過去の部会で、皆さんの意見を聞いてまとめた杏の里教会の4つの望みがありました。その4つは、
- 若い人や新しい人が集まる教会にしたい
- 家族が救われ、しばらく来ていない人の信仰が回復するようにしたい
- 来ると「ほっとする」場所であり、福音のメッセージを聞いて元気になれる場所にしたい
- 無理をせず、心から神様に仕える教会でありたい
というものでした。
それから6年が経ちました。皆さん、今の教会をどのように感じていますか?若い人が増えているとは言えませんが、教会が少しずつ「ほっとできる場所」になってきているのではないでしょうか。
今年1月の部会で、「杏の里教会の文化ってどんなものですか?」とお聞きしたところ、皆さんは「優しい、家庭的、仲が良い、痛みをわかる、ひとつになりつつある、誰でも受け入れる」と答えてくださいました。あたたかい教会の姿が浮かびますね。
ある新聞記事に、「現状維持は、ゆるやかな後退である」と書かれていました。つまり、変わらないままでいることは、少しずつ後ろに下がってしまうことでもある、という意味です。
私たちも、これから年齢を重ねていくと、体調の都合で、日曜礼拝に出席しにくくなるかもしれません。でも、先々月から学んでいる「教会の七つの本質」は、そんなときにも私たちを助けてくれます。この七つの本質は、イエス様につながり続ける、自立したクリスチャンを目指すものです。ですから、たとえ礼拝に来られなくても、イエス様と共に生きることができるはずです。
さて、イエス様が天に帰られるとき、私たちに託されたのは「宣教」でした。杏の里教会のビジョンにあるように、「若い人々、新しい人々が集うこと」そして「家族の救い、休んでいる人々の信仰復興」を願うことは、イエス様ご自身が具体的に命じておられることなのです。
「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」(マタイ28:19〜20)
それは、人々をイエス・キリストの弟子にすることです。そのために、まずバプテスマ(洗礼)を授けます。そして、イエス様の教えを守るように教えます。この二つはどちらも、「人々をキリストの弟子にする」という目的のために行うことなのです。
1.キリストの弟子
では、「キリストの弟子」とはどんな人のことでしょうか。「キリスト教の信者」とはどう違うのでしょうか。
私の考えでは、「キリスト教の信者」とは、「イエス・キリストが神の子であり、十字架と復活によって罪のゆるしを与えてくださった」と信じている人のことだと思います。
イエス様は「信者としなさい」とは言われませんでした。イエス様が言われたのは「弟子としなさい」ということでした。「キリストの弟子」とは本当の意味でのクリスチャンのことなのです。「信者」がクリスチャンなのではなく、「弟子」こそがクリスチャンなのです。
聖書の「使徒の働き」11章26節には、こう書かれています。
「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(使徒11:26)
では、「弟子」とはどんな人のことを言うのでしょうか。
イエス様の時代のユダヤ社会では、師匠と弟子の関係がとても大切にされていました。律法学者やパリサイ人と呼ばれる人たちには、たくさんの弟子がいました。ヘブライ語で「弟子」は「タルミード」と言い、「学ぶ」「訓練を受ける」という意味があります。弟子は師匠から勉強だけを学ぶのではなく、生き方や信仰、律法の守り方、人としての姿勢を学びました。そのため、弟子たちは師匠と長い時間を過ごし、師匠の生活を見てまねをしました。
弟子にとって一番の願いは、師匠のようになることでした。「タルムード」というユダヤ教の本には、「師は父よりも尊い。父はこの世の命を与え、師は来世の命を与える」と書かれています。それほど、弟子にとって師の存在は大切だったのです。
