ひとりの友となる―愛から始める伝道

聖書箇所:ルカ19:1〜10

説教者:高橋堅治

1.伝道とは?

皆さんは「伝道」とはどういうことと思っておられるでしょうか。私は、長いあいだ、伝道とは「聖書のみことばを用いて、イエス様のことをしって頂くこと」だと考えていました。これまでに私たちの教会でも、伝道集会を開き、家族や知人、友人を誘ってきました。特に、以前にシンガポールチームの方々が来て下さり、一緒に、私たちの地域を一軒一軒回って、イエス様のことを伝えたことがあります。私は、当時、ある方と一緒にある団地を回ったことがあります。二人で回った後、私もその方ももうやりたくないという気持ちでした。

一方、私は家族に、イエス様のことを知って欲しかったのは事実です。しかし、聖書のことを彼らに言うと、その場が険悪な雰囲気になり、彼らも二度とごめんだというのです。

皆さんも、伝道と聞くと、辛い体験を思い起こすのではないでしょうか。

私はずっと、彼らに対して、自分の熱心さや伝えるテクニックが悪いのだと思っていました。けれども、違ったのです。足りなかったのは、伝道に対する熱心さやテクニックではなく、愛そのものでした。

やがて、私は、「生活伝道」を知りました。聖書のことを話すことをやめて、ただ愛することから始めることにしました。彼らを愛することから始めたとき――神様が働いてくださいました。あれほどかたくなだった家族が、私の祈りを、聞き、受け止めてくれるようになったのです。

そして私は気づきました。変えられていたのは、彼らではなく、私自身でした。私は、御言葉を「伝える」ことにではなく、相手を「愛する」ことに、本当の喜びを知りました。

聖書のことを伝えようとすれば、人は逃げていきます。けれども、人は愛されたとき、心を開くのです。皆さんは『伝道とは』と聞かれたとき、どのように思いますか?嬉しい思いですか、それとも辛い思いですか?

今朝のザアカイの出来事は、イエス様の伝道の原点を、私たちに教えて下さいます。

2.ザアカイの渇き

ユダヤのエリコという町に、ザアカイという取税人のかしらがいました。取税人とは、ユダヤ人を支配したローマ帝国のために同胞のユダヤ人から税金を取り立てた人々を言い、ザアカイは、そのかしらであり、同胞のユダヤ人から搾取した税金によって財を成した男でした。彼は、お金儲けの上では、成功者でした。けれども町の人々は彼を憎み、「罪人」と呼んだのです。その結果、彼はユダヤ教の交わりからも締め出され、神に近づく道さえ断たれたように感じていたと思われます。お金では、決して埋められない溝が、彼の中にあったのです。おそらく、彼はただ、神のもとに帰りたかったけれど、どうすればよいのかも分からなかったと思います。

それだから、彼は、イエス様の一行が通られると聞いたとき、群衆をかき分け、走って、いちじく桑の木によじ登ってでも、イエス様を見ようとしました。普段から威張っていた取税人のかしらであるザアカイが、走っていって木によじ登る。体裁をかなぐり捨てた、心の渇きが彼にありました。

3.立ち止まった主

イエス様は、その日エルサレムへ向かう道の途上、エリコの町を通り過ぎようとしておられました。エリコの人々は、イエス様の噂を聞き、多くの人々が一行を見ようと集まっていました。だから、通り過ぎても、誰も不思議には思わないのです。ちょうど、そのとき、イエス様は、立ち止まられた。上を見上げ、ひとりの男の名を呼ばれたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(ルカ19:5)

イエス様は、それまで誰も、その名を呼ぼうとしなかった男の名を呼ばれたのです。そして「あなたの家に泊まる」と言われた。これは、イエス様が友となるということです。ザアカイと同じ食卓を囲み、ザアカイと時間を共にする。イエス様は、ザアカイの友となることを、自ら願われたのです。

当然、人々はつぶやきました。「あの人は罪人のところに行って客となった。」 イエス様は、その非難を引き受けてでも、たった一人のところへ行かれました。ここに、イエス様の愛があり、忍耐があるのです。

イエス様は、誰も名を呼ばなかった一人の名を呼ばれました。あなたは、誰かに名前を呼ばれて、ふと我に返った経験がありますか。

4.ザアカイの回心

イエス様の愛を受けたとき、ザアカイは変わりました。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」(ルカ19:8)

四倍――これは、律法が盗人に科した最も重い償いの基準です。自分から告白して返すだけなら、元本に五分の一を足せば足りました(レビ記6:5)。けれどもザアカイは、その最低限ではなく、最も厳しい基準を、自分自身に課したのです(出エジプト22章1節 人が牛あるいは羊を盗み、これを屠るか売るかした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一匹を羊四匹で償わなければならない)。

するとイエス様は、宣言されました。「今日、救いがこの家に来ました。」(ルカ19:9)ザアカイ一人にではありません。彼の不正に苦しんできた家族にも、神との関係の回復が、社会の中での回復が、及んだのです。

そしてイエス様は言われます。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)

失われた者――神に背を向け、滅びに向かう人。けれどもイエス様は、その一人を捜し、立ち止まり、友となり、その人生を、本来造られた目的へと回復させてくださるのです。

皆さん。私たちのうちにおられるキリストは、今も、失われた一人を捜しておられます。伝道とは、ただ、聖書の御言葉を人に伝えることではありません。イエス様のように、一人の友となり、その人のニーズを知り、そのために自分ができることを相手に行うことです。そして、慌てず、あきらめず――死ぬまで関わる覚悟をもって。それが、愛するということ。そして愛することから始めることが、伝道なのです。相手が心を開いたとき、御言葉が届く道が、神様によって開かれます。

今、あなたの周りに、ザアカイのように『木に登ってでも』と渇いている人がいるでしょうか。その方の名前を思い浮かべられますか。その方のために、今あなたができる『愛のひとつ』は何でしょう。

皆さんがその方は難しいなと感じてもかまいません、むしろ、難しいという方があなたの友になる方かもしれません。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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