先週は、「出エジプト記」に書かれているモーセの生涯についてお話がありました。モーセの生涯の大切な特徴は、信仰、自己没却、柔和、そして報いでした。
この話を聞いて、私は以前、管理職として働いていたことを思い出しました。そのとき、神様とモーセの関係が、社長と管理職の関係にとても似ていると感じました。管理職として学んだことの一つに、「社長の考えをよく理解し、それを部下に正しく伝えること」がありました。また、仕事をしているときは、いつも「社長ならどう考えるだろうか?」と考えていました。さらに、部下の不満が向けられることもあり、みんなが嫌がる仕事もしなければなりませんでした。時間単価を考えると、管理職の仕事はあまり割に合わないとも感じました。
しかし、社長との関係は次第に「上司と部下」というものを超え、友人のようになり、お互いに信頼し合い、意見も言えるようになりました。これは、神様とモーセの関係にも通じるものがあると思います。モーセは、神様に選ばれた優れた管理職だったと言えるでしょう。
ですから、モーセの立場を理解する一つの方法として、「組織を管理する人」と考えると分かりやすいかもしれません。逆に、管理職としての教育を考えるなら、モーセと神様の関係を学ぶのも良いかもしれません。
ヨハネの福音書は、いよいよ11章に入ります。ヨハネの福音書は全部で21章あるので、ここがちょうど真ん中あたりになります。そして、ここから先は、イエス様の受難について書かれています。
この11章には、ラザロという人が登場し、彼の死に関わる出来事が語られています。この箇所では、イエス様がラザロをよみがえらせるという大きな奇跡に目が惹かれますが、イエス様とマルタの会話が中心といって良いと思います。
1.とどまられたイエス
ヨハネの福音書11章1〜6節をお読みください。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(ヨハネ11:4)
ヨハネの福音書の11章は、「さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである」という言葉で始まります。この部分では、「ベタニアのラザロ」という人物に注目しています。
ベタニアは「マリアとその姉妹マルタの村」でした。ここで、マリア、マルタ、そしてラザロという兄弟姉妹が紹介されています。彼らはイエス様ととても親しい関係にありました。
ベタニア村は、エルサレムから約3kmの距離にあり、オリーブ山の東側に位置しています。イエス様がエルサレムに滞在するときは、よくこの兄弟姉妹の家に泊まっていたようです。この家では、マルタ、マリア、ラザロの3人が暮らしており、家事は主にマルタが担当していました。
あるとき、末の弟であるラザロが重い病気になりました。マリアとマルタは、イエス様に病気のことを伝えれば、癒していただけるのではないかと考え、使いの者を送りました。そのとき、イエス様はヨルダン川の東側で人々に福音を伝えていました。
ラザロの病気について知らせを受けたイエス様は、「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります」と言われました。そして、すぐには向かわず、その場所にさらに2日間とどまられました。
当時のユダヤ人は、病気を「死に至るもの」と「そうでないもの」の2つに分けて考えていました。イエス様が「この病気は死で終わるものではない」と言われたので、弟子たちは「ラザロの病気はそれほど重くない」と思ったようです。
しかし、2日後にイエス様が「もう一度ユダヤに行こう」(7節)と言われたので、弟子たちは驚きました。さらに、イエス様が「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」(11節)と言い、その後「ラザロは死にました」とはっきり告げられたことで、弟子たちは初めてラザロが亡くなったことに気づいたのです。
イエス様たちがベタニアに到着したときには、すでにラザロが亡くなって4日が経っていました。
では、なぜイエス様はラザロの病気を聞いてすぐに駆けつけなかったのでしょうか。それは、「あなたがたのため、あなたがたが信じるため」と言われたからです。つまり、「この病気は死で終わるのではなく、神の栄光が現れるためのものだ」ということなのです。
問題なのは、マルタとマリアの気持ちです。二人は、「イエス様に病気のことを伝えれば、すぐに来てくださって、ラザロを癒してくださるはず」と信じていました。ところが、イエス様はなかなか来ません。その間に、ラザロは亡くなってしまいました。二人は、どうすることもできず、イエス様に対して苛立ちを感じたことでしょう。
だからこそ、イエス様に会ったとき、二人とも最初にこう言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)。ラザロの死という現実は、二人にとってとてもつらいものだったのです。
私たちも、「死んだらすべて終わりだ」と考えることがあります。それほど、人の死は大きな出来事です。そして、イエス様はラザロが亡くなった後、4日も経ってからようやくやって来ました。マルタとマリアにとっては、「イエス様、間に合いませんでした、遅いです」と思えたでしょう。
