わたしのために良いことをしてくれた

聖書箇所:ヨハネ12:1〜8

説教者:高橋堅治

先週は、民数記14章から「勝利の秘訣は主が共におられること」だと学びました。さらに、その前のメッセージでは、ヨシュアが率いるイスラエル軍とアマレク軍の戦いについて学びました。この戦いでは、モーセが背後で祈っていたことが勝利の決め手となったのです。この経験を通して、ヨシュアは「神様の助けがあれば必ず勝てる」と確信しました。

しかし、カレブを除く他の10人の偵察隊は、恐れから人々に悪い報告をしました。私は、「神様による勝利を経験していない人は、これまでの自分の経験から恐れを感じやすい」ということ、そして「ヨシュアのように神様を信頼する人は、すべてを神様に委ねることができるので、今まで経験したことがないことでも積極的に挑戦できる」ということを教えていただきました。これからの学びがとても楽しみです。

さて、今日はヨハネの福音書を学びます。前回は11章で、ラザロの死を通してマルタが得た信仰について学びました。今日は、ヨハネの福音書12章から、マリアについて一緒に学んでいきましょう。

1.イエスのために

ヨハネの福音書12章1〜3節をお読みください。「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ12:3)

前回の内容を振り返ります。

エルサレムから約3km離れたオリーブ山の東側に、小さな村ベタニアがありました。そこに、マルタ、マリア、ラザロの3人の兄弟姉妹が住んでいました。彼らはイエス様と親しく、イエス様がエルサレムに来るときには、いつも彼らの家に泊まっていたようです。

あるとき、ラザロが重い病気にかかり、亡くなってしまいました。4日後にイエス様が訪れ、ラザロを生き返らせました。そのとき、ちょうど葬儀に来ていた多くのユダヤ人たちがその奇跡を目の当たりにし、イエス様を信じるようになりました。

「マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。」(ヨハネ11:45)

ここで「イエスを信じた」と訳されているギリシャ語「ἐπίστευσαν εἰς αὐτόν(エピステフサン エス アフトン)」には、「イエス様に対して全面的に信頼する」という意味があります。もし私たちもその場にいたら、驚きと感動でいっぱいになったのではないでしょうか。

しかし、奇跡を目撃したユダヤ人の中には、パリサイ人たちのところへ行き、イエス様がしたことを報告する人たちもいました。パリサイ人たちはこれを聞き、すぐに祭司長たちと話し合い、最終的に「イエス様を殺す」と決めてしまいました。

どれほど驚くべき奇跡を見ても、神様を信じるのではなく、人の目を気にしてしまうことが、私たちの弱さなのかもしれません。その結果、イエス様は身を隠すような生活を送らざるを得なくなったのです。

そのため、イエス様はもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、荒野に近いエフライムという町に弟子たちとともに滞在されました。(ヨハネ11:54)

エフライムという場所は、エルサレムの北東約15kmにあり、現在の「タイベ」と呼ばれるところではないかと言われています。

過越しの祭りが近づくと、人々はエルサレムで過ごすために集まってきました。当時、この祭りには、イスラエルの成人男性全員がエルサレムに行くことが決められていたようです。

ラザロがよみがえった奇跡の話は多くの人々の間でうわさになっていました。また、宗教指導者たちがイエス様を捕えようとしていることも広まっていたようです。

ヨハネ11:56には、人々が宮の中で互いに「あの方は祭りに来られないのだろうか」と話していたことが記されています。

イエス様は、過越しの祭りの6日前に、再びベタニア村を訪れた。そこには、ラザロとその姉妹であるマルタとマリアが住んでいた。村の人々は、イエス様が来られたことを喜び、イエス様のために夕食、つまり宴会を開いた。

「人々はイエスのために夕食を用意しました。マルタは給仕をし、ラザロは、イエスとともに食卓についた人々の中にいました。」(ヨハネ12:2)

人々は、ラザロをよみがえらせたイエス様を心から歓迎しました。マルタは、イエス様のために一生懸命もてなしをし、ラザロはイエス様とともに食卓につきました。二人とも、イエス様を喜んで迎えていたのです。

そのとき、マリアがやってきました。彼女の手には、純粋でとても高価なナルドの香油が1リトラ(約330cc)ありました。マリアは、その香油をイエス様の足に塗り、自分の髪の毛で拭いました。

ナルドの香油は、「スパイクナード」とも呼ばれています。この香油は、インドのヒマラヤ地方の標高3000~5000メートルの場所に生える「せり科」の植物の根から作られます。根を細かく砕いて蒸留すると、強い香りのする琥珀色の油ができます。当時、この香油は遠くから輸入され、作るのも難しかったため、とても高価でした。主に、王様や身分の高い人への贈り物として使われていました。また、当時の女性たちは、結婚のときに持参金として使うために、このような香油を貯めておく習慣があったようです。5節には、この香油が「300デナリ」で売れるほどの価値があったと書かれています。1デナリは当時の労働者の1日分の給料で、現代のお金に換算すると1万円ほどになります。つまり、300デナリは約300万円にもなる香油だったのです。当時の結婚持参金は1~2年分の賃金に相当するほど高いため、この香油は、マリアが結婚のために準備していたものだったかもしれません。いずれにしても、マリアにとって貴重な宝だったはずです。

