イエスの痛みを思う

聖書箇所:Ⅰヨハネ3:1〜17

説教者:高橋堅治

毎月の第4礼拝では、教会のビジョンについてお話ししています。

8月の第4・第5礼拝では、皆さんに「教会の七つの本質」について説明しました。

これは特別な教えではなく、聖書に基づいて「イエス様の教会は本来どんなものか」を表したもので、教団や教派のちがいをこえて多くの教会で共有されている価値観です。

その「七つの本質」を簡単にまとめると、次のようになります。

  • 関係:神様、教会の兄弟姉妹、そして教会の外の人たちとの関わり。
  • 参加:神の国の働きに加わること。
  • 能力付与:教会を建て上げるために、信じる人たちを整え、力を与えること。
  • イエス中心:イエス様につながり、とどまり続けること。
  • 伝道と増殖:世の人々をキリストの弟子へと導くこと。
  • ネットワーク:キリストのからだである教会同士が協力して働くこと。
  • 適応可能な構造:キリストのいのちを現すために、時代や状況にふさわしい形を整えること。

今日はその中から、「イエス中心」について、聖書の「ヨハネの手紙 第一」から学んでいきましょう。

1.キリストにとどまる

Ⅰヨハネ2章28節〜3章10節をお読みください。要となる一句は次のとおりです。

「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。」(Ⅰヨハネ3:1)

私たち杏の里教会では、毎年3月の総会でその年の「標語(スローガン)」を決めます。

今年の標語は、

「わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)です。

では、「イエス様の愛にとどまる」とはどういうことでしょうか。

聖書の「ヨハネの手紙」は、イエス様の弟子ヨハネが書いた手紙です。イエス様に直接会ったことのない人が増える中で、「イエス様は本当に人間ではなかった」という間違った教えが広まり、人々が教会から離れていきました。彼らは「罪は問題ない」「神の教えを守らなくてもよい」と主張し、愛のない行いで人々をつまずかせました。

ヨハネはこのような教えを批判し、「正しいキリストの教えにとどまりなさい」と勧めました。なぜなら、やがてイエス様が再び来られるとき、恵みを受け継ぐ者となるためです。

なぜ「キリストにとどまる」ことが大切なのでしょうか。

それは、私たちがキリストによって「神の子ども」とされ、永遠のいのちをいただいているからです。これを「新生」と言います。

イエス様はこう言われました。

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)

では、自分が本当に新生したのかどうか、どうわかるのでしょうか。

「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。」(Ⅰヨハネ3:9)

ここでいう「罪を犯しません」とは、「罪の中に生き続けない」という意味です。聖霊が私たちに罪を示し、悔い改めへと導いてくださるからです。

ペンテコステの日、ペテロが群衆に言った言葉によって、

「人々はこれを聞いて心を刺され、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。」(使徒2:37)

このように、聖霊は私たちに罪をそのままにできない思いを与えてくださいます。そして、私たちが罪を告白するなら、その罪は赦されます。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

もし「自分は本当に新生したのか」と疑うときは、こう考えてみてください。

  • 自分の罪について御言葉が心に刺さることがあるか?
  • その罪を悲しみ、「もう繰り返したくない」と願うか?

そのような思いがあるなら、確かに聖霊があなたのうちにおられる証拠です。日々罪を告白し、赦されながら歩むことこそ「キリストにとどまる」生き方です。やがて私たちは「キリストに似た者」とされます。

「私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。」(Ⅰヨハネ3:2)

復活されたイエス様の体には、十字架の傷あとが残っていました。

「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」(ヨハネ20:27)

「…屠られた姿で子羊が立っているのを見た。」(黙示録5:6)

なぜ、イエス様は、栄光のからだになっても、傷を残しておられるのでしょうか?

弱い私たちを憐れむためです。この「憐れみ」は、ただのやさしさではありません。その憐れみは、ギリシャ語で「スプランクニゾマイ」、「はらわたが引き裂かれるような痛み」をともなう思いです。キリストは、今もなお、その裂かれた傷口を残され、私たちに対する深い憐れみを証しされるのです。

その憐れみは、神の深い痛みを伴う愛の御心であり、私たちが主の傷の痛みを思うとき、もう罪に生き続けることはできません。その傷口は、私たち一人一人のために裂かれたものだからです。

2.互いに愛し合う

Ⅰヨハネ3章11〜17節をお読みください。要となる一句は次のとおりです。

「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。」(Ⅰヨハネ3:16)

イエス様が私たちに願っておられることは、「互いに愛し合う」ことです。

では、なぜそれが大切なのでしょうか。

ヨハネは「カインのようになってはいけない」と言っています。

創世記4章には、カインとアベルの物語があります。

創世記4章2〜9節をお読みください。

そのため、カインは怒り、弟アベルを野に誘い出して殺してしまいました(創世記4:8)。

カインは神様に拒まれたことを恥じ、その嫉妬と怒りに支配されてしまったのです。

聖書は、カインが「悪い者から出た者」だと言っています。悪い者とはサタン、つまり悪魔のことです。悪魔は、人間の怒りや嫉妬を利用して罪を犯させようとします。

だから、聖書はこう教えています。

「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ4:27)

