この前の2月16日に、顧問牧師がお話しされたメッセージでは、ヨシュアが登場する「アマレクとの戦い」について学びました。イスラエルの軍隊を率いたヨシュアでしたが、勝敗を決めたのは彼らの戦力ではなく、背後で祈っていたモーセ、そしてその祈りを支えたアロンとフルの存在でした。
私たちは、目に見える行動に注目しがちですが、神様の戦いでは「祈り」が最も大切だと教えられました。また、以前に「隣人を愛するために私たちが行うことは、イエス様の仕事である」と学びましたが、それは同時にサタンとの戦いの場でもあります。だからこそ、私たちがイエス様の仕事をするときには、祈ることがとても大切であると私は思いました。
さて、定期総会の前にビジョンについて学ぶのは、今日が最後になります。これまで、私たちは長い間、一緒に祈り、考えてきましたね。
ビジョンについては、誰か一人が「こうあるべきだ」とすぐに決めるのではなく、これまでのさまざまな聖書の言葉を考えながら、聖霊による一致が得られるまで、イエス様の御心を求めていくことが大切です。なぜなら、教会の頭(リーダー)はイエス様だからです。だからこそ、まずイエス様にお聞きすることが、一番良いのです。
今日は、「わたしの好む断食」というテーマで、イザヤ書58章から学んでいきます。
イザヤ書は、預言者イザヤが書いた聖書の書物です。イザヤは、紀元前740年ごろから約40年間、神様のメッセージを人々に伝えました。彼は、ユダ王ウジヤが亡くなったとき、神殿で神様の幻(特別なビジョン)を見て、その後、神様に選ばれた預言者となりました。そして、彼はユダの国に対する神様の裁きと、やがて来られる救い主(メシア)について予言した人物でした。
1.その声は届かない
イザヤ書58章1〜4節をお読みください。
この聖書の箇所では、神様がイザヤを通してイスラエルの人々に警告を伝えています。最初の部分で、「精一杯大声で叫べ。角笛のように声をあげよ」と言われているのは、それほど重要で緊急な問題があったからです。
では、どんな問題だったのでしょうか?
イスラエルの人々は、毎日神様を求め、神様の教えを知りたいと願っていました。そして、神様に近づこうとしていました。一見、とても信仰深く、立派な姿に見えますよね。でも、彼らは「こんなに断食して努力しているのに、どうして神様は応えてくれないのですか?」と不満を言っていました。
つまり、彼らの信仰は外側だけのもので、本当に神様の心に従っているわけではなかったのです。ただ形式的に信仰を持っているように見せているだけだったので、神様はそれを厳しく指摘されたのです。
神様は、彼らにこう答えています。
「あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる」
つまり、神様は「断食をしていると言いながら、本当は自分の好きなことをしているだけではないか」と言っています。そして、「あなたがたの労働者をみな、追い立てる」とは、断食という儀式を人々に強制しているという意味です。
さらに、神様はこうも言います。
「あなたがたが断食をするのは、争いとけんかのためであり、不当に拳で殴るためだ」
これは、「断食をしているのに、結局、争いやけんかばかりしているではないか」ということです。だから、 「いと高き所に、その声は届かない」 つまり、神様は、そんな祈りには答えないのだと言っているのです。
さて、断食とは何でしょうか。それは、自分の意思で食べることをやめることです。
「断食」という言葉の元の意味には、「魂を悩ませる」という意味があります。断食の目的は、自分自身を振り返り、神様の前で悲しみや嘆きを表すことでした。
しかし、いつの間にか、断食は「自分の願いを聞いてもらうための手段」になってしまいました。これは、いわゆる「願をかける」という行為です。
さらに問題なのは、断食が「自分は信仰心が深い」と人に見せるための手段になってしまったことです。
イエス様は、「山上の説教」で次のように語られました。
「彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(マタイ6:16)
当時、パリサイ人たちは、週に月曜日と木曜日の2回、断食をしていました。彼らは、断食をするとき、人々の前に出て、自分たちが信仰深いことをアピールしようとしたのです。
しかし、イエス様は「彼らはすでに自分の報いを受けている」と言われました。つまり、彼らが得る報いとは、人々から「信仰深い」と思われることだけだったのです。
