神の家族

聖書箇所:ピレモン1〜25、エペソ2:19

説教者:高橋堅治

先週、サムエル記4章から、イスラエルがペリシテ人との戦いに勝利するために、神の箱を持ってきたことを学びました。神の箱を持ってきたにも関わらず、彼らは負けてしまいました。いったい、なぜ、彼らは負けたのでしょうか。先週の説教者は傲慢という言葉を使っておられました。それは、神の箱を自分たちのために利用しようとしたからです。私たちは、まず、神様のお心を伺う必要があります。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)

とある通りです。そうでなければ、私たちは傲慢なのかもしれません。

さて、今日も、先月に引き続き、対話型説教を行いたいと思います。前回もお話ししましたように、対話型説教とは、イエス様や使徒パウロが実際に行われた方法であります。長年、プロテスタント教会では説教者による一方的な説教が行われていましたが、近年、より深く考え、気づきを得るために行われている方法です。最初に聖書の御言葉を共に学び、その御言葉を考え、気づきが与えられるならば幸いです。

前月の振り返り―「ひとりの友となる」

6月の第四礼拝では、ルカの福音書19章ザアカイの物語から、「ひとりの友となる」ことについて学びました。思い起こしてみてください。ザアカイはエリコの町にいた取税人のかしらでした。彼は当時、ローマ帝国に納める税金を同胞のユダヤ人たちから徴税していたのです。彼は人々から嫌われました。このエリコの町にイエス様一行が来られた時、彼はイエス様を見ようといちじく桑の木に登りました。通りかかったイエス様は、ザアカイに目を止め、彼の友になりました。その結果、ザアカイは神様に立ち返ったのでした。

前回は、このイエス様の姿を学び、私たちも、友になることができる人がいることを学びました。もし、前回のときに、促された友になるべき人物に対して、この一か月の間に、何か行動を起こしたことがあるでしょうか。もし、まだ、という方がおられたら、まだ遅くはありません。神様があなたの背中を押してくださるはずです。

家族-父なる神との関係

さて、1年半前の部会で、「あなたにとって、杏の里教会はどのようなところだと思いますか」ということを聞きました。皆さんのご意見は、「優しい教会、家族のような愛の満ちた教会、温かい教会、家庭的、仲の良い、痛みを知る、利口な人が多い、ひとつになりつつある、誰でも受け入れる、居場所がある、家族のような教会、どんな人をも受け入れる」というものでした。あれから、1年半が経ちましたが、現在の杏の里教会は、皆さんにとって、どうでしょうか?

エペソ人への手紙の2章19節では、パウロはこのように言っています。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

このあなたがたというのは、エペソの教会の人々でした。彼らは、以前、神様に見向きもされず、救われることなく、自らに対してはなんの保証もありませんでした。しかし、彼らはイエス・キリストを信じたとき、神様は彼らも神の子どもとし、神の家族に招かれたのです。

私たちも同様です。私たちは、あるとき、イエス・キリストに出会いました。そして、私たちはイエス・キリストが私のために、十字架上で死なれたことを知りました。イエス・キリストによって、罪を赦して頂き、そして、イエス・キリストが死から蘇られたように、私たちも復活の約束を頂いたのです。それこそ、決して死なない、永遠のいのちの恵みであり、神の子どもとさせて頂いたのです。

私たち一人ひとりは、神様の子どもです。だから、私たちは、神様にあって家族と言えます。だから、1年半前に、皆さんが「家族のような愛が満ちた、温かい、家庭的」というのは本当の事なのです。

では、家族とは何でしょうか。

広辞苑には、「夫婦の配偶関係や親子・兄弟の血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団」とありました。大辞林には、「夫婦その血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団」とありました。

確かに血縁関係は切っても切れない関係かもしれませんが、血縁関係がなくとも家族があります。里子による親子関係は家族ではないでしょうか。また、家族であっても、仕事などの理由のために、共同生活が出来ない状態であっても、大切な家族はいます。私の家族の中にも、仕事のために離れて暮らしている者がいますが、私にとって大切な家族なのです。このようなことから、ひとことで家族と言っても、一括りできるものではないのです。

ある医師は、家族について、このように言われました。

「たとえ期待が裏切られたとしても、その人と一緒にいることを選ぶのが、家族なのではないだろうか」

私は、幼い頃、家族をこんな風にとらえていました。それは、「たとえ、喧嘩をしても、時間が経てば、仲直りをする」言うことを聞かずに、母親から叱られ、「お母さんなんて大嫌いだ」と言って口を利かなくなることがあっても、しばらくすると、いつのまにか、関係が戻る。そして、そのことが何度も繰り返されても続くという関係です。

