神が栄光をお受けになる

聖書箇所:ヨハネ13:21〜38

説教者:高橋堅治

先月は「敬老の日」があったので、ヨハネの福音書の学びはお休みしていました。今日は、8月にお話しした内容を少しふり返りながら、この「ヨハネの福音書13章」について、少し時間をかけて学びたいと思います。というのも、この13章には、私たちクリスチャンにとってとても大切なことが書かれているからです。

8月の第2日曜日には、「洗足の恵みをいただく」という題でお話しをしました。このヨハネの福音書13章に書かれている出来事は、イエス様が十字架にかけられる前の日、木曜日の夜のことです。イエス様は弟子たちと一緒に「過越し(すぎこし)の祭り」という、とても大切なユダヤ人のお祭りを祝っておられました。それが、いわゆる「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。

夕食の途中で、イエス様は席から立ち上がり、上着を脱いで、手ぬぐいを腰に巻きました。そして、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗いはじめられたのです。そのとき、弟子のひとりであるペテロが言いました。「足を洗っていただくなんて、もったいなくてとてもできません。」さらに、「決して私の足を洗わないでください。」とも言いました。ペテロは3年以上もイエス様と共に生活し、教えを受けてきた弟子でした。ですから、大切な先生であるイエス様に、自分の足を洗ってもらうことは、とても受け入れがたかったのです。

しかし、イエス様には足を洗う目的がありました。その目的は少なくとも3つありました。

① 神様の恵みを素直に受け取ることを教えるため

ふつう、先生が弟子の足を洗うなんてことはありません。それと同じように、天地を造られた神様の恵みを、人間がそのまま受け取るなんて信じがたいことです。だから人は、自分の力で良いことをしようとしたり、修行をしたりして「功徳を積む(よい行いを重ねる)」と考えます。でも、イエス様は足を洗う行動を通して、「神様の恵みは、人の努力ではなく、ただ神様からのプレゼントとして受け取るものなのだ」と教えられたのです。

② 日々の過ちをきよめ赦されることを教えるため

イエス様を信じて、キリストの十字架の救いを受け入れた人は、すべての過ちがゆるされています。でも、私たちは生きている中で、つい過ちを犯してしまうことがあります。それは、道を歩いていて足が汚れるのと同じです。だからこそ、毎日の生活の中で、イエス様の十字架によって自分の過ちをきれいにしていただくことが大切なのです。

③ 互いに仕え合うことを教えるため

イエス様は、私たちのためにへりくだって、しもべ(僕)のように仕えてくださいました。ですから、私たちもその姿を見ならって、へりくだり、おたがいに助け合い、相手に仕えることが大切なのです。

今日は、その続きの部分をいっしょに学んでいきましょう。

1.イエスの愛を受け入れなかったユダ

ヨハネの福音書13章21〜30節をお読みください。イエス様が「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」と言われ(ヨハネ13:21)、「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」(13:26)と答えて、イスカリオテのユダにパン切れを与えられました。ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行きました。時は夜でした(13:30)。

イエス様が弟子たちの足を洗い終えると、再び食事の席に戻られました。そして、弟子たちにとてもショックな言葉を話されたのです。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

その言葉を聞いた弟子たちは、大変おどろき、動揺しました。「一体、誰が先生を裏切るのだろう?」と、みんなが心の中で思ったのです。そして、イエス様がすでに「裏切る人が誰なのか」を知っておられることにも気づきました。

それだけではありません。弟子たちはみんな、不安になってこう言いました。

「主よ、まさか私ではないでしょう」(マタイ26:22)

イエス様のすぐそば、左側の席にはヨハネがいました。ここで言われている「イエスが愛しておられた弟子」とは、このヨハネの福音書を書いたヨハネ自身のことだと考えられています。当時のユダヤの正式な食事のしかたは、低いテーブルをコの字形に並べて、左側を下にして体を横にし、足をのばした姿勢で食事をしました。ヨハネはイエス様の胸の近くによりかかって、「裏切る者は誰ですか」とたずねたと書かれています。つまり、ヨハネはイエス様の右側の席にいたことがわかります。すると、イエス様はヨハネに言われました。

