わたしの愛にとどまりなさい

聖書箇所:ヨハネ15:1〜17

説教者:高橋堅治

先週、私たちは杏の里教会で「定期総会」を行いました。今年の教会の目標として決められた標語は、「わたしの愛にとどまりなさい」です。

これまで私たちは、「ヨハネの福音書」や、ビジョンについての聖書の言葉を一緒に学んできました。今日は、その学びの続きとして、「ヨハネの福音書15章」から聖書のことばを見ていきたいと思います。

ヨハネの福音書15章は、「イエス様の告別説教」と呼ばれているところです。このとき、イエス様はもうすぐ十字架にかけられることを知っていて、ゲッセマネという場所で祈ったあと、祭司長や律法学者たちが送った兵士たちに捕まってしまいます。その少し前に、イエス様は弟子たちに大切なことばを語られました。

聖書にはこう書かれています。

「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(ヨハネ13:1)

イエス様は、ご自分の者たち――つまり、イエス様に従ってきた弟子たちを心から愛して、最後のときまでその愛を注がれました。そして、その愛をあらわすことばとして、弟子たちに語られたのです。

1.わたしにとどまりなさい

ヨハネの福音書15章1〜8節をお読みください。要となる一句は次のとおりです。

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)

イエス様は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」と言って、ご自分のことを「ほんとうのぶどうの木」だと話されました。

旧約聖書では、イスラエルの人々のことを「ぶどうの木」と呼ぶことがあります。そして、そのぶどうの木を大切に育ててこられたのが神様なのです。ユダヤ人たちは、いつか救ってくれる特別な方、つまりキリストが来ることをずっと待ち望んでいました。だからイエス様は、「わたしはまことのぶどうの木」とご自分を紹介されたのです。そして、そのぶどうの木を大事に世話してくださる方が「わたしの父」、つまり世界をつくられた神様だと教えてくださっています。

それは、「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさ」るということからもわかります。ぶどうは、昔からぶどう酒(ワイン)をつくるために育てられてきました。ぶどうの実はおいしいですが、とても傷みやすいです。昔は冷蔵庫のようなものがなかったので、ぶどうの実をそのまま長く保存することができませんでした。そのため、ぶどう酒にして保存するのが良い方法でした。また、ぶどうの皮には自然に酵母という発酵を助けるものがついているため、ほっておくだけで自然にぶどう酒ができることもあります。水がきれいではなかった時代、ぶどう酒は水よりも安全で、ばい菌をやっつける働きもありました。少しだけ飲むぶどう酒は、健康にも良いと考えられていました。良いぶどう酒を作るには、まず良いぶどうの実を育てることが大切です。そのために、農夫はぶどうの木の手入れをしっかり行いました。

私は専門家ではありませんが、ヨーロッパのぶどう農家がどう育てているかを調べてみました。

ぶどうは「つる植物」で、葉が落ちる木の一種です。木の寿命は数十年から100年以上と、とても長く生きるようです。ぶどうの幹が育ってくると、だんだんと硬くなり、そこからつるのような枝が伸びていきます。冬になると葉が全部落ちて、木は休んだ状態になります。そして春になると、新しい芽が出てきてまた育ち始めます。ぶどうの実をつけるには、「剪定」という作業が必要です。毎年2月ごろ、木が休んでいる間に、古くなった枝を切って取り除きます。古い枝は実がなりにくいからです。ヨーロッパのぶどう農家では、去年伸びた枝だけを残し、それ以外の枝は全部切ってしまうようです。そうすると、去年の残った枝から新しい芽が出て、そこに実がつくのです。

5月になると、風通しを良くするために、いらない芽を取る「芽欠き」をします。

この2節の聖書の言葉については、今までにいろいろな考え方がありました。「実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き」という部分から、「実を結ばないクリスチャンは神様に切り捨てられてしまう」と考える人もいれば、その考え方は「神様の愛に合わないのでは」と疑問に思う人もいます。そして、「取り除く」という言葉にはギリシア語で「持ち上げる」という意味もあるので、それは日光が当たるように枝を上に持ち上げるぶどう農家のやり方のように、実を結べないクリスチャンにも神様が手をかけて助けてくださるという考え方もあるようです。

