キリストのうちにある勝利

聖書箇所:ヨハネ16:20〜33

説教者:高橋堅治

先週、顧問牧師から、幼子サムエルが預言者として成長していく過程を学びました。預言者とは、神様の言葉を人々に伝える人物であり、相手が誰であろうと、神様が言われる厳しい言葉を伝えなければなりません。また、この預言者サムエルが成長するのに、ハンナ、エリという人々の支えが必要でした。このように、預言者もひとりで育つことはできないのです。救いも、成長も、私たちがチームとして成長していくことが大切なことを知らされます。

今日も、ヨハネの福音書から学びます。今日は前回に続き16章です。この16章は、過越しの祭りの出来事であります。過越しの祭りの食事は、13章から始まり、実にレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」の出来事でもあります。すなわち、十字架に架けられる前日の夜、食事中にイエス様が弟子たちの足を洗うことから始まります。イエス様は「ご自分の時」、十字架の受難が来たことを自覚され、弟子たちへ告別の話をされました。そして、この16章をもってそれが終わるのです。17章では、イエス様の祈りが記され、18章はいよいよ十字架の受難が始まるのです。

1.悲しみが喜びに変わる

16:20 まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
16:21 女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。
16:22 あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

20節には「まことに、まことに、あなたがたに言います」とイエス様は語られております。この「まこと」とは、アーメンという意味で、イエス様がとても大切なことを話されるときに用いられました。その大切なこととは、「あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます」です。これから、弟子たちは泣き、嘆き悲しむ、一方で世の中の人々は喜ぶようになるというのです。

何を表しているのでしょうか。そうです、イエス様の受難です。イエス様は捕らえられ、一方的な裁判によって死刑となり、痛ましい鞭に打たれ、最後に十字架上で死なれるという受難を受けるのです。弟子たちは逃げ、そして嘆き悲しみました。一方で、人々はイエス様が裁かれ殺されることを喜んだのです。イエス様は、このようなことが起こることを弟子たちに伝えたのです。

イエス様は、続けて、「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」と言いました。悲しみが喜びに変わる理由は、「わたしは再びあなたがたに会」うからだというのです。

そして、この喜びは、「あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」と言われるほど、大きな喜びであり、しかも誰もその喜びを奪うことができないほどだというのです。

このことを、イエス様は、ちょうど、女性の出産のようだと譬えています。「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません」。私はもちろん体験したことはありませんが、あるお母さんに、なぜ、とても痛い経験をしても、子供を何度も生むのかと聞いたとき、子供が生まれたときに潮が引くように痛みが去っていくからだと聞いたことがあります。そして、その一時的な苦しみに勝る喜びがあるからだというのです。イエス様も「ご自分の時が来た」と自覚され、十字架の苦しみの後にある喜びを待ち望んでおられました。実に、十字架の苦しみの後に、イエス様は復活され、弟子たちに出会い、彼らに聖霊をお与えになりました。それは、父なる神様の大きな御心が成就したときでもありました。

十字架と復活とは、私たちにとって、罪の赦しを与え、永遠のいのちを保証するものであります。すなわち、どんな罪であってもイエス様の十字架の贖いは私たちを無罪とします。そして、イエス様の復活は、私たちに永遠のいのちをもたらし、終わりの時に、私たちも復活する希望をもたらしたのです。

ヨハ6:40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。

このイエス様にすがる者には、神様は永遠のいのちを与えて下さるのです。私たちにとって、これ以上の希望と喜びはありません。

2.イエスの名によって祈る

ヨハネの福音書16章23〜28節をお読みください。「わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。」(16:23)、「求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(16:24)と語られています。

復活のイエス様によって、弟子たちは大きな喜びを頂くことを約束されました。しかし、神様が与えて下さる喜びは、それだけではありません。それは、「わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます」という約束です。

それまでは、弟子たちは「わたしの名によって何も求めたことがありません」でした。すなわち、父なる神様へ祈り求める方法がわからなかったのです。実際に、創造主と人類は、アダムとエバによる堕落以降、大きな隔たりが生じ、人は神様から遠い存在となりました。大胆に神様に近づく道は未だ開かれておらず、ただ、人々は、預言者を通して、神様を知り、隔たりの中から祈っていました。

しかし、イエス様の十字架の死と復活により、父なる神様と私たちの関係は変わりました。すなわち、

エペ1:5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

父なる神様は、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子に」されたのです。イエス様の十字架による罪の赦し、復活を通して、私たちは父なる神様の子にされたのです。私たちは子どもだから、「父ご自身があなたがたを愛しておられ」、子供の願いを親が応えるように、父なる神様は、子どもとなった私たちの願いに応えて下さるのです。それは、父親が子どもの喜びを喜ぶように、「あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです」。

