悲しみに寄り添う王イエス

聖書箇所:ダニエル2:31〜44、ルカ2:1〜7

説教者:高橋堅治

聖書は、私たちの地上の命には限りがあるけれど、イエス様にある命は永遠であると語っています。死は、私たちにとって悲しい「別れ」ですが、イエス様を信じる者にとっては、決して「終わり」ではありません。天国での「再会」という確かな約束があるからです。

今日は、待降節(アドベント)の第三週です。 私たちが待っているお方、イエス・キリストは、この「永遠のいのち」を与えるために来てくださった王様です。

前回、ある牧師先生から、神様がご自分に似せて人間を造られたこと、しかし人間が罪によって離れてしまったことについてお話がありました。 神様は、私たちを見捨てず、再びご自分のもとに取り戻すために、壮大な計画を立てられました。 アブラハムという一人を選び、その子孫を通して歴史を導き、やがて来るべき「救い主」のために舞台を整えてこられたのです。

今日の聖書箇所は、その救い主がお生まれになる少し前、歴史が大きく動いていた時代の話です。 神様がどのようにして「まことの王」を送る準備をされたのか、ご一緒に見ていきましょう。

1.ネブカドネザルの夢

ダニエル書2章31〜44節をお読みください。「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国はほかの民に渡されず、反対にこれらの国々をことごとく打ち砕いて、滅ぼし尽くします。しかし、この国は永遠に続きます。」(ダニエル2:44)

イエス・キリストがお生まれになる約600年前のことです。バビロンという巨大な国を治めていたネブカドネザル王は、ある不思議な夢を見ました。

その夢には、巨大な像が現れました。その像は、頭が金、胸と腕は銀、腹と太ももは青銅、すねは鉄という、4つの異なる材料でできていました。 すると突然、人手によらず切り出された「一つの石」が飛んできて像の足元を直撃し、像は粉々に砕け散ってしまいました。さらに驚くべきことに、像を砕いたその石は、見る見るうちに大きな山となり、全土をおおったのです。

当時、捕囚の身であった預言者ダニエルは、この夢の意味を王に解き明かしました。「王様、これはこれから歴史上に起こる大きな国々のことです」と。

ネブカドネザル王は、半信半疑だったかもしれません。しかし、今の私たちは歴史を振り返ることで、ダニエルの予言がいかに正確だったかを知ることができます。 金はバビロン帝国、銀はメド・ペルシャ帝国、青銅はギリシャ帝国、そして鉄はローマ帝国を見事に表していたのです。

そして、ここからが最も重要なポイントです。ダニエルは、その後に現れる「石」についてこう語りました。 「天の神は、一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、ほかの民に渡されることもありません」

つまり、鉄の国であるローマ帝国の時代に、人間の力によらない「新しい国」が始まり、それが永遠に続くというのです。 2000年前のローマ帝国の時代に現れ、他の国々が滅びゆく中で、今なお続き、世界中に広がっている国……。皆さんは、それが何かお分かりでしょうか。

そうです。その「石」こそが、イエス・キリストであり、国は、イエス様が始められた「神の国」なのです。

ローマ帝国以後の国々は、歴史が語るように、興っては消え、領土を奪い合ってきました。しかし、イエス様が起こされた神の国には、国境線も、目に見える領土もありません。 最初は小さな石のようでしたが、今では福音を通して人々の心の中に広がり、国境を越えて全世界を満たす「大きな山」となっているのです。

2.ふたりの王

ルカの福音書2章1〜7節をお読みください。「男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(ルカ2:7)

ルカの福音書2章の冒頭には、当時の世界を支配していたローマ皇帝、アウグストゥスが登場します。 ここでは、この「皇帝アウグストゥス」と、同じ時代に生まれたもう一人の王、「イエス・キリスト」。この対照的な「二人の王」について共に考えたいと思います。

まず、一人目の王、アウグストゥスです。 彼は紀元前63年にオクタウィウスという名で生まれ、ユリウス・カエサルの養子となり、数々の戦争に勝利してローマ皇帝となりました。「アウグストゥス(尊厳ある者)」という称号は、その栄光を象徴しています。

当時のローマには「ヤヌス神殿」があり、戦争中は扉が開かれ、平和な時だけ閉じられることになっていました。人々は「誰がこの扉を閉じてくれるのか」と平和を待ち望んでいましたが、戦乱は約400年も続き、扉は開いたままでした。 しかし、アウグストゥスは圧倒的な軍事力で敵を制圧し、紀元前29年、ついにこの扉を閉じさせたのです。 人々は熱狂しました。彼こそが戦争を終わらせた「救い主」であり、「平和の君」だとあがめたのです。

この「地上の平和」を実現した王は、その権力を維持し、税を集めるために、全世界に向けて「住民登録」を命じました。 この命令により、名もない一組の夫婦が旅をすることになります。それが、ヨセフとマリアでした。