でも、前述したように、実際のぶどうの育て方を知ると、聖書のこの言葉は「実を結べない古い枝を切って、実をつける枝を残す」という本来の意味通りでよいのかもしれません。すなわち、クリスチャンの生涯そのものです。つまり、クリスチャンの生涯は実を結ぶため、すなわち、神様から与えられた使命を果たすためにあるのです。そして、その使命が終わりを迎えるときが、私たちの人生の終わりとなるのです。私たちは病気や事故で命を終えるのではなく、地上での使命が終わったときに、神様によって地上での人生が終えられるのです。実を結ばなくなった私たちはただ刈り取られてしまうのでしょうか。実は、ぶどう農家は、刈り取った枝をとっておき、それを新たなぶどうの木とするようです。まさに復活のいのちを得ることを象徴しているように。

そして、実を結ぶ枝に対しては、神様がもっと良い実を結べるように手入れ(刈り込み)をしてくださいます。この「刈り込み」を表すギリシア語「カタイロー」には「清める」という意味があり、いらない部分を取り除くという意味です。すなわち「聖化」と呼ばれるものです。

神様の使命に生きるためには、必要な栄養が必要です。その栄養は、イエス様ご自身から与えられるものです。だから、クリスチャンが神様の使命を果たして生きていくためには、イエス様からの栄養(力や導き)をしっかり受けることが大切なのです。そのためには、イエス様とつながっていること、つまり「イエス様にとどまること」が大事なのです。

クリスチャンが実らせる実とは、「御霊の実」のことなのです。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22〜23)

これらの実は、どんな味がするのでしょうか。たとえるなら、「じっくり煮込んだスープに、ほんのり甘くてやさしい香りがただよう」ような感じのようです。甘さや苦さ、すっぱさやうまみがうまくまざっていて、最初のひと口はやさしくて、あとからゆっくりと心や体にしみこんでいく味です。それはまるで、心を元気にして、整えて、豊かにしてくれる「人生の味」と言えるでしょう。とてもすばらしい人生の実りだと思います。

このような実を得るためのポイントは、イエス様につながっていることです。イエス様につながるというのは、「わたしのことばがあなたがたにとどまっている」ことです。つまり、聖書のことばを心に大切にとめて、そのことばにしたがって生きていく生き方のことなのです。

2.わたしの愛にとどまりなさい

ヨハネの福音書15章9〜12節をお読みください。要となる一句は次のとおりです。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:12)

9節には「父がわたしを愛された」と書かれています。ここでの「父」とは、父なる神様のことです。神様は世界をつくられた創造主であり、イエス様を愛して、この世界にキリストとして送ったのです。そして、父なる神様がイエス様を愛したように、イエス様も自分の弟子たちを愛しました。神様とイエス様の間にある愛の関係を知りたいと思う人もいるかもしれませんが、その愛と同じように、イエス様は弟子たちを愛されたのです。つまり、それはイエス様が私たちを愛してくださっているということです。その愛は、どのようなものなのでしょうか。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)

私たちがまだイエス様を愛していなかったのに、イエス様は私たちを愛してくださり、私たちの罪のために命を捨ててくださいました。このイエス様の愛の中にとどまりなさいと、イエス様は教えておられます。「とどまる」とは「いつも持っている」という意味で、つまり「イエス様の愛をいつも心に持っていなさい」ということです。心の中にイエス様の愛をいつも大切にしているなら、私たちはイエス様の愛の中にいると言えるのです。

もっと言えば、それは「イエス様の教えを守る」ということでもあります。聖書の10節には、これからの人生の中でイエス様の教えを守っているときは、私たちがイエス様の愛を持っているのだと言うのです。つまり、私たちがイエス様の教えを実行しているとき、私たちはイエス様の愛の中にいるのです。

そして、イエス様の教えを実行しているときにこそ、イエス様の喜びが私たちにも与えられ、私たちの心も喜びでいっぱいになるのです。このイエス様の教えとは、「互いに愛し合いなさい」ということです。

この「互いに愛し合う」という言葉には気をつけなければなりません。日本語では「お互いに愛し、愛される」と考えがちですが、聖書の元の言葉(ギリシア語)では「自分から愛する」という意味です。つまり、相手からの愛を待つのではなく、自分から積極的に相手を愛するということです。

だからこそ、イエス様の愛をいつも心に持ち、自分からすすんで人を愛していくことが大切なのです。このように実際に愛を行う中で、イエス様は私たちに喜びを与えてくださると約束しておられます。

