先週、召天者記念礼拝が行われました。礼拝堂の前には、亡くなられた方々の生前のお写真が飾られていて、いただいたしおりには、お名前や亡くなられた年月、年齢が書かれていたのです。そこには、全部で30名の方々のお名前がありました。
この30名の方々は、すべて杏の里教会の会員だったわけではなく、皆さんのご家族の方々も含まれていました。私は、この30名の方々のお名前を見て、「これこそが教会の本当の姿なのではないか」と思ったのです。教会に属する人は、日曜日の礼拝にいつも来ている人だけでも、会員名簿に名前が書いてある人だけでもないのだと感じました。
キリストの教会は、ギリシア語で「エクレシア」といいます。この言葉は教会堂そのものを指すのではなく、また、礼拝に出席している人だけを意味するわけでもありません。「エクレシア」とは「呼び集められた者たち」という意味で、キリストによって選ばれた人々のことなのです。
以前お見せしたこの図を覚えておられるでしょうか。これは教会を表したものです。白い点々は教会につながる人々を表しています。日曜日には教会堂に集まりますが、月曜日から土曜日までは、私たちは広い場所に点在しています。これが教会なのです。つまり、私たちが過ごす家庭、職場、学校といった日常の場所も、教会に含まれているということです。
先週のお名前が挙げられた30名の方々は、礼拝には出席されなかったかもしれません。しかし、これらの方々は、日常生活の中で、私たちによって教会に結びついていたのです。ですから、私たちの日々の生活がどれほど大切なのかを、改めて感じたのです。
1.神の国はどこに?
召天者記念礼拝では、私たちは「天国」について思いをめぐらします。多くの人は天国を、「死んだあとに行く場所」だと考えるのです。しかし、聖書では天国のことを「神の国」や「御国」と呼び、イエス様が語られた「神の国」は、それだけではないのです。
イエス様が宣教を始めるとき、最初に言われたのは次の言葉でした。
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)
また、イエス様が復活されたあと、弟子たちに現れたときにも、このように語られました。
「四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。」(使徒の働き1:3)
弟子たちも、同じテーマを語り続けたのです。
使徒の働き8章12節では、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝え、人々がバプテスマを受けたことが、28章31節では、パウロが少しもはばかることなく神の国を宣べ伝えたことが記されています。
これらを見ていくと、「神の国」は、「死んだあとに行く場所」というだけではなく、今生きている私たちが関わることのできる現実として語られていることが分かるのです。
パリサイ人の期待とイエス様の答え
ルカの福音書には、パリサイ人が「神の国」について質問した場面があります。
ルカの福音書17章20〜21節で、パリサイ人たちが神の国はいつ来るのかと尋ねると、イエス様は答えられました。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。……見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20〜21)
当時のユダヤ人は、「神の国」とは、キリストが来てローマ帝国からイスラエルを解放し、ユダヤの国が世界を支配するようになる、目に見える王国だと考えていたのです。そこには広い領土があり、キリストが王として座り、宮殿や政府があり、人々が守られ、豊かに暮らす――そのようなイメージでした。
しかしイエス様は、
「神の国は、目に見える形で来るものではありません」
「神の国はあなたがたのただ中にある」
と語られたのです。
ここから分かるのは、神の国はまず、人の心の内側や、人々の交わりの真ん中に現れるものだということです。
たとえ話に示された「神の国」の性質
イエス様は、たとえ話を使って「神の国」がどのようなものかを教えてくださいました。
まず、こう語られています。
神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。 マルコ4:26 (口語訳)
ここで「ある人」とはキリストのことで、「地に種をまく」とは、御言葉が人の心に入っていくことを表しています。つまり、神の国は、御言葉が語られるところから始まるということです。
さらに、
それ(神の国)はからし種のようなものです。 マルコ4:31
からし種はとても小さな種ですが、成長すると大きな木になります。神の国も同じで、最初は小さくても、だんだん大きく成長することを示しています。
また、
天の御国はパン種に似ています。 マタイ13:33
少しのパン種がパン全体をふくらませるように、神の国は周り全体に広がり、良い影響を与える力を持っているのです。
まとめると、
神の国は御言葉によって始まり、
小さく見えても育ち、
やがて周囲に大きな影響を与える。
イエス様は、このような 「見えないけれど、確かに広がっていく神の支配」 を神の国として語られたのです。
ダニエル書に預言された「永遠の国」
この「神の国」は、旧約聖書でも預言されています。ダニエル書にその内容が書かれています。
「天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく……この国は永遠に続きます。」(ダニエル2:44)
ダニエル書2章44〜45節をお読みください。
ここでは、「人の手によらない一つの石」から始まる国が、地上の大きな国々とはちがい、永遠に滅びることがない国として語られています。これは、イエス・キリストによって始められた 神の国=教会 を指していると理解できます。
つまり、神の国とは、
イエス・キリストによって始められ、神が支配される国であり、
キリストに呼び集められた人々の集まり=教会
だと言えるのです。
この国には、地上の国のような領土や政府の形はありません。しかし、2000年前から今まで、世界中に広がり続けている国なのです。
ひとつの「からだ」としての教会
世界にはたくさんの教会がありますが、聖書はそれらをまとめて「ひとつのからだ」と呼んでいます。
「からだは一つ、御霊は一つです。」(エペソ4:4)
エペソ人への手紙4章4〜6節、16節もあわせてお読みください。
このように、教会は、世界中にあるすべての教会が集まって、キリストをかしらとする「ひとつのからだ」になっていると語られています。
杏の里教会も、その「キリストのからだ」の一部分です。
世界のクリスチャン人口はとても多く、日本では少ないように見えるかもしれませんが、私たちは世界中に広がる神の国の一員なのです。決して小さな存在ではありません。むしろ、私たちは神のご計画の中で、大切な「部分」として置かれているのです。
日本の宗教観と「信仰なき所属」
