先週は、「わたしのうちのイエス・キリスト」というテーマで、イエス様の弟子についてお話ししました。
まずみなさんに聞きたいのですが、みなさんの心の中にイエス・キリストはいらっしゃるでしょうか?そして、イエス・キリストが自分の中におられることを意識していますか?
「クリスチャン」という言葉は、「キリストの弟子」という意味です。弟子とは、先生から直接教えや訓練を受ける人のことです。ですから、クリスチャンである私たちは、イエス・キリストが自分の中におられ、私たちを導いてくださるという意識を持つことが大切なのです。
私たちは、イエス様を神の子として信じて受け入れたときから、聖霊をいただきます。そして、その聖霊によってイエス・キリストが私たちの心の中に住んでくださるのです。だから、イエス様は私たちを導いてくださるだけでなく、時には励ましてくださり、また時には注意や叱責をしてくださることもあります。けれども、イエス様がいつも私たちと一緒にいてくださるとわかると、どんなに心強いことでしょうか。
今日は、「ヨハネの福音書」13章から学びます。
この13章には、イエス様が十字架にかけられる前の日、弟子たちと一緒に「過越の祭り」の食事をした「最後の晩餐」の場面が書かれています。この食事のあと、イエス様は「ゲッセマネの園」で捕まってしまうのです。
ヨハネの福音書13章には、イエス様が食事の途中で弟子たちの足を洗われたことが書かれています。また、イエス様はユダが自分を裏切ることを知っておられたのに、それでも最後までユダを愛されたことも書かれています。ユダが裏切りの行動を起こしたとき、イエス様は「ご自身と父なる神様が栄光を受けられた」と言われました。イエス様の言う「栄光」とは、イエス様が十字架にかけられることを意味しています。
そのあと、イエス様は弟子たちに次のように話されました。
「子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(ヨハネ13:33)
この言葉を聞いた弟子たちは、とても驚き、不安になりました。
1.主よ、どこにおいでになるのですか
ヨハネの福音書13章36〜38節をお読みください。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」とペテロが言うと、イエス様は答えられました。「まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(ヨハネ13:37〜38)
まず、弟子のペテロがイエス様に言いました。「主よ、どこに行かれるのですか。」それに対してイエス様は、「今は、あなたはわたしについて来ることができません」と答えられました。イエス様が行こうとしておられたのは、十字架の道でした。
けれども、ペテロはその意味をまだわかっていませんでした。ペテロは言いました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、命も捨てます。」
ペテロの気持ちは本当に純粋で、「どこまでもイエス様に従っていきたい」という強い思いでした。しかし実際に自分の命が危険になると、その思いは打ち消されてしまいました。
イエス様はペテロにこう言われました。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
この言葉はとても厳しく聞こえますが、もしイエス様がこのことをあらかじめ教えておかなかったら、ペテロは自分のしたことに深く傷つき、立ち直れなくなっていたかもしれません。
「ルカの福音書」には、イエス様がさらにペテロに次のように語られたことが書かれています。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31〜32)
イエス様は、ペテロが失敗してもまた立ち直ることをすでに知っておられ、ペテロのために祈っておられました。そして、立ち直ったあとには、他の弟子たちを励ますようにと託されたのです。一見、厳しい言葉のように思えますが、実はペテロが立ち直るために、イエス様は深い愛をもって配慮しておられたのです。
私たちも、ときどきペテロのように信仰が弱くなってしまうことがあります。それでもイエス様は、「あなたの信仰がなくならないように祈る」方なのです。
イエス様は、どこに行くのかを弟子たちにはっきりとは話されませんでした。それなのに、イエス様は弟子たちにこう言われました。
「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」(ヨハネ14:4)
すると、弟子のトマスが言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」(14章5節)
トマスは、弟子の誰もそのことを分かっていないと思っていたのです。そこでイエス様は答えられました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(14章6〜7節)
イエス様のこの言葉は、少し分かりにくいかもしれません。でも、これはイエス様がよく使われた「気づかせる教え方(コーチング)」なのです。つまり、すぐに答えを教えるのではなく、「すでにあなたは知っている」という前提で、ヒントを与えて気づかせる教え方です。
私たちがこのイエス様と弟子たちのやりとりを読むときも、トマスと同じように「どういう意味だろう?」と考えることでしょう。そのとき、イエス様の言葉の中に大切なヒントがあります。それは――「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」という部分です。
