大宣教命令(行って弟子としなさい)

聖書箇所:マタイ28:16〜20

説教者:高橋堅治

先週は「イースター(復活祭)」でした。これは、イエス様が十字架にかけられて亡くなったあと、お墓から生き返られたことをお祝いする日です。

私たちは毎週日曜日に教会に集まって礼拝をしています。この日曜日のことを「主の日」と呼んでいます。

聖書の「黙示録」1章10節には、こう書かれています。

「私は主の日に御霊に捕らえられ、私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。」(黙示録1:10)

弟子のヨハネも「主の日」を守っていたことがわかります。

また、「使徒の働き」20章7節には、こうあります。

「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」(使徒20:7)

この「週の初めの日」、日曜日に、初めの教会の人たちは「パンを裂く」、つまり聖餐式をするために集まり、礼拝をしていました。

また、バルナバは、この日曜日のことを「第八日」と呼びました。普通、1週間は7日間ですが、バルナバはこの「第八日」を「別の世界」の始まりと考えました。この日をうれしい気持ちで大切にし、イエス様がよみがえり、天にのぼられた日として守ってきたのです。

さて、今日はそんなイエス様が復活のあとに、弟子たちに言われた大切な言葉を学びましょう。

1.すべての権威を持つお方

「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。』」(マタイ28:16〜18)

イエス様がよみがえられた日、がっかりしていた弟子たちの前に、イエス様ご自身が現れました。そして、「よみがえった」ということを、自分の体を見せてはっきりと伝えたのです。

弟子たちは、最初はとてもこわがっていました。でも、それはすぐにうれしい気持ちに変わりました。初めは、イエス様を幽霊だと思ったようですが、本当の体を見て信じたのです。

「マタイの福音書」では、弟子たちがよみがえったイエス様と最初に会った場所はガリラヤのように書かれています。でも、他の福音書では、ちがう場所で最初に会ったようにも書かれています。

では、イエス様がよみがえった後の出来事を順番にまとめてみましょう。

イエス様のよみがえりの後のできごと(順番)

1. 日曜日の朝早く:マグダラのマリアと、もう一人のマリアがイエス様のお墓に行きました(マタイ28:1)。でも、そこにイエス様の体はありませんでした。かわりに「み使い」がいて、「ガリラヤでイエス様に会える」と教えてくれました。
2. そのあとすぐに:マリアたちが弟子たちに知らせに行こうとしたとき、イエス様がマリアの前に現れました(マタイ28:9)。
3. 記録にははっきり書かれていませんが:このころ、ペテロもイエス様と会っていたようです(ルカ24:34)。
4. その日の夕方:ふたりの弟子がエルサレムから約11km離れた「エマオ」という村へ向かっているときに、イエス様に出会いました(ルカ24:13〜34)。
5. その夕方のうちに:弟子たちがこわがって家にかくれていたとき、イエス様が突然その部屋に現れました(ルカ24:36)。でも、そのときトマスはその場にいませんでした(ヨハネ20:24)。
6. その8日後:今度はトマスも一緒にいたとき、イエス様がもう一度現れて、トマスも信じることができました(ヨハネ20:26)。
7. その後:弟子たちはガリラヤ湖のほとりで、またイエス様と会いました(ヨハネ21:1)。
8. イエス様が約束されたガリラヤの山に登ったとき:弟子たちはそこでイエス様に会いました。このとき、500人もの人が一度にイエス様と会ったと言われています(マタイ28:16、Ⅰコリント15:6)。
9. それからの40日間:イエス様は弟子たちに神様の国について教え続けました(使徒1:3)。
10. 最後に:イエス様はベタニアの近く(オリーブ山)で弟子たちに別れを告げ、天にのぼられました(ルカ24:50、使徒1:12)。

イエス様がよみがえられたあと、何度も弟子たちの前に現れて、彼らに信じる力と希望を与えられたのです。そして、大宣教命令は、ガリラヤの山での出来事でした。

イエス様がよみがえった後、弟子たちは、イエス様がただの人ではなく「神」であることを信じて、17節にあるようにイエス様に出会ったとき、ひれ伏しておがみました。でも、「疑う者たちもいた」と聖書には書かれています。ただ、この「疑う」という言葉は、「信じなかった」というよりも、「どうしていいか分からず、ためらっていた」という意味のほうが合っていると考えられます。

イエス様に出会って、弟子たちはびっくりしたり、戸惑ったりして、自分から何かを言うことができなかったのです。

そんな弟子たちに向かって、イエス様のほうから近づいてきて、はっきりと語られたのが「大宣教命令」と呼ばれる大切なことばです。

イエス様はこう言われました。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」

ここで言われている「権威」とは、「すべてをおさめる力」や「人々に大きな影響をあたえる力」のことです。そしてこの力は、すでにイエス様にゆだねられている、という意味です。