ここで、二人目の王の物語が始まります。 皇帝の命令に従ってベツレヘムへ辿り着いたマリアは、そこで男の子を産みました。しかし、この王の誕生には、宮殿もなければ、温かいベッドもありません。飼い葉おけの中でした。 聖書はこう記します。「宿屋には、彼らのいる場所がなかったからである」と。

当時のベツレヘムは小さな村でしたが、ダビデの家系の人々が集まったため、どこも満室だったのでしょう。しかし、ここにはもっと深い意味が隠されています。 「彼らのいる場所がなかった」。 これは単に部屋が空いていなかったということ以上に、「この世界には、神の御子をお迎えする場所が用意されていなかった」という悲しい現実を表しています。

後に、大人になられたイエス様はこう仰いました。 「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」(マタイ8:20) また、十字架にかかる前にはこう宣言されました。 「わたしの国は、この世のものではありません。」(ヨハネ18:36)

一人目の王アウグストゥスは、豪華な宮殿に住み、全世界を自分の「領土」として登録させました。 しかし、二人目の王イエス様は、この地上に自分の家すら持たず、旅人のように過ごされました。なぜなら、イエス様はこの世の支配者になるために来られたのではなく、もっと別の、永遠の国を建てるために来られたからです。

この「二人の王」は、国の広げ方も正反対でした。 アウグストゥスをはじめとする地上の王たちは、「剣と力」によって国を広げました。それは、イソップ物語の「北風と太陽」における、相手を屈服させる「北風」のような支配です。人々は恐れ、仕方なく従います。 しかし、イエス様の国は違います。 イエス様は「剣」ではなく、「愛」によって国を建てられます。それは、凍えた旅人の心を溶かす「太陽」のような支配です。

イエス様は、神としての特権をすべて捨て、私たちと同じ低い姿になられました。そして、他人の血を流して平和を作るのではなく、ご自分自身の血を十字架で流すことによって、私たちと神様との間に本当の平和を打ち立ててくださったのです。

聖書は語ります。 「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6〜8)

アウグストゥスは敵を滅ぼすことで平和を作りましたが、イエス様は敵(私たち罪人)を赦すことで平和を作られました。十字架の上で、自分を殺そうとする人々のために祈られたのです。 「父よ、彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)

力で支配する王の国は、いつか滅びます。ローマ帝国も今はもうありません。 しかし、愛と犠牲によって建てられたイエス様の国は、今も人々の心の中に広がり続けています。

イエス様は今、私たち一人ひとりを、この「愛の国」へと招いておられます。 力におびえることなく、ただ神様の愛に包まれて生きる国です。 この、まことの「平和の君」であるイエス様を王としてお迎えできることは、私たちにとって何という幸いでしょうか。

3.悲しみに寄り添う王、イエス・キリスト

イエス・キリスト、たったお一人から始まった「神の国」は、やがてローマ帝国の中で、無視できないほど大きな広がりを持つようになりました。 ある説では、ローマ帝国の人口の約半分が、やがてキリストを信じるようになったとも言われています。

なぜ、剣も武力も持たない彼らが、それほどの影響力を持ったのでしょうか。 それは、クリスチャンたちが迫害や死の恐怖の中にありながらも、互いに助け合い、愛し合い、希望を持って生きていたからです。 人々は彼らの姿を見て、不思議に思いました。 「どうして彼らは、死を前にしても喜んでいられるのか」 「彼らには、私たちにはない『本当の希望』があるのではないか」

彼らがそのように生きることができた理由、それは「私を命がけで愛してくださる王」を知っていたからです。 「王様が私を愛してくださっている。だから私も、王様が愛しておられる隣人を愛そう」。この愛の連鎖こそが、神の国の本当の姿です。

しかし、私たちの悲しみや痛みを、私たち以上に深く知っておられる方がいます。それが、私たちの王、イエス・キリストです。 イエス様は神であられたのに、その特権を捨てて人となり、私たちと同じ弱さを身にまとって生きてくださいました。 イエス様もまた、地上の生涯において、育ての父であるヨセフとの別れを経験されたと言われています。残された母マリアと家族を支えながら、大工として働き、苦労の多い人生を歩まれました。

それだけではありません。イエス様は、私たちのすべての罪と痛みを背負い、身代わりとなって十字架にかかってくださいました。 だからこそ、このお方は、高いところから見下ろす王様ではありません。私たちの涙も、痛みも、喪失感も、すべてをご自分のこととして分かってくださる、「共に泣いてくださる王様」なのです。

聖書はこう語ります。 ヘブル人への手紙4章15節「私たちの大祭司(イエス様)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」

このイエス様の愛と慰めが、今、悲しみや痛みの中にある方々、そしてここに集うお一人お一人の上に豊かにありますように。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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