マリアは、その貴重な香油を使ってイエス様の足に塗り、自分の髪の毛で拭いました。当時、高貴な人をもてなす際に、足に香油を塗ることはありましたが、それほど高価な香油を使うことは、普通では考えられないことでした。また、ユダヤの女性にとって髪は「貞淑(ていしゅく)の象徴」とされ、人前では髪を隠すのが一般的でした。それなのに、マリアはその髪を使ってイエス様の足を拭ったのです。さらに、足を拭く仕事は奴隷がするものでした。つまり、マリアの行動は、イエス様に対して「私はあなたのしもべです」と示すものでした。

マルタやラザロも、イエス様に対して感謝を込めて、心からもてなしたことでしょう。しかし、マリアの行動は、それとは少し違いました。マリアたちは、ラザロの死を悲しんでいましたが、イエス様によってその悲しみは喜びに変えられました。そしてマリアは、「この方こそ神の子キリストだ」と確信し、自分の全てをささげる決意を表したのです。

イエス様の足を洗うことで「私はあなたのしもべです」と示し、高価なナルドの香油をささげることで「あなたは私の王です」と告白しました。それは、自分の大切な財産をささげることでした。そして、髪の毛で拭うことで、髪を解き、自分のプライドすらもイエス様にささげたのです。

マリアのこの行動によって、「家は香油の香りでいっぱいになりました」と聖書に書かれています。ナルドの香油は、少し垂らすだけでも強く香るものです。私も、一滴垂らしただけで、周りの人から「すごく匂うね」と何度も言われたことがあります。もし300ccもの香油を使ったなら、聖書の言葉どおり、家中が香りで満たされたことでしょう。どこにいても、その香りに包まれるほどだったはずです。

さてヨハネの福音書が書かれた目的は、

「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)

これまでヨハネの福音書を学んできましたが、イエス様に出会った人々は、「この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ4:29)と自問自答した様子がみられます。

ヨハネ9:22には、すでにユダヤ人たちが、イエスをキリストであると告白する者がいれば会堂から追放すると決めていたとあります。また、「議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。」(ヨハネ12:42〜43)

昔の時代、イエス様を信じても、それを周りの人に言うのはとても怖いことでした。なぜなら、イエス様を「キリスト」だと告白すると、ユダヤ人社会から追い出されてしまったからです。つまり、イエス様を信じることは、大きな犠牲を払う覚悟が必要だったのです。聖書には、「神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した」と書かれています。多くの人々は、自分の立場や周りの目を気にして、イエス様を信じていることを公にするのを恐れていました。

では、マリアはどうだったのでしょうか?

彼女は、兄のラザロが亡くなったとき、イエス様の前で泣き崩れてしまうような、心の弱い女性でした。しかし、そんなマリアが思い切った行動をとったのです。彼女は自分をへりくだらせ、高価な香油をイエス様にささげ、自分の誇りすら捨てました。彼女は周りの目や自分の立場を気にせず、ただイエス様だけを見つめていたのではないでしょうか。

私たちは、これまで聖書を通してイエス様の言葉や行いを学んできました。心の中では、イエス様をキリストだと信じているかもしれません。しかし、周りの目を気にして、それを口に出せないこともあるでしょう。それは、「神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛している」からかもしれません。

私たちもマリアのように、イエス様だけを見つめて生きることができるのではないでしょうか。イエス様がキリストであると信じるなら、マリアと同じように、へりくだった心を持ち、大切なものをイエス様にささげることができます。そして、自分の誇りすらイエス様にゆだねることができるのです。

2.イエスの価値

ヨハネの福音書12章4〜6節をお読みください。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(ヨハネ12:5)

ナルドの香油の香りが家の中に広がったとき、それを快く思わない人がいました。それがイスカリオテのユダです。彼は「イエスを裏切ろうとしていた」、つまり、イエス様をユダヤ人たちに引き渡そうと考えていた人物でした。

ユダがなぜイエス様の弟子になったのかは、はっきりとは分かりません。映画などでは、彼が自ら裏切り者の役割を演じたように描かれることもありますが、おそらく彼も他の弟子たちと同じように、イエス様こそがローマ帝国からユダヤを解放してくれる方だと信じていたのかもしれません。しかし、イエス様の言動からはそのような意思が感じられず、ユダは次第に失望していった可能性があります。

ヨハネ6:66には、多くの弟子たちが離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなったと記されています。

けれども、ユダはイエス様のもとを去ることはしませんでした。その理由のひとつとして、彼がお金を愛していたことが考えられます。彼は弟子たちの持っているお金を管理していましたが、その金入れからお金を盗むことができたため、イエス様のもとに留まっていたのかもしれません。彼はとても強欲だったのです。