イエス様も弟子たちと生活を共にし、ご自分の生き方を通して教えられました。弟子たちの学びの目的は、イエス様のようになることでした。
またイエス様は、このように言っています。「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです」(マタイ23:8)
つまり、キリストの弟子の師匠はイエス様おひとりだけであり、人と人のあいだで「師匠と弟子」の関係をつくってはいけないということです。倣うべきお方はイエス様ただひとりなのです。
中には、「牧師に弟子入りする」「牧師のかばん持ちをする」と言う人もいますが、イエス様はそれをしてはいけないと言われました。なぜなら、牧師も人間だからです。どんなに立派でも、間違いを犯すことがあります。ある人が牧師に「先生、先生もトイレに行くのですか?」と聞いたという話を聞いたことがあります。その人は、牧師を人間ではないと思っていたのです。
クリスチャンとは、イエス様を師匠として学ぶ弟子のことです。これは相撲や武道と似ています。同じ師匠のもとで学ぶ人たちは、兄弟弟子です。兄弟弟子の中には、先に学び始めた兄弟子と、後から入った弟弟子がいます。兄弟子は弟弟子を助け、導く立場にあります。だから、私たちがキリストの弟子になるということは、「○○さんのようになる」ことではなく、「イエス様のようになる」ことです。
イエス様は弟子の心得として、こう言われました。
「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。」(ルカ6:40)
キリストの弟子とは、師匠であるイエス様のようになるために訓練を受ける人のことなのです。
2.わたしのうちのイエス・キリスト
コロサイ人への手紙3章12〜17節をお読みください。神に選ばれた者として、慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身にまとい、互いに赦し合い、愛を結びの帯とし、キリストの平和とみことばが心に豊かに住むようにする、という勧めです。
十二弟子は、3年以上もイエス様と一緒に生活していたのに、なかなかイエス様のようにはなれませんでした。確かに、イエス様のようになるのはとても難しいことです。けれども、弟子たちは本当のイエス様を理解できていなかったようです。たとえば、ピリポはイエス様からこう言われました。
「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)
また、トマスもイエス様にこう言っています。
「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハネ14:5)
このように、弟子たちはイエス様のことを、ほとんど理解できていませんでした。なぜでしょうか。それは、弟子たちがイエス様を「自分たちと同じ人間の師匠」だと思っていたからだと思います。
しかし、復活されたイエス様に出会ったとき、弟子たちの考えと生き方は大きく変わりました。トマスは、復活のイエス様に会うまでは「信じられない」と言いはっていました(ヨハネ20:25)。
けれども、イエス様が本当に現れたとき、トマスはこう言いました。「私の主、私の神よ。」
このとき、弟子たちは初めて「人間のイエス様」ではなく、「神の子イエス様」を信じ、受け入れたのです。つまり、私たちがキリストの弟子になるためには、イエス・キリストをただの人間だと思うのではなく、「神である方」と信じることが大切なのです。
そして、イエス様が天に帰られたあと、弟子たちはさらに大きく変わりました。その理由は、「聖霊」が彼らのうちに宿ったからです。聖霊を受けたあと、弟子たちは勇気をもってイエス様のことを伝えるようになり、イエス様と同じような奇跡も行いました。聖霊が、弟子たちをすっかり変えたのです。なぜ、聖霊を受けるとこれ程までに変わるのでしょうか?
