マルコに目を向けた)
(2)過去を赦し、受け入れる
(3)その人に託された神様の使命を信じ、励ます
(4)忍耐強く、そばに寄り添う
バルナバは問題を抱えていたパウロやマルコを自分から引き受け、愛をもって受け入れ、励まし、一緒に行動しました。もしバルナバが彼らに関心を持たなかったら、今日のキリスト教会は存在しなかったかもしれません。
イエス様が言われたように、私たちの中で「一番小さい者」こそが、私たちの愛を必要としている人であり、私たちの愛を試し、そして教会を大きく変える「一番偉い」存在なのかもしれません。
私たちの杏の里教会にも、弱さを覚えておられる方がおられます。
私たちがバルナバのように、その方々に関心を持ち、受け入れ、その人に対する神様のご計画を信じて励まし、忍耐をもって寄り添うことができれば、神の家族としてもっと強く結ばれるのではないでしょうか。
私自身は、司会やメッセージを終えた後には、やっと立っていられるほどで、講壇に手を置いて体を支えています。
そうした中で、自ら進んで車椅子の補助を申し出てくださった方々がいます。
また、交通手段のない方を送迎してくださる方々もいます。その方々は、送迎だけでなく、声をかけたり励ましたりして支えておられます。
また、弱さを覚える方々のために祈り、心を寄せてくださる方々もおられます。
これからも、私たちはバルナバのように、自分から気づきを持って関心を寄せ、神の家族を建て上げていきたいと思います。
小さい者に仕えることこそ、イエス様に仕えることなのです。
「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)
私たちは、小さい者に仕えることを通して、本当の「愛すること」を学び、神の教会を建て上げることができます。
私たち杏の里教会は、バルナバのように小さい者に関心を持ち、互いに支え合いながら、イエス様の愛に生きる教会を目指してはいかがでしょうか。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。