日本では、宗教に関する統計を見ると、多くの人が神道や仏教の「信者」として数えられています。しかし、その多くは、檀家(だんか)や氏子(うじこ)などの制度としての所属によるもので、実際に強い信仰を持っているわけではないのです。
たとえば、
「初詣・クリスマス・仏式葬儀などはするが、特に信じてはいない」
「信仰は大切だが、どの宗教にも正式には属していない」
という人が多く、このような状態を「信仰なき宗教」「信仰なき所属」と呼ぶこともあります。これは日本の宗教観の特徴と言えるでしょう。
また、いろいろな調査によると、
「信仰心は大切」と考える人は日本人の60%と多いけれど、
実際にどこかの宗教に所属して、信仰生活を送っている人は全体の30%程度と少ない、
という現状が示されています。
しかし、その一方で、キリスト教については、統計に表れないところで、
「内心ではキリストを信じている」
という人が、一定数いることも分かってきています。
いわば、表には見えていない 『隠れクリスチャン』 が、少なくないということです。
神の国はどこにあるのか
イエス様の言葉にもう一度戻ってみましょう。
「見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)
イエス様は、「神の国」は、特定の建物や制度、あるいは宗教団体の名前によって決まるものではない、と言われたのです。
神の国は、イエス・キリストを信じる心、神の支配を受け入れたところから始まります。
たとえ檀家であるかどうか、氏子であるかどうかが周りによって決められていたとしても、神様がご覧になるのは、その人の心に「信仰」があるかどうかです。
聖書はこう語っています。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6)
つまり、神の国は、「見える宗教活動」よりも、神を信じて神に近づこうとする心の中に広がる現実なのです。
召天者記念礼拝では、すでに神の国に迎え入れられた方々のことを思い起こしました。今を生きている私たち自身も、「神の国はどこにあるのか」を考えたとき、それはキリストを信じる私たちのただ中にあるということを、改めて受け止めてみてはいかがでしょうか。
2.神の国の恩恵
では、神の国に属する人々は、どのような恵みを受けるのでしょうか。地上の国が国民に繁栄や安全を与えるように、神の国にも特別な祝福があります。パウロは、その中心を次のように語っています。
「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(ローマ14:17)
ローマの教会には、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがいました。異邦人は「何を食べても良い」と考えていましたが、ユダヤ人の中には律法に従って「野菜しか食べない」という人もいたのです。その違いから、異邦人の中にはユダヤ人を見下す人もいました。そこでパウロは、次のように強く戒めました。
「どうして、自分の兄弟を見下すのですか。」(ローマ14:10)
ローマ人への手紙14章13〜15節をお読みください。パウロは、「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません」と述べています(ローマ14:15)。
パウロは、「食べ物の問題」で兄弟を傷つけるのは愛ではない、と教えています。キリストがその兄弟のためにも死んでくださったのに、自分の自由のために相手をつまずかせてしまうのか――と、鋭く問いかけているのです。
このことから分かるのは、神の国とは、律法を守るかどうかといった外側の問題ではないということです。
ロマ14:17が示すように、神の国の本質は、
キリストの十字架による義(義と認められること)
神と互いの赦し合いによって生まれる平和
聖霊が心に与える深い喜び
にあります。
私たちは、「聖書の規則を守ったから神の国に入れる」のではありません。
イエス・キリストが十字架で代わりに死んでくださり、自分が赦され、愛されていると信じるとき、私たちは神の国に入れられるのです。
そのとき、聖霊が与えられ、食べ物や飲み物では決して味わえない、深くて確かな喜びで満たされるようになるのです。
飲酒の問題を通して示された「愛による自由の制限」
私は、顧問牧師が「飲酒をしない」と語られるのを聞くと、正直なところ複雑な気持ちがありました。というのも、以前に別の教会で「酒は悪魔の飲み物だ」と言われたことがあり、私はそれに反論した経験があったからです。聖書には、イエス様に対して「大酒飲み」と言う人がいたことや、当時の人々が普通に飲んでいたのは発酵したぶどう酒だったことが書かれています。そのため私は、「クリスチャンが飲酒すること自体は問題ではない」と考えていました。
しかし、今日の御言葉、
「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら…あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。」(ロマ14:15)
が、心に強く迫ってきたのです。
自分には自由がある。けれど、その自由によって兄弟姉妹をつまずかせるなら、それは愛ではない。
パウロのこの言葉を通して、私は大切な真理に気づかされました。
そこで私は、兄弟姉妹をつまずかせないために、できるだけ飲酒を控えることを決めました。今はノンアルコール飲料もいろいろあり、味の好みとしてはほとんど代わりになります。そして何より、聖霊が与えてくださる喜びは、飲酒による一時的な楽しさをはるかに超えるのです。
聖霊に満たされるときの大きな喜び
聖霊の働きは、聖書の中で「酔っている」と誤解されるほど、強い喜びと力を人々にもたらしました。「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」(使徒の働き2:4)
これを見た周りの人々は、驚いたり、またこう言って嘲りました。
「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。(使徒の働き2:13)
それほど、聖霊に満たされた弟子たちは、喜びと力にあふれていたのです。
パウロも次のように語っています。
「ぶどう酒に酔ってはいけません。……むしろ、御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)
パウロは、「お酒で気持ちよくなる」のではなく、聖霊によって心が満たされることが本当の喜びだと教えているのです。
神の国に入れられた人は、
キリストの十字架による赦し(義)
互いに赦し合うことで生まれる平和
聖霊が与えてくださる大きな喜び
という、この世のどんな楽しみよりも深く、心から満たされる祝福を受けるのです。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。