そのため、マリアがイエス様のために300デナリもの高価な香油を使ったことに強い不満を抱きました。そして、マリアを厳しく責めたのです。

マルコ14:4〜5にも同様の記述があります。何人かの者が憤慨して「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか」と言い、彼女を厳しく責めました。

ユダには「貧しい人々に施す」気持ちはありませんでした。なぜなら、そのお金が自分のところに入れば、自由に使うことができたからです。

また、ユダは周りの人の考えをうまく利用して、他の弟子たちも自分の意見に賛成させました。彼にとって、イエス様のためにたくさんのお金を使うことは、全く意味のないことだと思っていたのでしょう。

そして後に、ユダは銀貨30枚と引き換えに、イエス様を祭司長たちに引き渡しました。

マタイ26:15には、ユダが祭司長たちに「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう」と言い、彼らは銀貨三十枚を彼に支払ったと記されています。

当時、銀貨30枚というのは奴隷を買うときの一般的な価格で、現在の価値にするとおよそ30万円くらいだと言われています。つまり、ユダにとってイエス様は、30万円の奴隷と同じくらいの価値しかなかったのです。

一方で、マリアにとってイエス様は、自分のすべてを捧げるほど大切な存在でした。しかし、ユダにとっては、全く価値はなく、ただの奴隷と同じように考えていました。

では、あなたにとってイエス様の価値はどの程度でしょうか?

以前、「あなたにとってイエス様とはどんなお方でしょうか?」と問いかけたことがあります。

イエス様はあなたにとって「キリスト」でしょうか? それとも「人々を惑わす者」でしょうか?

あなたはイエス様に価値を見いだしていますか? それとも、ただのうそをつく人だと思いますか?

聖書には、次のように書かれています。

「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。」(マタイ27:63)

少し厳しい言い方かもしれませんが、もしイエス様のことを「人を惑わす男」と思うなら、ユダや祭司長のように、イエス様の言葉に背を向けて、自分中心の人生を歩めばよいでしょう。

しかし、もしイエス様こそ「神の子キリスト」だと信じるなら、マリアのように「自分は価値のない者です」とへりくだり、このお方に従うべきではないでしょうか。

3.自分のできることをする

ヨハネ12:7〜8をお読みください。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」(ヨハネ12:7)

ユダがマリアを責めたとき、イエス様は「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです」と言われました。これは、「彼女を責めないであげなさい」という意味です。マリアは、イエス様が埋葬される日のために、大切に香油を取っておき、今日それを使ったのですとイエス様は言いました。

そしてイエス様は、「わたしはいつも一緒にいるわけではありません」と言われました。これは、ご自分がもうすぐ亡くなることを知らせていたのです。マルコの福音書を見ると、

マルコ14:6〜9をお読みください。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。」(マルコ14:6)「彼女は、自分にできることをしたのです。」(マルコ14:8)

イエス様は、マリアの行動について「わたしのために、良いことをしてくれたのです」と認められました。これは、「わたしのために立派な働きをしてくれた」という意味です。

そして、イエス様は続けてこう言われました。

「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。」(マルコ14:7)

ここで言われている「貧しい人々」とは、お金がない人だけでなく、心や信仰の面で苦しんでいる人たちも含まれます。そのような人々は、いつも私たちのそばにいるので、助けたいと思ったときに、いつでも助けることができるのだとイエス様は教えておられます。

また、イエス様は「彼女は、自分にできることをしたのです」とも言われました。

マリアがこの行動をしたとき、彼女は特にイエス様の埋葬のことを意識していたわけではなかったでしょう。彼女は、ただイエス様に対する愛と信仰の気持ちを込めて、自分自身をささげたのです。

イエス様はそのことを「わたしのために立派な働きをしてくれたのです」と評価されました。そして、「貧しい人々は、あなたがたのそばにいる」とも言われています。それは、イエス様がその人々を助ける働きを、私たちに託しておられるということです。私たちは、イエス様の思いを受け継ぎ、困っている人々に良いことをしていくことができます。

マタイの福音書25章には、

「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)

イエス様は、「兄弟たちの中で最も小さい者の一人にしたことは、イエス様にしたことだ」と言われました。

私たちはキリストを信じ、愛しています。そのことをいつも心に留めているなら、私たちもマリアのように、自分自身をイエス様に捧げることができるはずです。では、どのようにすればよいのでしょうか? それは、「最も小さい者の一人に」良いことをすることです。

私たちは神様によって、それぞれの場所に遣わされています。家庭や職場、私たちが関わる人々に対して、親切な行いや、キリストの教えに従った行動をすることが大切です。そうすれば、マリアの行為によって、その香りが家いっぱいになったように、私たちを通して、キリストの愛が周りに広がっていくのです。私たちは、キリストの香りなのです。

「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。」(Ⅱコリント2:15)

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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