たとえ、兄弟喧嘩をして、ずっと口をきかない場合もあるかもしれませんが、家族ならば、必ず、いつか関係が戻ると信じられることです。そこに、繰り返し行われる行為があります。それは赦しです。

天の父なる神様は、イエス・キリストによって私たちをご自身の子どもにして下さったのです。

「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:5)

私たちは、神様の子どもとされたのは、父なる神様が私たちに対して「たとえ期待が裏切られたとしても、その人と一緒にいることを選」んで下さったからではないでしょうか。この医師の家族についての言葉に、私たちと父なる神様の関係は成り立ちます。すなわち、私たちが何度、神様の期待を裏切ろうとも、私たちの父は、いまも聖霊によって私たちと一緒にいることを選ばれています。

家族―兄弟姉妹の関係

兄弟姉妹の関係について、ピレモンへの手紙から学びます。ピレモンへの手紙とは、わずか25節からなる短いパウロの手紙です。

この手紙は、当時、コロサイの教会で自宅を家の教会として提供していた裕福なピレモンに対して、ローマで囚人として投獄されていたパウロが書いた手紙です。それは、ピレモンから逃亡した奴隷オネシモについて書いたものです。

オネシモは、ピレモンの奴隷でした。オネシモは主人ピレモンの財産を盗んで、逃げたのです。そして、コロサイからローマまで徒歩で3ヶ月もかかる道のりを逃亡奴隷として逃げ、ローマで捕まり、監獄に入れられたのです。ところが、同じ監獄にパウロが投獄されていました。パウロはイエス・キリストの証人として投獄されていたのです。このオネシモは、パウロに出会って、イエス・キリストを信じ、獄中でパウロに仕えるようになりました。パウロは、オネシモがパウロと深い親交がある主の兄弟ピレモンから逃亡した奴隷であったことを知りました。

そこで、パウロは、ピレモンに手紙を書きました。それは、オネシモを赦し、愛する兄弟として受け入れるように願う手紙です。なぜなら、当時、逃亡奴隷はローマ帝国の法律で重罪であり、主人は逃亡奴隷を死刑にすることができました。

このピレモンへの手紙で、パウロがオネシモのために、ピレモンに示したことは次の3点でした。

1. オネシモが盗んだ財産(罪)は、パウロ自らがすべてを償う
2. ピレモンは、救いのためにパウロに霊的な負債を持っていることを伝え、しかし、主にある厚意を受けたいと願う
3. パウロ自身を迎えるように、オネシモを迎えてほしい(パウロとオネシモは同じ)

パウロはどうして、ここまでオネシモのために尽くすことができたのでしょうか。それは、パウロにとって、ひとつひとつがイエス様から受けたことだからです。パウロは、自らを「罪人のかしら」と呼んでいますが、彼はイエス様に出会う前にクリスチャンたちを徹底して迫害しました。

「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。」(Ⅰテモテ1:13)

「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15)

これだけのことをしたのに、イエス様はパウロを赦しました。彼はイエス様自らがすべてを償ってくださったからです。だから、パウロは自ら償うことを選びました。

そして、パウロ自身は、イエス様によって救いという無償の恵みをいただいたのです。そして、そのために、パウロは進んで福音を伝える者となりました。

「私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。」(ローマ1:14)

パウロを通して救いの恵みを受けたピレモンも、主にあってオネシモを進んで赦す者になって欲しいと願ったのです。

パウロは、人々からキリストの使者として迎えてもらいました。それは、その使者を遣わしたキリストを迎えたのです。

「そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。」(ガラテヤ4:14)

このように、パウロはそれまでイエス様から頂いた赦しと恵みをそのまま、ピレモンに対して実施したのです。パウロにはイエス様が自分にして下さったことを、オネシモに対して行ったのです。

それは、イエス様がパウロをご自身の兄弟として下さったのと同じように、イエス様を受け入れた逃亡奴隷オネシモがピレモンの真の兄弟となるためです。

これは、パウロがオネシモに対する深い愛を実践した手紙でした。それは、

「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。」(ピレモン11〜12)

オネシモがイエス様に愛されたパウロそのものだったのです。

私たちは兄弟姉妹を愛するとはどうしたらいいでしょうか。イエス様が私を愛して下さったように、兄弟姉妹を愛することです。

しばらく考えてみましょう

A.父なる神様との関係

「たとえ期待が裏切られたとしても、その人と一緒にいることを選ぶのが、家族」

神様の期待を裏切ってしまうことはありましたか?あなたはどれほど裏切っても、赦して下さる神様が一緒にいることを選んでくださっていることを信じますか?

B.兄弟姉妹

パウロは、イエス様が自分にして下さった愛をオネシモにしました。一人の兄弟姉妹(特に関係がぎくしゃくしている方)に対して、イエス様がして下さった愛をどう示すことができますか?

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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