イエス様はこれまでにも、父なる神様のことを何度も弟子たちに話しておられました。イエス様を通してでなければ、父なる神様のもとへ行くことはできません。だからこそ、イエス様が「道」なのです。
そしてイエス様は言われました。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。」つまり、イエス様がどのような方かを本当に理解できれば、父なる神様のことも理解できる、という意味なのです。
イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。つまり、イエス様を通してでなければ、父なる神様のもとに行くことはできない、ということです。なぜなら、父なる神様の家には、イエス様を信じて従う者だけが入ることができるからです。ここでいう「真理」とは「神の真実」のことです。そして「いのち」とは、「ゾーエ」と呼ばれる永遠のいのちのことです。このイエス様という道以外には、ほんとうの真実も、永遠のいのちも得ることはできません。
イエス様は弟子たちに、「これからあなたがたは父なる神様を知るようになる」と言われました。すると弟子のピリポがこう言いました。
「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(ヨハネ14:8)
イエス様は答えられました。
「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうして『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(14:9)
ピリポは、「父なる神様を見たい」と願いました。しかしイエス様は、「もう長い間一緒にいるのに、まだ分からないのか」と言われました。つまり、弟子たちはまだ、イエス様がどなたであり、何のためにこの世に来られたのかを理解していなかったのです。
イエス様の「父」とは、この天地をつくり、すべてを支配しておられる創造主である神様のことです。その神様がイエス様をこの世界に送られました。イエス様は奇跡と御言葉を通して、ご自分が神の子キリストであることを人々に示されたのです。しかし、当時の弟子たちでさえ、そのことを完全には分かっていなかったのです。
これは、現代の私たちにも同じように語られています。イエス様は今も、私たち一人ひとりに問いかけておられます。「あなたは、わたしを誰だと言いますか。」
もし、あなたが「イエス様は神の子キリストです」と答えるなら、イエス様はこう言われるでしょう。
「あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」(マタイ16:17)
イエス様が神の子キリストであり、その父が創造主であることに気づいたとき、私たちは本当に幸せなのです。イエス様はこうも言われました。
「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」(ヨハネ14:11)
つまり、イエス様はご自身が父なる神様を表しておられることを信じなさい、と言われています。もしそれが信じにくいなら、イエス様の「わざ」、つまり行われたことを見て信じなさい、ということです。
では、現代に生きる私たちは、どのようにイエス様のわざを信じればよいのでしょうか。それは、イエス様によって多くの人の人生が変えられたという事実を見ることです。私たち自身もまた、イエス様によって変えられているのではないでしょうか。それだけでも十分に、イエス様を信じる理由になります。さらに、聖書に書かれたイエス・キリストに関する預言は、すべて実現しました。これ以上、何を語る必要があるでしょうか。イエス様は確かに、神の子キリストとしてこの世界に来られたのです。
2.キリストとの契り月
ヨハネの福音書14章1〜3節をお読みください。「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。」(ヨハネ14:2)
では、イエス様はどこに行こうとしておられたのでしょうか。それは、「父の家」、つまり創造主である父なる神様のお住まい、天の御国(天国)です。しかし、その前にイエス様には十字架の苦しみがありました。その苦難を通って、イエス様は天の御国に戻られるのです。
そしてイエス様は弟子たちに、こう約束されました。「場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。そして、すっかり準備ができたら迎えに来て、わたしがいるところに、あなたがたもいつでもいられるようにします。」イエス様は、私たちがいつまでもご自分と一緒にいられるように、天の御国に場所を準備してくださっているのです。
では、なぜイエス様はこのようなことを言われたのでしょうか?それは、当時のユダヤの「婚礼(結婚式)」の習慣と関係があります。今日は、そのユダヤの婚礼について少しお話ししましょう。
古代のユダヤでは、婚礼は聖書の教えをもとに行われていました。聖書の「申命記」24章1節には、「人が妻をめとり夫となった」と書かれています。
昔のユダヤの結婚には、実は2つの段階がありました。それは「キドゥーシン」と「ニスイン」と呼ばれています。
- キドゥーシン:結婚の契約が成立する段階
- ニスイン:夫婦が同居を始める段階
つまり、昔のユダヤでは「婚約」と「結婚」ではなく、結婚が2段階で行われたのです。
まず、キドゥーシンでは、花婿が花嫁に「モハル」と呼ばれる金銭的価値のあるものを贈ります。これは、花嫁の家族に対して「花嫁を迎えるための代価」として渡すものでした。そして、花婿は花嫁に指輪を渡し、「あなたは私のものです」と宣言します。これが結婚のしるしであり、約束の証でした。さらに、花婿は花嫁にぶどう酒の杯を差し出します。花嫁がその杯を受け取って飲むことで、法的に結婚が成立します。このときから、ふたりは夫婦となりますが、まだ一緒には住みません。
