後世に残る信仰の実

聖書箇所:Ⅱサムエル19:31〜39

説教者:高橋堅治

今日は「敬老の日」をお祝いして、礼拝をささげます。

まず、敬老の日とはどんな日なのかを振り返ってみましょう。

敬老の日の始まりは、1947年(昭和22年)9月15日、兵庫県の野間谷村で開かれた「敬老会」だったそうです。当時の村長、門脇政夫さんが「お年寄りを大切にし、その知恵を村づくりに生かそう」と考えたことがきっかけでした。

9月15日は、農作業が一段落し、過ごしやすい季節でした。戦争が終わったばかりで、子どもを戦場に送った親たちが心も体も疲れていました。そこで「養老の滝」の伝説にもなぞらえ、この日を「としよりの日」と定め、55歳以上の方々を対象に敬老会が開かれたのです。

その後、1950年に兵庫県で「としよりの日」が制定され、1951年には全国に広まりました。そして1966年には「敬老の日」として国の祝日に定められました。

法律には「長い間、社会のためにつくしてきたお年寄りを敬い、長寿をお祝いする日」と書かれています。当時は55歳以上が「お年寄り」とされていましたが、今では75歳以上を高齢者と呼ぶのが一般的になっています。

1947年ごろの平均寿命は、男性50歳、女性54歳でした。それが今では、男性81歳、女性87歳にまで延びています。健康に過ごせる年齢(健康寿命)も70歳をこえています。これは食事や運動など、生活習慣が良くなったことが大きな理由だと言われています。

杏の里教会でも、75歳以上の方々を高齢者としてお祝いします。

皆さんが歩んでこられた年月には、神様からの多くの恵みと守りがありました。その経験は、まさに宝です。

そして今日は聖書から、敬老の日にふさわしいお話をしたいと思います。バルジライという人物を通して、ご一緒に考えていきましょう。

1.人生経験からの知恵

サムエル記第二17:27〜29をお読みください。バルジライらは、寝台、鉢、土器、小麦、大麦などの食糧や物資を、ダビデと彼とともにいた民のために持って来ました。「民は荒野で飢えて疲れ、渇いています」と言ったからです。(Ⅱサムエル17:27〜29)

今日は、旧約聖書に出てくる人物「バルジライ」を取り上げたいと思います。

聖書には、年をとっても元気に活躍した人がたくさん登場します。その中で今日紹介するバルジライは、なんと80歳の時に大きな働きをしました。

「バルジライ」という名前には「鉄の男」という意味があります。その名の通り、とても強く、信頼できる人物でした。彼が生きていた時代は、今よりもずっと寿命が短く、80歳まで生きるのは本当に奇跡的なことでした。そんな中で、彼がダビデ王を助ける力を持ち、実際に行動したことは大きな出来事でした。

そのころ、イスラエルの王ダビデは、息子アブサロムの反乱によって、エルサレムを逃げ出さなければなりませんでした。ダビデは600人の親衛隊や家族とともに逃げ、途中で加わった人々もいて、数千人の大集団になったと言われています。彼らが約100kmも離れたマハナイムにたどり着いたとき、食べ物も寝る場所も不足していました。

そのときダビデを助けたのが、ショビ、マキル、そしてバルジライでした。彼らは寝台や食糧など、生活に必要な物を惜しみなく提供しました。聖書には「民は荒野で飢えて疲れ、渇いています」とあります。まさに人々の必要を知って助けたのです。

しかし、考えてみるとこれはとても危険なことでした。なぜなら、民の多くがアブサロムを支持しており、このままアブサロムが王になる可能性が高かったからです。普通なら自分や家族を守るためにダビデを助けない方が安全でした。実際、人々の態度はさまざまでした。イタイやフシャイのように忠実な人もいれば、メフィボシェテのようにダビデの不幸を喜ぶ人、シムイのように呪う人もいました。

そのような中で、バルジライは自分の財産を投じてダビデを支えたのです。

なぜ、彼はこのような危険を冒してまでダビデを助けたのでしょうか。聖書は詳しくは語っていませんが、彼の信仰から理由を考えることができます。

バルジライは、子どものころからイスラエルの歴史を見てきました。人々が王を求めてサウルが立てられたこと、そしてサウルからダビデへと王が移っていったことを目の当たりにしてきたのです。

彼は知っていました。王の地位は人間の力で奪うものではなく、「神様が与えるもの」だということを。ダビデが強い力を持っていても、神様が立てられたサウルを自分から倒そうとしなかったことを、彼は見てきました。そして神様がダビデを祝福し、国を豊かにしてくださったことも体験してきました。

だからバルジライは「神様が選ばれた王はダビデであり、アブサロムではない」と確信していたのです。

彼の行動は、神様の目から見ても正しい選択でした。バルジライの助けによってダビデは力を得て、戦いに勝利しました。そしてその勝利によって、神様が約束されたダビデの王座は守られ、やがてその系図からイエス・キリストが誕生することにつながっていったのです。

「わたしは彼の王座をイスラエルの上にとこしえに堅く立てる。」(Ⅰ歴代22:10)

前回の礼拝では、ある牧師先生がヨブ記からメッセージをしてくださいました。その中で、「自己保身の罪」について語られました。

「自己保身の罪」とは、自分の立場や名誉や安心を失わないようにばかり気を使うあまり、正しい判断や行動を見失ってしまうことです。言い換えるなら、「自分の利益を守ろうとする恐れのために、神様を見失ってしまうこと」です。

当時のイスラエルの人々は、アブサロムの見た目の立派さや、口のうまさに心を動かされてしまいました。そして国が豊かになっていたこともあり、「王の位は神様が与えるものだ」という大切なことを忘れてしまったのです。