でも、神様は彼らに警告します。「そんなことをどれだけ頑張っても意味がない。それは本当に神のためではなく、自分を満足させるためではないのか?」と。
私たちは、このイエス様の警告をしっかり心に留める必要があります。
マタイ7章22〜23節をお読みください。
「主よ、主よ」と一生懸命に呼びかける人たちに、主は「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け」と言われるのです。なぜなら、それは本当に神様のためではなく、自分を満足させるためだからです。
「栄光泥棒」という言葉を聞いたことがありますか? たとえば、礼拝に有名な賛美歌手やメッセンジャー(説教をする人)を呼んだとします。彼らの素晴らしい歌やメッセージに感動した人々が、歌手やメッセンジャーをほめたたえると、その人たちは「栄光泥棒」になってしまうのです。本来、礼拝や賛美、説教は、神様がほめたたえられるべきものです。もし、メッセージを聞いて「すごく良かった」とか「今日はつまらなかった」と評価するだけなら、それは本当に神様のためではなく、自分を満足させるためのものになってしまっているのかもしれません。
来月の定期総会では、杏の里教会の活動計画や予算、奉仕について話し合います。そのとき、行事や予算の目的をよく考えることが大切です。判断するときの基準は、それが「自分たちを喜ばせるためかどうか」です。奉仕についても、他の人と比べる必要はありません。「自分のほうがすごい」「自分はあの人より劣っている」と考えて、高ぶったり落ち込んだりすることを神様は望まれていません。なぜなら、その考えの根本には「自分を満足させたい」という思いがあるからです。
もし、私たちが自分のことだけを考えて行動しているのなら、どれだけ熱心にしていても、「いと高き所に、その声は届かない」のです。
2.わたしの好む断食
イザヤ書58章5〜7節をお読みください。「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。」(イザヤ58:6)
では、私たちが一生懸命に目指さなければならないことは何でしょうか。6節と7節を見てみましょう。
「悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くこと」、「飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みること」これが「神様が望まれる断食」、つまり神様が選ばれる本当の信仰の姿なのです。
6節の御言葉では、私たちが神様の前でどのような態度を持つべきかが語られています。
(1)悪の束縛を解き:決まりきったルールや習慣に縛られず、自由になること。
(2)くびきの縄目をほどき:心の重荷や罪悪感を取り除くこと。
(3)虐げられた者たちを自由の身とし:人が作ったルールや決まりごとに縛られず、自由になること。
(4)すべてのくびきを砕くこと:強い権力や厳しい命令から解放されること。
つまり、形だけの「断食」にこだわるのではなく、本来の目的である「魂を悩ませる」ことに立ち返るべきだ、ということです。これは、神様の前で謙虚になり、自分の心を見つめ直し、自分の状態を悲しみ、悔いることを意味します。これは、ルカの福音書に出てくるイエス様のたとえ話に登場する取税人の姿勢と同じです。
ルカの福音書18章10〜13節で、イエス様は、パリサイ人と取税人が祈るたとえを話されました。取税人は「神様、罪人の私をあわれんでください」と祈りました(ルカ18:13)。
パリサイ人は、形式的であり、自己満足的でした。一方、取税人は自分の魂を苦しめていました。それは本来の断食の精神です。イエス様は、それに対して、14節で、
「義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この(取税)人です。」(ルカ18:14)
と言われています。
私たちは、教会の活動、礼拝、賛美、祈り、説教、献金、奉仕を考える必要があります。形式、自己満足に陥らず、神様に喜ばれることは何かを追い求めていくことが必要ではないでしょうか。
ですから、教会ビジョンは、私たちがしたいことではなく、神様が教会に与えるものを求めるべきです。以前、お話ししました「イエス様中心」です。私たちは何事もイエス様に頼ることです。何か問題が発生したとき、私たちは誰に(何に)頼っていますか?それが今のあなたの中心にある存在です。あなたの必要とする存在です。あなたは本当にイエス様を必要としていますか?