その後、花婿は花嫁にこう約束します。「わたしの父の家に行って、あなたのために住まいを用意します。」そう言って、花婿はいったん自分の家に帰り、新しい住まいを建て始めます。その家ができあがり、花婿の父親が「もう準備が整った」と認めたとき、花婿は花嫁を迎えに行くのです。迎えに行くとき、花婿は友人たちとともにたいまつを持って花嫁の家に向かいます。花嫁はその光を見て、灯を手に取り、花婿のもとへ導かれていきます。そして、花婿と花嫁は新しい住まいに入り、ようやくふたりの結婚(ニスイン)が完成するのです。
イエス様は、聖書に書かれている約束の通り、この世界に来られました。その目的は、「妻をめとるため」、つまりユダヤの婚礼でいう「キドゥーシン(結婚の契約)」を結ぶためでした。
花婿が花嫁に贈るモハル(結婚の代価)にあたるものは、イエス・キリストの血です。聖書にはこう書かれています。
「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」(使徒の働き20:28)
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」(Ⅰコリント6:20)
つまり、イエス様はご自分のいのちをかけて、私たちを神のものとして買い取ってくださったのです。
そして、結婚のしるしである指輪にあたるのが、聖霊です。聖書は言います。
「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(エペソ1:14)
さらに、婚姻の契約の「杯」にあたるのが、イエス様が十字架で流された血の杯です。これは、私たちが教会で行う聖餐のぶどう酒を意味しています。イエス様は言われました。
「これは多くの人のために、罪のゆるしのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイ26:28)
イエス様が行かれたのは、私たちの罪のために十字架の道を歩まれ、血の代価を払うためでした。すべてを成し終えたあと、イエス様は天の御国の父なる神様のもとに帰られました。それは、やがて来る「ニスイン(同居の完成)」のために、花嫁である私たちの住まいを用意するためです。イエス様は言われました。
「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ14:3)
そして、花婿の父――つまり父なる神様が「もう準備が整った」と認められるとき、イエス様は再びこの世界に再臨し、私たち花嫁を迎えに来られるのです。
「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも、子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:36)
その時、私たちはキリストの花嫁として天の御国に導かれます。
「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。」(黙示録19:7)
私たちは、イエス様の血によって買い取られたキリストの花嫁なのです。すでに、法的には「キリストの妻」とされているのです。
では、花婿であるキリストが迎えに来られるその日まで、私たちはどのように生きるべきでしょうか。パウロはこう言っています。
「愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。」(Ⅱコリント7:1)
つまり、私たちはキリストの花嫁として、心も行いも清く保ちながら、イエス様が迎えに来られるその時を待つのです。
カトリック教会には、信仰の教え方や考え方の違いなどで、さまざまな意見があります。けれども、「霊性」という面では、とても優れていると言われています。ここで言う「霊性」とは、「聖霊によって導かれ、キリストに似た生き方をすること」です。つまり、ただ日曜日に教会へ行って礼拝するだけではなく、心の変化・生活の変化・愛の実践を大切にする生き方のことです。
たとえば、修道院で生活するシスター(修道女)たちがそのよい例です。彼女たちは修道院に入るとき、「修道誓願」という約束を立てます。それは「貞潔」「貧しさ」「従順」という3つの約束です。シスターたちは、この世での結婚をせず、心をキリストだけに捧げます。そして、「キリストと霊的な婚姻関係を結ぶ者」として、キリストに忠実に仕える人生を歩むのです。
私たちはシスターのように結婚を放棄するわけではありませんが、キリストの血によって婚姻の契約を結んだ者として、キリストが再び迎えに来られるその日を待ち望み、キリストにふさわしい生き方をするように心がけることが大切です。なぜなら、キリストは私たちを深く愛し、私たちのために尊い血を流して、ご自分のものとしてくださったからです。だからこそ、今もキリストに愛されている者として、私たちはその愛にふさわしい生き方をすることが求められています。
言いかえるなら、今の時代は、私たちとキリストとの「契り月」なのです。キリストが花婿として私たちを迎えに来られる日まで、心を清く保ち、信仰をもって歩んでいきましょう。
最後に、今日は結婚式でもよく歌われる聖歌「妹背を契る」を賛美します。この歌を通して、私たちはキリストの血の代価によって花嫁として選ばれた者であり、キリストとの契りを結んだ者であることを覚えて、心から感謝と喜びをもって賛美しましょう。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。