イエス様が最初に誘惑にあったとき、悪魔はイエス様をだまそうとしました。

「悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。』」(マタイ4:8〜9)

悪魔は、「この世界の国々と、そのすばらしさは全部自分のものだ」と言って、それを見せながら「イエス様が自分を拝むなら、それを全部あげる」と言ったのです。

でも実は、本当は悪魔のものではありませんでした。実際は、創造主である父なる神様のものです。イエス様が十字架で死なれたことによって、悪魔は追い出され、父なる神様から権威をイエス様が受け取ったのです。

このイエス様の権威は、永遠に続くものです。終わりがありません。

「その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」(ダニエル7:14)

たとえ今の世界が悪くて、悪魔が力を持っているように見えても、権威の持ち主はイエス様です。だから私たちは、イエス様のお名前によって祈るとき、その祈りは聞かれるのです。

「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」(ヨハネ14:14)

あなたは、イエス様の権威を信じていますか?

2.弟子としなさい

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)

イエス様は弟子たちに「ここから出て行きなさい」と命令されました。これは「大宣教命令」と呼ばれている、大切な教えの言葉です。

「あなたがたは行って」というのは、「今いる場所を出て行って、ほかの場所に行きなさい」という意味です。イエス様は、弟子たちに「ガリラヤに留まり、人々を集めなさい」とは言わなかったのです。

エルサレムでクリスチャンになった人々は、過越の祭りのためにエルサレムに来ていて、そのときにイエス様を信じるようになりました。そして、家には帰らずにそのままエルサレムで教会に加わり、共同生活をしていました。神様は、迫害を通して、彼らをそれぞれの地元に帰らせました。そして、彼らは帰った先々で福音を人々に伝えるようになったのです。

「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。……散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。」(使徒8:1、4)

イエス様は、私たちに「会堂に留まって、人々がやって来るのを待ちなさい」とは言っておられないのです。しかし、私たちは、「教会に来てください」「礼拝に来てください」とよく言います。神様のみこころは、それぞれの家や場所に帰って、そこで福音を伝えることを望んでおられるのです。

教会堂(エルサレム)が福音を伝える場ではなく、私たちの生活の場(ユダヤとサマリアの諸地方)が福音を伝える場なのです。

「伝道」と聞くと、なにか、聖書のはなしをしなければならないのか?と思うかもしれません。そうではありません。

大宣教命令で、イエス様は、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われました。このあらゆる国の中に、私たちの家族、知人、友人、職場の人が含まれています。そして、私たちがイエス様の弟子をつくるとしたら、まず「イエス様の弟子とは何か」を知る必要があります。

「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」(ヨハネ8:31)

「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:35)

すなわち、「イエス様のことばを守り行う人」のことです。

外の人々から見ると、私たちの間に愛があるか無いかが解ります。イエス様のことばは、愛の教えです。イエス様のことばを知らなくても、行いで理解できてしまうのです。だから、互いにけんかしたり、悪く言い合ったり、馬鹿にし合ったりしていると、愛がないことが分かってしまいます。まずは、私たちが愛に基づく行動、生き方をしているかどうか、省みることが必要ではないでしょうか。

たとえば、伝道のひとつ、宗教勧誘について考えてみましょう。

あなたの自宅に突然、宗教勧誘の人が訪問してきたら、どう思うでしょうか。「すてきだな」と思う人は少ないのではないでしょうか。多くの人は、「なんだかあやしい」「ちょっとイヤだな」と感じると思います。

でも、宗教勧誘の人が、相手が嫌だと思っていても、勧誘を強引に勧めてきたらどうでしょう。

実際、宗教勧誘の理由のひとつに、「人を勧誘しなければ救われない」と教えられている場合があります。勧誘されたあなたには、彼らが騒がしく愛がないことがわかります。

「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。」(Ⅰコリント13:1)

私の反省で、身近な家族と口論したことがあります。以前に、その人に他の宗教の問題点を話し、一方でキリスト教のすばらしさを一生けんめい話しました。その人は私に反論し、周りの空気がピリピリとなりました。これでは、かえって福音は伝わらないのです。それは私が相手に対して礼儀に反した行動をとった、すなわち愛がないことをしたのです。まさに、私は騒がしいどら、うるさいシンバルでした。

相手のことを考えない伝道について、ある牧師の著書から紹介します。その牧師は、神学生のころの経験なども交えながら、日本人の多くは教会に行ったことがなく、キリスト教について自分なりの先入観を持っていること、そのような未信者の霊的な状態を無視して伝道しようとすれば、伝道をかえって難しくしてしまうことを述べています。伝道が難しいのは、心を開かない未信者のせいではなく、相手の心の状態や霊的関心度を考えずに、とにかく福音を伝えなければと考えるクリスチャンが、伝道を難しくしているのだ、という指摘です(ある牧師の著書より要約)。