それから、7節の御言葉は、神様が言われる「断食」という行いについてです。つまり、
1. 飢えた人にあなたのパンを分け与えること
→ 自分のパンを食べず(=断食)、飢えている人にパンを与えること。
2. 家のない貧しい人々を家に入れること
→ 住む場所がない人々に、自分の家を提供する(=断食)。
3. 裸の人を見て、その人に服を着せること
→ 裸の人に、自分の服を分け与える(=断食)。
4. 自分の家族を大切にすること
→ 家族を愛するために、自分の時間を使う(=断食)。
これらに共通しているのは、すべて「人を愛するために、自分の持っているものを差し出す」ということです。神様はこのような行いを「断食」と呼んでおられます。
では、この「断食」の心を、イエス様の「山上の説教」から学んでみましょう。
マタイ5章42〜48節をお読みください。
これらはすべて、自分の何かを差し出して、相手を大切にする行いです。なぜなら、私たちの天の父である神様は、「ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」お方だからです。そして、イエス様は、私たちに、
「天におられるあなたがたの父の子どもになる」(マタイ5:45)ために、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」(マタイ5:48)と、
神様はこのように求めておられます。神様の子どもになるとは、とても高い目標のように感じるかもしれません。ですが、聖書には、私たちは父なる神様の子どもであるとはっきり書かれています。
「事実、私たちは神の子どもです。」(Ⅰヨハネ3:1)
ヨハネは、私たちが「神様の子ども」と呼ばれることができるのは、どれほど素晴らしい愛を神様が私たちに与えてくださったのかを考えるように勧めています。
私たちは、父なる神様にとても大切にされており、御子イエス様のいのちによって救われました。そして、神様は私たちに永遠のいのちを与え、その約束のしるしとして聖霊を与えてくださいました。
また、聖書にはこう書かれています。
「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10)
つまり、私たちは良い行いをするために造られたのです。では、「良い行い」とは何でしょうか?
それは、父なる神様の御心にかなう「愛の行為」をすることです。神様が私たちを愛してくださることを私たちは知っています。その愛を受け取った私たちは、喜びをもって他の人を愛することができるのです。
愛の行為とは、相手のために自分のものを差し出すことです。時間やお金、持ち物などを誰かのために使い、時には自分の大切なものを犠牲にすることもあるでしょう。そうすることで、私たちは神様が望まれる「本当の断食」をしていることになります。
そして、その「神様が好まれる断食」、愛の行為を行うのは、私たちを愛してくださる父なる神様が喜ばれるからなのです。
3.わたしはここにいる
イザヤ書58章8〜12節をお読みください。「あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる」(イザヤ58:10)、「『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる」(イザヤ58:12)とあります。
私たちが、父の喜ばれる愛の行為をするなら、私たちの父は、私たちに大きな報いを約束しておられます。それは、「あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、【主】の栄光があなたのしんがりとなる」という報いです。
「あなたの光」とは、私たちの良い行いです。
「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:16)
私たちが良い行いをし、愛をもって人に接することは、私たちを「世の光」とします。つまり、それによって私たちの様々な関係が回復されるのです。例えば、神様との関係や、人との関係が良くなります。
良い行いは、神様にも人々にも正しいものとして認められます。私たちがこれまで生きてきた人生を振り返ると、私たちの行いを通して人々が神様をあがめ、そこに神様の栄光が現れていたことが分かります。そして、あなたの人生に神が臨在されていることを知るのです。実は、これが最も大きな喜びであり、本当の報いなのです。
例話 中村哲医師
中村哲医師(1946年生まれ、2019年に銃撃を受け死去)は、内村鑑三の『後世への最大遺物』に感動してクリスチャンとなり、医学部進学を決心しました。山上の説教の言葉に従って人の在り方を求め、1984年に日本キリスト教海外医療協会からパキスタンに派遣されて、20年以上ハンセン病を中心とする医療活動に従事しました。その後、アフガニスタンで、水があれば病気と難民の問題が解決できると考えて用水路建設に取り組み、住民の手で作れるよう学校やモスクも建設しました。
著書『人は愛するに足れり、真心は信ずるに足る』で中村医師は、イスラム教徒と接してモスクまでつくることに矛盾はないと述べています(同書より要約)。これは、わたし(神)の好む断食とは何かを私たちに考えさせる良い例だと思います。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。