十字架、それは世界の転換点

聖書箇所:ヨハネ12:20〜36

説教者:高橋堅治

(受難週礼拝)

今年のイースターは来週の4月20日です。その一週間前、今日から19日までが受難週と呼ばれる期間です。

受難週は英語でHoly Weekといい、イエス・キリストの苦しみと死を思い出す大切な週です。そしてこの受難週は、2、3世紀ごろのエルサレムの教会でもすでに礼拝などで守られてきました。

伝統的に守られてきた内容を紹介します。

  • 日曜日(本日) パームサンディ しゅろの日 キリストのエルサレム入城
  • 聖月曜日 いちじくの木ののろい、イエス様の権威についての疑い、神殿の清めなど
  • 聖火曜日 いちじくの火曜日とも言われる。いちじくの木ののろいなど
  • 聖水曜日 マリアによるナルドの香油、イスカリオテのユダの裏切り
  • 聖木曜日 主の晩さんの木曜日 足を洗う儀式が行われる
  • 聖金曜日 ブラック・フライデー、主の受難の金曜日 世界中の法定休日で、公共の場でのダンスや競馬などの行為が禁止される
  • 聖土曜日 大安息日、栄光の土曜日、歓喜の土曜日、光の土曜日、黒の土曜日、復活祭の準備の日。イエス・キリストの体が墓に置かれ、地獄で苦しまれたことを思い出す日

この受難週は、イエス・キリストがどれほど苦しまれたのかを思い起こす大切な時期です。これからの一週間、お配りした聖書の箇所を見て、イエス様の功績を思い起こしてみてはいかがでしょうか。

本日は、これまでのヨハネの福音書の学びの続きとして、12章20節から36節を通して、「この世に対するさばき、十字架」という題で学びたいと思います。

1.イエスが受ける栄光

ヨハネの福音書12章20〜27節をお読みください。ギリシア人たちがイエス様に会いたいと願い出たとき、イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来ました。」と答えられました(ヨハネ12:23)。

ここは、前回に出てきたナルドの香油の出来事のあとに起こったことです。少し、いつ何が起こったのかを整理してみましょう。12章1節に

12:1 さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。

と書かれています。

この「過越の祭り」は、ユダヤ暦の1月14日(3月から4月ごろ)に毎年行われる大切な祭りです。

出エジプト12:6 あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、

このニサンの14日の夕方には、イスラエルの人々が罪のゆるしのために子羊をほふりました。実は、イエス様もこのニサンの14日に十字架にかけられたのです。

ヨハ19:14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。

イエス様が十字架にかけられた次の日は「安息日」、土曜日でした。ですから、イエス様が十字架にかけられたのは金曜日であり、その日が過越の祭りの始まりの日でもあったのです。

このことから、イエス様がベタニアに来られたのは、6日前の土曜日になります。

更に、12節には、

12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
12:13 なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

つまりその次の日曜日に、イエス様はエルサレムに入られたということになります。

イエス様がエルサレムに入られるとき、人々はなつめ椰子の枝を手に持って、イエス様をあたたかく迎えました。どうしてこれほどまでに人々がイエス様を歓迎したかというと、それには理由があります。

ヨハ12:17 さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。
12:18 群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。

つまり、イエス様が死人であったラザロをよみがえらせたことを見た人たちが、そのすごい出来事をあちこちで話したために、多くの人が「この方こそ、イスラエルの王、救い主(メシア)だ」と信じ、イエス様を心から歓迎したのです。その一方で、祭司長たちやパリサイ人たちは、人々がイエス様をメシアと信じることを恐れていました。その理由は、当時ユダヤの国を支配していたローマ帝国が、それを反乱だと考えて、ユダヤの民をこわしてしまうのではないかと心配していたからです。

11:48 あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」

しかし、パリサイ人たちはイエス様を捕まえようとしていましたが、それもうまくできませんでした。

12:19 それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」

このような状況の中で、過越しの祭りに来ていたギリシア人たちが、イエス様に会いたいと願ったのです。

当時、過越しの祭りには、外国からもたくさんの人々が集まっていたことが、歴史家フラウィウス・ヨセフスが書いた「ユダヤ戦記」に記録されています。

そのギリシア人たちは、まずピリポという弟子にイエス様に会いたいと頼み、そしてピリポはアンデレと一緒にイエス様のところに伝えに行ったのです。

12:23 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。

と言うのです。「栄光を受ける時」とありますが、イエス様は、それまでにも何度か、この「栄光を受ける時」について話しておられました。

ヨハ 2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
ヨハ 7:6 そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。
ヨハ 7:8 わたしの時はまだ満ちていないのです。」
ヨハ 7:30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
ヨハ 8:20 しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