また、カインには「兄弟を思う愛」が欠けていました。

神様が「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と聞かれたとき、カインはこう答えました。

「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」(創世記4:9)

ここからわかるのは、愛の反対は「憎しみ」ではなく「無関心」だということです。

ある先生はこう言いました。

「イエス様が互いに愛し合いなさいと言われたのだから、クリスチャンは互いの番人となるべきである。」

番人とは、守る人、気を配る人のことです。

私たちも、互いを無関心にせず、注意を払い合う者でありたいと思います。

「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。」(Ⅰヨハネ3:14)

聖書は、神様を信じた私たちが「死からいのちに移った」と教えています。

そのしるしのひとつが「兄弟を愛すること」だとヨハネは言います。

さらにこう書かれています。

「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ3:16)

「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。」(Ⅰヨハネ3:17)

私たちが「愛とは何か」を知ることができるのは、イエス様が十字架でいのちを捨ててくださった出来事からです。

それ以外に、本当の愛を学ぶ道はありません。

人間の愛は不完全で、時にはカインのように「自分のための愛」になってしまいます。相手が自分より優れていると、嫉妬して相手を否定してしまうこともあります。

しかし、神様の愛は違います。

神様の愛は、相手の存在そのものを愛する愛です。

だからイエス様の命令「互いに愛し合いなさい」とは、人間の基準ではなく、この神の愛の基準で愛し合うことを求めているのです。

ヨハネは、「困っている兄弟を見ても心を閉ざすようなら、どうして神様のいのちをかけた愛を実行できると言えるのか」と語っています。

「心を閉ざす」とは、原語では「内臓を閉ざす」という意味です。

一方「あわれみ」とは「はらわたが引き裂かれるような痛みを伴う思い」です。

つまり、兄弟に無関心でいることは、神様の愛とは正反対なのです

私たちが人のために働いたり、自分のものを差し出したりするとき、「心が痛む」ことがあります。

「どうして自分ばかりが…」とか、「また自分がやらなきゃならないのか」と思ってしまうこともあります。そうすると、もうその気持ちを起こしたくないとさえ感じるのです。

でも、あわれみの心とは、まさにこの「心の負担」や「痛み」を感じることなのではないでしょうか。人はだれでも、自分が損をすることに痛みを覚えます。だからこそ、聖書で語られる「神様のあわれみ」は「内臓を痛めるほどの思い」と表現されているのです。

イエス様が願っておられるのは、私たちがその痛みを引き受けて、相手のために尽くすことです。

愛とは、ただ心地よい感情ではありません。それは、自分の時間やお金、体力、知識を差し出し、自分自身を犠牲にすることだからです。

それがイエス様が言う「兄弟を愛する」ということなのです。それは、イエス様ご自身がいまも傷を持ち、私たちを愛し続けておられるのと同じです。

では、具体的に私たちはどうイエス様の痛みに共感できるのでしょうか。

  • 職場での自己犠牲:自分の仕事が増えると分かっていても困っている同僚を助けるとき、その小さな犠牲はイエス様の痛みに倣う歩みです。
  • 家庭での忍耐と奉仕:家事や育児、介護などは終わりがなく、感謝されないこともありますが、疲れてもなお愛をもって仕えることは、イエス様が今も私たちを担ってくださる姿を映しています。
  • 赦すことを選ぶとき:裏切りや誤解で傷つけられたとき、「赦す」ことは心に痛みを伴いますが、十字架で「彼らをお赦しください」と祈られたイエス様に従う行いです。
  • 時間やお金をささげる:生活に余裕がないときでも、困っている人や兄弟姉妹のために差し出すことは、自分を削る痛みを伴う、十字架の愛を反映する行為です。
  • 社会的不正や弱者への関心:ニュースで理不尽な差別や貧困を見たとき、無関心でいるのは簡単ですが、心を痛め、祈り、できる範囲で支援することは、イエス様の痛みへの共感です。

海外で亡くなった政治活動家の妻は、十字架上でイエス様が「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたこと(ルカ23:34)に触れ、夫の命を奪った容疑者を赦すと述べ、「答えは、愛であり、常に愛です」と語りました。

イエス様は十字架で死なれましたが、復活して「栄光のからだ」を持たれました。

しかし、不思議なことに、そのからだから十字架の傷を消そうとはされませんでした。

イエス様は今も、私たちにその傷口を通して、私たちに痛みを伴う愛を示されています。

イエス様を中心に生きるとは、この神の痛みである十字架の愛を知ることです。

イエス様の痛みに比べればとても小さなものですが、私たちも「痛みを覚えて人を愛すること」を学ぶことです。

イエス様中心の生き方とは、イエス様の痛みに共感し、その痛みを担おうとする生き方なのです。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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