イエス様の教えを行うこと、愛することは喜びです。喜びが満ちあふれるようになるとイエス様は約束されています。

現在、水曜日の祈り会では、ヘンリー・クラウド氏らの「境界線」を学んでいます。前回は「境界線の十の法則」のうち、法則五「動機の法則」を学びました。少し紹介しましょう。

ある男性が、聖書で「受けるよりも与える方が幸いである」と学びながら、人のために尽くしても少しも幸せを感じられず、疲れ果てて落ち込んでしまうという例が紹介されています。助言者は、愛があるなら落ち込むのではなく幸せを感じるはずだと指摘します。話し合う中で、その男性は自分の「行い」の多くが愛からではなく、愛を失うことや人を怒らせることへの恐れから出ていたことに気づきます。(ヘンリー・クラウド氏らの『境界線』より要約)

イエス様の戒めを守ることは、互いに愛することですが、それは重荷にはなりません。

「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」(Ⅰヨハネ5:3)

もし、重荷であれば、それは動機が間違っているからです。私たちの動機がイエス様の愛に応えることでないかどうかを振り返ってみてはどうでしょうか。

3.あなたがたはわたしの友です

ヨハネの福音書15章13〜17節をお読みください。要となる一句は次のとおりです。

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)

イエス様は、「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言っています。イエス様の言うこととは、何度も言っていますが「互いに愛し合うこと」です。つまり、私たちがお互いに愛し合うなら、私たちはイエス様の友だということです。

ここで言う「友」というのは、ギリシア語で「親しい」「好意的」という形容詞です。私たちがイエス様の愛を受け取り、その愛に心を動かされて他の人を愛するようになるとき、イエス様は私たちのことを親しい存在、好ましい存在として見てくださるのです。

それは、私たちがイエス様の愛を理解し、それを行おうとしているからです。まさに、イエス様にとって同じ心を持つ仲間、同じ目標を持つ同志なのです。

そのとき、私たちの立場は、しもべ、つまり奴隷ではなく、自由な人にしていただいたのです。イエス様の愛は、私たちを奴隷のような立場ではなく、友として受け入れてくださるのです。

今日は、奴隷と友について聖書から一つの例を紹介します。

パウロが書いた手紙の中で、一番短いものが「ピレモンへの手紙」です。ピレモンは、コロサイという町に住んでいたお金持ちの人で、パウロに出会ってクリスチャンになった人です。このピレモンには、オネシモという奴隷がいました。オネシモは、ピレモンの財産を盗んで逃げてしまい、ローマで投獄されていたパウロと出会いました。オネシモもクリスチャンになり、パウロの手伝いをするようになりました。パウロは、オネシモが逃げた奴隷であることを知り、オネシモのためにピレモンに手紙を書き、それをオネシモに持たせました。パウロは、ピレモンに対して、キリストのために、オネシモを赦し、奴隷ではなく愛する兄弟として受け入れてほしいと願ったのです。

「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。」(ピレモン16)

オネシモは、その後、ピレモンによって自由にされました。当時、逃げた奴隷はふつう死刑になる決まりでしたが、ピレモンはキリストのために、オネシモを兄弟として受け入れたのです。それは、ピレモンがイエス様の愛を知っていたからこそで、オネシモを赦し、「互いに愛し合うこと」を選んだのです。

イエス様は、私たちの罪をゆるすために、私たちの代わりに十字架で死なれました。私たちがその死を自分のためだと信じ、そのイエス様の命がけの愛を受け入れたとき、私たちも、他のキリストが愛されるクリスチャンを愛し受け入れることができるはずです。だからこそ、イエス様は私たちを友であり、仲間と呼んでくださるのです。

私たちは先週の教会総会で、新しい標語として「わたし(イエス)の愛にとどまりなさい」という御言葉をいただきました。私たちが成長して、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」といった御霊の実を身につけていくためには、イエス様にとどまる、すなわち、イエス様の言葉をしっかり受けとめて、それを実際に行うことが大切です。

また、「イエス様の愛にとどまる」とは、私たちが自分から兄弟姉妹を愛そうとすることでもあります。そのとき、イエス様は、私たちを友、同志と認めて下さるのです。

この一年、イエス様にとどまろうではありませんか。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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