この時は、イエス様にとってとても大切な時でした。

27節には、「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」と書かれています。この言葉から、イエス様がこの世界に生まれ、生きてこられた目的がここにあることがわかります。

そして、ギリシア人たちがイエス様をたずねてきたことで、イエス様は「時が来た」と気づかれたのです。

なぜ、イエス様がそのことから「時が来た」と知ったのかについては、いくつかの考え方があります。私は、次のように考えています。それまでは、救いはユダヤ人だけのものでした。しかしこの時、ユダヤ人ではない人々、つまり異邦人の前にも、神の聖なる御腕であるイエス様が現れたのです。すべての国の人々に救いが示された、そのしるしだったのではないかと思います。

イザ52:10 【主】はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現された。地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る。

この「イエス様が栄光を受ける」ということについて、イエス様はその意味をはっきりと教えてくださいました。

12:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

これを聞いた弟子たちは、イエス様が何を言っているのか、当時はよくわからなかったと思います。マルコの福音書の10章を見ると、ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエス様のところに来て願い出ています(マルコ10:35-38を参照)。

10:37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」

ヤコブとヨハネは、イエス様が栄光を受ける時、自分たちをそのすぐそばに座らせてほしいとお願いしました。でも彼らは、その願いが本当はどういう意味なのかを理解していなかったのです。

イエス様はご自分のことを「一粒の麦」にたとえて話されました。「一粒の麦は、地面に落ちて死ななければ、ただの一粒のままです。でも、もし死ぬなら、たくさんの実を実らせることができます。」つまり、イエス様はご自分の死によって、多くの人にすばらしい永遠のいのちという実をもたらすということを言われたのです。

少し話がそれますが、以前の農協のマークをご存じでしょうか。このマークは、イエス様の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」というお言葉をもとにデザインされたものです。

このマークを作ったのは、牧師であり、農業協同組合の設立に力を尽くした賀川豊彦さんです。農協の「協」の字は、麦の穂と十字架を表していて、麦が地に落ちる姿が描かれています。

この農協のマークを見るとき、私たちに永遠のいのちという実りを与えるために、一粒の麦となってくださったイエス様のことを思い出してほしいと思います。

では、イエス様の死によって与えられた永遠のいのちを私たちが受け取るためには、どうすればよいのでしょうか。

12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」

そこでは、「自分のいのちを愛する者」と「自分のいのちを憎む者」とが比べられています。そして、「自分のいのちを憎む者」こそが、自分のいのちを守り、「永遠のいのちに至」ると書かれているのです。では、「自分のいのちを憎む者」とは、どんな人のことを言っているのでしょうか。26節には、「わたしに仕えるという」「その人」とあります。イエス様についていく人、つまり、イエス様にしっかりと従う人のことを「自分のいのちを憎む者」と言っているのです。

なぜそのように言えるのでしょうか。当時、イエス様の奇跡を見て信じた人はたくさんいました。しかし、42節にあるように、彼らは「会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった」のです。

12:42 しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。

そして、聖書は、はっきりと次のように言っています。

12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。

実は、「自分のいのちを憎む者」になるというのは、とてもむずかしいことです。イエス様に従うためには、「会堂から追い出される」ということも覚悟しなければならなかったのです。

実際に、イエス様といつも一緒にいた弟子たちでさえ、この試練にたえられず失敗してしまいました。イエス様がつかまったとき、弟子たちはみんなバラバラに逃げてしまったのです。ペテロも、イエス様のことを三回も「知らない」と言ってしまいました。

私たちも、同じようなことがあるかもしれません。自分がクリスチャンだと人に言うのをためらってしまうこともあるのではないでしょうか。

でも、そんな弱い私たちをゆるし、救うために、イエス様は「一粒の麦」となって、命をささげてくださったのです。

私たちは、イエス様の愛によってゆるされました。そして、その愛の中にとどまり、その愛にこたえる生き方をするようになりました。それはペテロも同じでした。だから、私たちも、イエス様の愛を知ったことで、自分のいのちさえも大切にしすぎずに、他の人のために生きようと思えるのではないでしょうか。