私たちは、伝道ということになると、相手のことを考えず、福音を伝えなければいけないと考えてしまうのではないでしょうか。そこに、愛が欠如していることに気づかないのです。

3.弟子になるには

「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19〜20)

イエス様の弟子をつくるためには、まず弟子になる方法を学ぶことが大切です。弟子になるには、「バプテスマ」と「教え(教育)」が重要です。

「バプテスマ」というのは、洗礼のことを意味します。でも、洗礼を受けたからといって、その人が聖くなるわけではありません。

聖書には、洗礼には特別な意味があると書かれています。

「バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。」(Ⅰペテロ3:21)

洗礼とは、「これからイエス様のことばに従って生きていきます」と約束すること、つまり誓いです。

なぜ洗礼が重要なのでしょうか?

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)

すなわち、イエス様を信じて、弟子として生きようとする人にとって、洗礼は効果的なのです。たとえば、夫婦が結婚式をする理由は、けじめとして「これからふたりで生きていくんだ」という決意を持つためです。洗礼も同じです。イエス様を信じた後、その気持ちをはっきりさせるために、洗礼を受けるのです。そうすることで、「これからイエス様と生きていくんだ」という決意が私たちに生まれるのです。

教育は、イエス様の言われる通り、「あなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教え」ることです。

礼拝のメッセージ(説教)は、イエス様の言葉を学ぶときです。メッセージを通して、私たちはイエス様の言葉と、どう守り行うのかを学ぶことができます。そして、実際の生活の場で実践し、弟子として成長していくのです。私たちの成長における目標は、ある牧師が書かれたように、「キリストのようになること」、すなわち、愛の人になることです。きよめられた生涯とは、Ⅰコリント13章の愛に成長していくことだと、その牧師は言っております。

1コリント13章1〜7節をお読みください。

「たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」(Ⅰコリント13:2)

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」(Ⅰコリント13:4)

この1節から3節では、「愛があるかどうかで、その人の行いの価値が決まる」ということが書かれています。

まず1節では、「異言・雄弁」について書かれています。愛がないと、その話し方に「自分をよく見せたい」という気持ちが表れます。自慢と高慢、自分の利益を求めてしまうのです。反対に、愛があると、「相手のため」「相手を元気づける」「相手を成長させる」ものです。

次に2節では、「知識・信仰」について書かれています。愛がないと、「自分の知識や信仰が正しい」と強く主張し、相手を裁いてしまうことがあります。愛があれば、相手を許し、相手の悪を心に留めません。

そして3節では、「施し・犠牲」について書かれています。愛がなければ、自己満足、褒められたい、称賛のために用いるでしょう。愛が伴う場合、相手の生活やいのちのために用いるのです。

つまり、私たちの行いがどれだけ優れていても、その行いが自分のためか、相手のためかで、愛があるかどうかが分かるのです。

イエス様の弟子は、イエス様のことばを守り、愛の実践ができる人に成長していきます。でも、私たちは「この弱い私が本当に、そんな愛の人に成長できるだろうか?」と悩んでしまうと思います。

イエス様はこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

これをイエス様のやさしい言葉で言うなら、「ごらん、ここにわたしがいるよ。あなたのすぐそばにいるよ。あなたに寄りそっているよ。わたしは、あなたのことを全部知っているんだよ。だから、あなたはわたしの愛を見習って成長できるんだよ」と言っているのです。イエス様の弟子たちも、何度も失敗を繰り返しながら、イエス様に守られて成長しました。私たちも、イエス様が寄り添って下さるから、失敗しても良いのです。いっしょに成長していきましょう。

大宣教命令でいう宣教・伝道とは、私たちがイエス様の弟子として毎日を生きることです。そうすれば、まわりの人々は、私たちの中に愛があることに気づくようになります。それは、イエス様のことばは、愛の教えだからです。イエス様を求道することは、人々がその愛をもっと知ろうとすることです。すなわち、人々をイエス様の弟子とするのは、自らがイエス様の弟子となって生きることです。

最後に、イエス様の愛による伝道、生活伝道を紹介します。その牧師は、何でもかんでも福音を聞かせれば伝道したことになるという考えは捨てなければならないこと、多くのクリスチャンが相手を愛することよりも、教会の集会に来させることや聖書の話を聞かせることばかり考えがちで、それが伝道を難しくしていること、そして、家族や職場の人々を愛し、大事にすることが大切であることを述べています(ある牧師の著書より要約)。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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