イエス様は、聖霊についてこのように話されました。
「御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。」(ヨハネ16:14)
「真理の御霊」である聖霊は、イエス様のことを私たちに教えてくださる存在です。聖霊を受けると、まるでイエス様がいつもそばにおられるように生きることができます。すなわち、師匠であり、神であるイエス・キリストがいつも共にいてくださることを知っていることが理由です。すなわち、キリストの弟子とは、いつもイエス様を「心の中に持ち歩いている」人だと言えます。
私は最近、新しいスマートフォンを買いました。そのスマホには人工知能(AI)が入っていて、わからないことを質問すると、すぐに答えてくれます。まるで自分の秘書のようで、色々なことをアドバイスしてくれます。
もし、聖霊がAIのように、いろいろなアドバイスをしてくださるとしたら、本当にすばらしいことだと思います。聖霊はAIよりもはるかにすぐれた存在です。なぜなら、単なる知識や答えを教えるのではなく、聖霊を通して、イエス様が私たちの心に語りかけ、正しい道へ導いてくださるからです。
パウロは、イエス様がこの地上で生活していたときに、直接イエス様に会ったことがありません。それでもパウロは、「ダマスコへの途上」でキリストの幻に出会い、イエス様の弟子となりました。
では、パウロはどのようにして師匠であるイエス様の弟子として生きたのでしょうか。それは、聖霊を通してでした。「使徒の働き」には、イエス様が聖霊を通して、パウロに語りかけられた場面がいくつも書かれています。
たとえば、パウロがエルサレムに帰り、宮(神殿)で祈っていたとき、彼に語りかけられました(使徒22:17〜21)。主は「早く、急いでエルサレムを離れなさい」と言われ、さらに、「行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」と言われました。
また、ある夜、パウロを励ましました。
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。」(使徒18:9〜10)
それから、エルサレムで捕らえられていたとき、パウロを励ましました。
「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(使徒23:11)
きっとパウロは、日々の生活の中でも、イエス様から聖霊を通して多くの教えを受けていたのだと思います。私たちも同じように、イエス様から教えをいただくことができるのではないでしょうか。
では、私たちの心の中には、イエス・キリストが形づくられているでしょうか。聖霊として私たちの内におられる小さなイエス様が、私たちの中で少しずつ大きく成長してほしいと思います。そのために、パウロは次のように言っています。
「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。」(Ⅱコリント13:5)
パウロは、「自分の信仰をよく確かめなさい」と勧めています。なぜなら、私たちの心の中にはイエス・キリストがおられるからです。このお方が私たちの中におられるからこそ、私たちの生き方や考え方が少しずつ変わっていくのです。そして、このお方が共におられることを本当に信じるなら、私たちは次のようなことができるようになります。
「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。」(コロサイ3:12)
このみことばは、イエス様を信じる私たちがどのように生きるべきかを教えてくれています。
私たちは、自分の内におられるイエス・キリストによって、イエス様の心や性質を身につけることができます。私たちの中におられるイエス様によって、赦しや愛、平和をもって生きることができるのです。イエス様が私たちを赦してくださったように、私たちも人を赦すことができます。イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちも人を愛することができます。そして、イエス様がくださる平和が、私たちの心を満たしてくれるのです。また、イエス様のことば(みことば)が私たちの心の中で生きて働き、私たちを教えてくださいます。そのことを思うと、自然に感謝の気持ちがあふれ、神様に心から賛美をささげたくなるのです。さらに、私たちはイエス様の名によって、神様に感謝し、自分の行いや言葉をイエス様のためにささげることができます。
それは、イエス様が私たちの内に生きておられるからです。だからこそ、私たちは自分の信仰を確かめ、「今、イエス様は私の内におられるだろうか」と心に問いかけてみることです。そして、静かに心を落ち着けて、聖霊の声に耳をすませてみましょう。主はきっと、あなたの心に語りかけてくださいます。
以前、仕事を休んでいた時期がありました。そのころ、ひとりで祈るために、ある場所へ歩いて行くことがよくありました。仕事を休んでいることへの不安や、家族に心配をかけてしまったつらさを、そのまま神様にお話ししました。
「神様、どうすればいいのでしょうか」と、心の中で正直に祈ったのです。
ある日、町が一望できる場所まで来たとき、心の中に主の声を感じました。
「お前は、このたくさんの家々を見たか?」「はい、見ました。」「ここには、一人で生活しているさびしい人々がいる。将来、その人たちに仕えなさい。」
そのとき私は、これが神様が私に与えてくださった新しい生き方なのだと感じました。
そして、この夏のことです。ある役割を引き受けてもらえないかと声をかけられました。その瞬間、あのとき主から聞いた言葉を思い出しました。「さびしい人々に仕えなさい。」私は迷わず、「はい、やらせていただきます」と答えました。これもまた、神様が導いてくださったことなのだと思っています。
イエス様は、今も私たちの心の中に住んでおられます。そして、私たちの師匠として、いちばんふさわしい時に、必要なことを教えてくださるお方です。だから私たちは、もう一度、自分の信仰を見つめなおしてみましょう。そして、イエス・キリストが自分の心の中におられることをしっかりと認めましょう。そのイエス様に教えられ、導かれながら、喜びにあふれた、そして勝利の人生を歩んでいきましょう。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。