2.世界の転換点

ヨハネの福音書12章27〜33節をお読みください。イエス様は「父よ、御名の栄光を現してください。」と祈り(ヨハネ12:28)、天からの声があり、「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。」(ヨハネ12:31)と語られました。

27節には、十字架を前にして、イエス様の心が騒いでいた、つまり動揺していたと書かれています。イエス様の中に迷いがあったのです。「父よ、この時からわたしをお救いください」と言うべきだろうか、でも「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」とも言われました。イエス様は、ご自分がこの世界に来られた目的をよく分かっていました。それは、十字架にかかるためでした。それでも、いよいよその時が来たことを知って、心が揺れ動いたのです。そのような中で、イエス様は父なる神様の御心を求めました。

そして、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈られました。神様の栄光があらわれることを心から願われたのです。すると、「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう」という父なる神様の声が、人々にも聞こえました。信じようとしない人たちに対しても、奇跡を通して信じるようになるために、父なる神様ご自身が証しされたのです。つまり、イエス様が十字架にかかって苦しまれることは、父なる神様の御心であることがはっきり示されたのです。

だから、イエス様の十字架は、この世界にとって大きな転換点なのです。これまでの世のさばきが行われ、世を支配していた悪魔の力が終わり、ギリシア人たちのように、世界中のすべての人がイエス様のもとに引き寄せられ、永遠のいのちを受けられるようになるのです。

イエス様による世のさばきとは、この世界が変わる大きなきっかけになったことです。その中でも特に大きな出来事は、イエス様が黄泉に下られたことです。

使徒信条には、「十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉にくだり」と書かれています。黄泉とは、ヘブル語では「シェオル」、ギリシア語では「ハデス」と言い、一時的に死んだ人たちが行く場所とされています。

イエス様はその黄泉にまで行かれ、そこでさばきを行われたと言われています。

Ⅰペテ3:19 その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。

イエス様によって救われた人は、もう黄泉に行くことはなく、天国に行けることが約束されています。

西暦では、イエス様が生まれる前の時代をBC(Before Christ)、つまりキリストが生まれる前と呼びます。イエス様が生まれた後はAD(Anno Domini)、主の年と呼ばれます。つまり、今の年である2025年は、主の年2025年ということになります。

このように時代が分けられたのは、イエス・キリストが十字架で死なれたことによって、この世や、それまでの黄泉もふくめてさばかれ、悪魔の支配が終わりを迎え、全世界の人々がキリストのもとに引き寄せられるようになったからです。

3.光があるうち

12:34 そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」
12:35 そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。
12:36 自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。

イエス様の言葉を聞いていた人たちは、イエス様にたずねました。彼らは、イエス様をイスラエルの王、キリストとしてエルサレムに迎え入れたからです。そして、彼らはキリストは決して死なないと信じていました。だからこそ、キリストがローマ帝国からユダヤの国を救い出し、王として治めてくださると信じていたのです。

けれども、イエス様は「人の子は上げられなければならない」と言われました。この言葉を聞いて、彼らは戸惑いました。キリストと「人の子」が同じ人物なのか分からなくなってしまったのです。

その疑問に対する答えが、このあとに続くイエス様の言葉にあるのです。

もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。

この「光」は、世の光であるイエス様ご自身のことです。イエス様は、あと少しの間だけ地上におられるので、その間にイエス様を信じなさいと教えられています。なぜなら、光が去ったあとには闇がやってくるからです。闇の中では、自分がどこへ行くのか分からなくなってしまうのです。

このことは、私たちにも当てはまります。私たちの人生の中で、イエス様と共に歩む時期が与えられます。イエス様の光を見るときがあるのです。でも、そのときに「光の子」にならなければ、光はいつまでもとどまってくれるわけではありません。光があるうちに、イエス様を信じ、イエス様のもとにとどまる必要があります。

「わたしの愛にとどまりなさい」という言葉は、イエス様の光の中を歩むことを意味しています。

それは、私たちが迷わずに歩むためです。

今、私たちにもその「光」が示されています。

イエス様を信じて、光の中を歩む道を選びませんか?

イエス様の愛の中にとどまるとき、心は平安に満たされます。

どうか皆さん一人ひとりが、その光を受け取り、イエス様と共に歩む人生を選ぶことができますように。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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