「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」

当時の宴会では、主人であるイエス様が食事の中、パンの一番良い部分をとって、特別に大切な人に渡すという習慣がありました。それは「愛と友情のしるし」だったのです。

ここからは私の想像ですが、イエス様を裏切ろうとしていたイスカリオテのユダは、イエス様の右側の席に座っていたのではないかと思います。イエス様はユダに、弟子たちの中でも一番良い席をゆずっておられたのかもしれません。

イエス様はユダの心の中をすべてご存じでした。ユダのイエス様に対する失望と怒り、また、仲間のお金を着服していたことも。それでもイエス様は、ユダを他の弟子たちと同じように深く愛しておられたのです。パン切れは、ユダを想うイエス様の心の「しるし」でした。

ところが、ユダはイエス様に失望(しつぼう)していきました。ヨハネの福音書6章では、多くの弟子たちがイエス様から離れていきましたが、ユダはそのとき離れませんでした。けれども、心の中ではすでにイエス様に失望し、イエス様を赦せない思いに支配されていたのだと思います。そのため、イエス様が愛と友情をこめてパンを渡しても、ユダはそれを喜んで受け取ることができませんでした。それどころか、パンを受け取ったあと、彼はついに裏切りの行動を起こしてしまいました。

やがて、ユダはイエス様を裏切ったあと、自分を責める気持ち(良心のとがめ)に耐えきれず、自ら命を絶ってしまいました。イエス様でさえ、ユダの心を変えることはできなかったのです。

私たちも、人に愛をもって接しているのに、相手が心を閉ざしてしまうことがあります。優しくしても、冷たい言葉で返されたり、避けられたりすると、とてもつらい気持ちになります。「自分の態度が悪かったのかな」「何か気にさわることをしたのかな」と悩んでしまうこともあるのではないでしょうか。

でも、私は今こう考えるようになりました。

――イエス様でさえ、ユダの心を変えることができなかったのです。

だから、相手に誠実に接しても、相手が心を開いてくれないことがあっても、それは私のせいではないのだと考えるようにしました。大切なのは、これからも愛をもって相手に接しつづけることなのだと思います。

さて、ユダは、最後までイエス様(神様)との関係を築きませんでした。ある聖書の学者は、「地獄とは、神様のいない世界のことだ」と言っています。つまり、「愛そのものである神様から、永遠に離されてしまった世界」――それが地獄なのだそうです。

もし、私たちが死んだあとに行く世界が、神様の光のない暗く閉鎖された場所だったとしたら……それは本当に恐ろしいことだと思います。

しかし、私たちは、天国への希望を捨ててはなりません。なぜなら、天国は本当に存在し、そこには愛の神様が生きておられるからです。

私はこれまで、いくつかの臨死体験(りんしたいけん)の話を聞いたことがあります。今日は、その中から2つの例を紹介します。

まず1つ目は、聖心会のシスター・鈴木秀子さんの体験です。

鈴木さんは修道院で転落した際、光に包まれて大きな愛を感じたと語っておられます(鈴木秀子さんの体験談より要約)。

もう1つは、2016年にアメリカで公開された映画『天国からの奇跡』のもとになったお話です。

これは実際にあった出来事です。

主人公の女の子は、命の危険にさらされていました。ある日、庭の木に登っていた女の子は、木から落ちてしまい、そのとき臨死体験をしたのです。

その体験の中で、女の子は安全で素晴らしい場所にいて、帰りたくないと言ったのですが、帰りなさい、帰ったらちゃんと治っているからと言われた、と語りました(映画『天国からの奇跡』より要約)。

そして意識が戻ったあと、女の子は完全に回復していたのです。

女の子が「帰りたくない」と思うほどにすばらしい世界――それが、神様がおられる天国なのです。

私たちはこの神様の存在を信じ、いつかその天国に行ける希望をもって生きていきたいものです。

神様の愛は、地上でも、そして永遠の命の世界でも、私たちを包みつづけてくださるのです。

2.神が栄光をお受けになる

ヨハネの福音書13章31〜38節をお読みください。イエス様は「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。」(ヨハネ13:31)と言われました。