私たちは、お祈りのときに、「イエス様のお名前によって祈ります」と最後に言うときに、このことが何を意味しているかをご存じでしょうか。

イエス様は、「あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません」と言われています。私たちの祈りを、イエス様がとりなしてくださるのではないというのです。父なる神様の横で、怒っておられる神に、「まあまあ、そう言わずにかなえてやってください」というのではありません。「イエス様のお名前による」とは、イエス様が父なる神様に助言を頂くことではなく、既に完成した十字架の贖いは、今も私たちが無罪であること、それどころか、贖いによって、私たちを愛する子どもとされていることを表します。すなわち、「私はあなたの愛される子なのです」と言うことと同じ意味です。

だから、イエス様の名によって、私たちは父の子どもである身分を頂き、大胆に父なる神様に求めるのです。これから、私たちが祈り、「イエス様のお名前によって」という時、一度、そこで思いめぐらしてみてください。私は、いま、遠慮がちにお願いしているのではなく、父なる神様に愛された子どもとして、父に語りかけているのだと。

3.キリストにある平安

ヨハネの福音書16章29〜33節をお読みください。弟子たちが「あなたが神から来られたことを信じます」と言うと、イエス様は「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と言われました(ヨハネ16:30, 33)。

弟子たちはイエス様の話を聞き、イエス様に対して、「私たちは、あなたが神から来られたことを信じます」と信仰を告白しました。しかし、イエス様は、弟子たちの自信の危うさを見抜き、直ぐに訪れる決定的な試練に備えさせたいと考えました。彼らは感情が高ぶった状態であり、それが良い信仰だと考えていたかもしれません。ところが、この後、イエス様が捕えられたとき、彼らのイエス様に対する信仰は簡単に崩れ、イエス様から逃げ去ってしまいました。

私たちは、集会で聖書の話を聞いたとき、「あぁ、恵まれた」と言って、高揚感でいっぱいになることがあると思います。でも、その高揚感は長続きしないのではないでしょうか。

私にはこんな苦い体験があります。松原湖聖会に参加し、終わった直後、凄く心身が充実し高揚感があり、信仰のためなら自分は何でも出来てしまうような気分になったことがありました。ところが、その気持ちは幾日も持ちませんでした。喜びは消え去り、なんて自分はダメなんだろうという挫折感でいっぱいになりました。再び、喜びを得ようと、集会のテープを聞いたりしましたが、やはりダメでした。まさに、上がったり、下がったり、不安定な信仰です。

イエス様は、弟子たちに、彼らの信仰の危うさを知らせます。

「見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。」(ヨハネ16:32)

今、「あなたが神から来られたことを信じます」と言ったあなたがたは、直ぐにわたしを捨てて行ってしまうのだと言うのです。でも、そのような彼らに、イエス様は次のように言うのです。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)

イエス様は、「わたしにあって平安を得るため」だといいます。そして、彼らの行く手に苦難があることを認めながら、「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と言われました。

信仰が危うい弟子たち、イエス様を一人残して逃げてしまう弟子たち、このような弟子たちに必要なことは、弟子たちの信仰や姿勢ではありません。ただ、イエス様が「すでに世に勝」ったという事実です。この「世に勝ちました」という意味は、この世に対して、勝利し、それが今も続いているということです。ここに、平安があり、喜びがあります。弟子たちの状態ではなく、イエス様が勝利され続けているという事実です。

私たちは、信仰の状態を感情の上がり下がりでみてはいけません。また、私たちが弱さのために信仰で失敗したりしてしまうことを悔やむ必要はありません。弟子たちの失敗を知っていたイエス様は、私たちの失敗を知っておられるはずです。弟子たちの信仰の危うさを知っていたイエス様は、私たちの信仰の危うさもご存じのはずです。

では、私たちは何を見ればよいのでしょうか。「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」です。イエス様は、十字架の死から復活され、勝利を手にされました。私たちがどんな状態であろうと、イエス様は私たちを無罪とし、私たちに永遠のいのちを与えて下さるのです。また、私たちがたとえ、小さくて、弱くて、愚かな者であっても、私たちを父なる神様の子どもとして扱ってくださるのです。

Ⅰヨハネ5:4 神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

かつてアメリカで大統領の側近として権力の中心にいたある人物は、事件によって人生が崩れ、罪と向き合う中でキリストと出会い、権力や名声を追い求める道から、囚人やその家族に仕える道へと歩みを変えました。この人は「世の勝者」ではなく、キリストによって「世に勝利した人」と言えるでしょう。

聖書が言う「世」とは、単にこの世界のことではありません。私たちから喜びを取り去り、不安と恐怖と死をもたらすもの、また、この人物を捕らえていたような権力や名声、自己保身で人を縛るもの、それが「世」です。そして「神などいない」と言い、私たちの信仰を蔑み、「ほら見たことか」と敗北感を指し示すのです。私たちの主であるイエス様は、十字架によって、世に勝利されました。そして、このイエス様を信じる私たちも、世に勝利する者として下さったのです。もはや、自分の危うい信仰や生き方を見るのではなく、この世の価値観に左右されず、今も勝利し続けておられるイエス様にのみ目を止めて歩みたいものです。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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