けれども、バルジライは違いました。彼は80年の長い人生を通して、神様がイスラエルに与えてくださった恵みを体験していました。その積み重ねがあったからこそ、自己保身にとらわれることなく、危険を承知でダビデを助けるという正しい判断ができたのです。

ここにおられる人生の先輩方も、同じように長い人生を歩んでこられました。その歩みの中で、神様の恵みを知り、「何が本当に大切なのか」を見極める力を与えられています。世の中の人々が神様を見失い、アブサロムのようなものに流されるときであっても、バルジライのように神様を信頼して正しい選択をすることができるのです。

ですから、皆さんがこれまで積み重ねてきた人生経験は大きな宝です。その宝は、次の世代に受け継ぐべき知恵となり、若い世代を導く光となります。

2.後世に残る信仰の実

サムエル記第二19:31〜39をお読みください。ダビデはバルジライに「私と一緒に渡って行ってください。エルサレムの私のもとで、あなたを養います。」と言いました。(Ⅱサムエル19:33)

ダビデはアブサロムとの戦いに勝ち、再び王座に戻ることになりました。マハナイムからエルサレムへ帰るとき、バルジライは王を見送るためにやって来ました。

バルジライの忠実さに感動したダビデは、「ぜひ一緒にエルサレムに来てほしい。これからは私があなたを養いたい」と申し出ました。つまり、バルジライの助けに対して恩を返したかったのです。

しかし、バルジライはその好意をていねいに断りました。理由は、自分の人生はもう残りわずかであり、故郷で静かに最期を迎えたいと思っていたからです。そして、自分が報いを受けるのではなく、「その代わりに息子のキムハムを王の従者として仕えてほしい」と願ったのです。

ダビデはその願いを受け入れました。そして晩年、亡くなる直前までバルジライの恩を忘れず、息子ソロモンにこう命じました。

「しかし、ギルアデ人バルジライの子たちには恵みを施してやり、彼らをあなたの食卓に連ならせなさい。」(Ⅰ列王2:7)

それほどまでに、ダビデにとってバルジライの忠実さは大きなものだったのです。

その結果、バルジライの息子キムハムは、ダビデから土地を与えられました。そこには「キムハムの宿場」と呼ばれる宿場町ができ、少なくとも400年間は栄えたと伝えられています。

また、バルジライの娘は祭司に嫁ぎ、その子孫は「バルジライ族」と呼ばれ、バビロン捕囚の時代になるまで祭司の務めを果たしました。

つまり、バルジライの忠義は一時的なものではなく、子どもや子孫にまで受け継がれ、後の時代にも大きな影響を与え続けたのです。

イエス様は、私たちに次のように語られました。

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため」(ヨハネ15:16)

この言葉の通り、私たちがイエス様を選んだのではありません。むしろ、イエス様のほうが私たちを選んでくださったのです。そして、イエス様は私たちに「クリスチャンとして生きる使命」を与えてくださいました。

その使命とは、「実を結ぶこと」です。そしてただ結ぶだけでなく、「その実が残るように」とも語られました。だからこそイエス様は、「わたしの名によって父に求めるものを与えてくださる」と約束してくださったのです。

では、ここで考えてみましょう。

「皆さんがこれまでの人生で結んできた実とは、いったい何でしょうか?」

「そして、イエス様が『その実が残る』と語られた意味は何でしょうか?」

例話を一つご紹介します。

内村鑑三という人物がいます。彼は1894年、箱根で開かれたYMCAの夏季学校で「後世への最大遺物」という題で講演をしました。

そこで彼は人生について、このように語りました。

内村は、名誉や見せかけの成功はつまらないことだが、この地上での人生を「天国に行くための予備校」と考えるなら、この地上で意味ある働きをしてから去っていくことはクリスチャンらしい清い考え方ではないか、と語りました。(内村鑑三『後世への最大遺物』より要約)

そして、後世に人が残すものとして、いくつか挙げました。

・実業家になること ― お金を集め、財産を残すこと

・事業を行うこと ― 宣教師リビングストンのように、社会に役立つ事業を残すこと

・思想を残すこと ― 文章や言葉で、悪と戦い、考えを次の世代に伝えること

・教育者になること ― 人を育て、導くこと

しかし、内村はその上でこう語ったのです。

内村は、人間が後世に遺すことのできる、誰にでも遺せる、利益ばかりで害のない遺物として「高尚なる勇ましい生涯」を挙げ、それは、この世の中は悪魔が支配する世の中ではなく神が支配する世の中であり、失望ではなく希望、悲嘆ではなく歓喜の世の中であると信じ、その考えを生涯で実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去ることだと述べています。(内村鑑三『後世への最大遺物』より要約)

つまり、神様と共に歩んだ人生を通して、

「神様は生きておられる」

「希望を捨てる必要はない」

ということを、私たち自身の生涯をとおして次の世代に示すこと。これこそが、後世に残す最大の遺産なのです。

イエス様は、私たちが「実を結び、その実が残る」ようにと願っておられます。

バルジライも、危険を恐れずダビデを助け、その忠実な行いの実が子どもや子孫にまで残されました。彼の判断は後の世代に大きな祝福をもたらしました。

内村鑑三は、それを「後世への最大の遺物」と呼びました。つまり、私たちが信仰をもって生き抜いた歩みそのものが、次の世代への贈り物になるということです。

皆さんがこれまでの人生で神様からいただいた恵み、それを通して結んだ信仰の実こそが、次の世代に伝えられる宝物です。

敬老の日を迎えた今日、その歩みを振り返りながら、「神様は生きておられる」「希望を捨てる必要はない」という証を、どうか後の世に残していただきたいと思います。

そして、その一人ひとりの証しが、若い世代を励まし、教会を支え、主の栄光を表すものとなりますように。

主の豊かな祝福を心からお祈りいたします。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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