ユダが部屋を出て行ったとき、イエス様は「いよいよご自分の受難の時が来た」と感じられました。それは、イエス様がまさにそのためにこの世に来られたからです。

イエス様は言われました。

「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。」

ここでいう「栄光」とは、イエス様が十字架で苦しみ、死なれることを意味しています。

私たちは「栄光」と聞くと、きらびやかで素晴らしいものを想像します。でも、イエス様の栄光は、人々にさげすまれ、むち打たれ、十字架で死ぬことだったのです。

ヨハネの福音書では、弟子のペテロについても「栄光」について語られています。ヨハネ21章19節にはこう書かれています。

「イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。」

伝えられている話では、ペテロはローマで逆さまの十字架につけられて亡くなったと言われています。

つまり、「神の栄光を現す」とは、楽で名誉なことではなく、苦しみの中でも神様を信じ抜くことなのです。「栄光」という言葉は、ギリシア語で「ドクサゾー(δοξάζω)」と言います。クリスマスで歌う「Gloria in excelsis Deo(いと高きところに栄光あれ)」の「グロリア」と同じ意味です。この「栄光」には、「神様が生きて働いておられることを認め、それにふさわしい生き方をする」という意味があります。

イエス様もペテロも、自分の生き方を通して、神様がどんなお方かを人々に見せてくださったのです。

マタイの福音書5章16節にもこうあります。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」

この「あがめる」という言葉も、「栄光を帰す」という意味です。つまり、私たちの良い行いを通して、人々が神様の存在を知り、神様の素晴らしさを知るようになること――それが「神に栄光を帰す」ということなのです。

以前、「敬老の日」のお話の中で、内村鑑三の「後世への最大の遺物」を紹介しましたね。内村はこう語っています。

「すなわちこの世の中は、悪魔が支配する世の中ではなく、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中ではなく、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。」

この言葉のように、私たちは自分の生き方を通して、神様の存在を人々に伝える使命があります。

そして、その最も良い方法は、イエス様の弟子として生きることです。

イエス様はこう言われました。ヨハネ13章34~35節

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

教会は、イエス様が代わりに死んでくださった人々の集まりです。イエス様が命を懸けて守ろうとしたものは、私たち自身です。だから、私たちはイエス様のために、お互いを大切にしなければなりません。

そのための第一歩は「和解(わかい)」です。互いに愛し合うためには、まず互いに赦し合うことが必要なのです。

私は子どものころ、どうして家族がいつも一緒にいられるのかを考えたことがありました。家族の中では、ときどき、けんかをしたり、叱られたりすることがあります。でも、時間がたつと、必ず「仲直り」しました。そうでなければ、ずっと一緒に生活をすることはできません。仲直りには、「ごめんなさい」という「告白」と、「わかった。もう、いいよ」という「赦し」で成立します。私たち兄弟姉妹の間にも、仲直りが必要です。なぜなら、仲直りしなければ、愛の関係は築けないからです。

具体的な方法を挙げますと、主の祈りをするときに、是非、行ってみてほしいと思います。

それは、「いま、赦していない人はいないか?」とじっくり思い巡らすことです。主の祈りには、「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」という祈りがあり、それは、「私たちがまず赦したように、私たちの罪を赦してください。」ということで、主の祈りの前に、先に赦していない人を赦すことが必要なのです。人を赦さなければ、主の祈りは、まったく力がないものとなってしまいます。

エペソ4章32節

「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」

神様が栄光をお受けになるのは、私たちの良い行いを通して、人々が神様の存在を知り、その素晴らしさを称えるようになることです。その最高の方法は、イエス様の弟子として生きることです。そして、イエス様の弟子の条件は、「互いに愛すること」です。このはじめの一歩として「互いに赦し合うこと」が必要です。赦しが無ければ、愛し合うことなど不可能だからです。そのために、私が勧めるのは、主の祈りをする前に、赦していない人がいないか思い巡らすことです。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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