ジェームス・ドブソン博士は、著書『苦難の時にも』の第3章「神はたとえ理解できない時にも」で、ラザロの死に関する出来事について、次のようなことを語っています。私たちの信仰を揺るがす最難関の一つは、自分が決め込んだ時と神のタイミングが一致しないことであり、神は決して急がず、私たちがささげた問題の解決に、時にはこちらが耐えがたいほどの時間をかけられる、というのです(ジェームス・ドブソン『苦難の時にも』より要約)。
神様は、神様の時にやって来られます。私たちの期待には応じません。しかし、神様の時、神様の御業は、すべての問題を解決されるのです。
「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」(ヘブル10:36)
私たちは、祈りがきかれるまで、忍耐強く祈ることが必要です。「神様の時」は、私たちが考える時と異なるからです。多くの場合、私たちが期待する時期より、「神様の時」は遅れることを知っていましょう。しかし、私たちは、「神様の時」、神の栄光を見ることができます。
2.このことを信じますか
ヨハネの福音書11章18〜27節をお読みください。イエス様はマルタに言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11:25〜26)
お葬式への参列について、聖書の「伝道者の書」には、次のように書かれています。
「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」(伝道者の書7:2)
人のお葬式に参列すると、「自分もいつかは死ぬのだ」と気づくことできます。死について考えることで、人生をより豊かに生きることができるようになるからです。
ラザロの葬儀には、多くのユダヤ人が集まっていました。ユダヤの習慣では、誰かが亡くなると、その家族を慰めるために人々が訪れます。でも、その中には、イエス様の命を狙っている人たちもいたようです。
そのため、マルタはイエス様が来られたと聞くと、すぐに村の外れへ迎えに行きました。そして、マルタはイエス様にこう言いました。
「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
でも、マルタはイエス様を責めるのではなく、思いやりのある言葉も続けました。
「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」
すると、イエス様はマルタにこう言われました。
「あなたの兄弟はよみがえります。」
しかし、マルタは「終わりの日のよみがえりの時」が来れば、よみがえると信じていました。イエス様の言葉の意味は理解できませんでした。
終わりの日によみがえることは、イエス様が以前に何度か語られた言葉です。
「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。」(ヨハネ6:39)
マルタの言葉に対して、イエス様は、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」と答えました。
イエス様は、ご自分のことを「よみがえり」だと言われました。つまり、「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と教えられたのです。イエス様を信じる者は、死んでもよみがえることができるというのです。また、イエス様はご自分のことを「いのち」とも言われました。これは、イエス様ご自身が復活の力を持ち、いのちの源であることを意味しています。イエス様は、望む人を死からよみがえらせ、与えたい人に永遠の命を与えることができるのです。
そして、イエス様はマルタに「このことを信じますか」と尋ねられました。
これに対して、マルタは、「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と答えました。この「信じております」という言葉は、過去からずっと信じ続けて、今もその思いが変わらないことを意味しています。
彼女は、イエス様が「このことを信じますか」と聞かれたことに対する単なる返事ではなく、これまでずっとイエス様をキリストだと信じてきたことを告白したのです。
たとえイエス様の言葉のすべてが理解できなかったとしても、彼女はイエス様に出会い、その姿を見てきました。イエス様の行動ひとつひとつから「この方こそ神の子キリストだ」と確信するようになったのです。
私たちは、毎回、ヨハネの福音書を学ぶときに、この福音書が書かれた目的を確認してきました。
「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)
このヨハネの福音書の目的は、「イエスの名によっていのちを得る」ことです。
私たちもこれまで、このヨハネの福音書を通して、イエス様のお言葉やなさったことを学んできました。たとえ、難しい神学や教えを知らなくても、ここまでのイエス様のお姿を知って「イエス様こそ神の子キリストだ」と信じるなら、私たちは「イエスの名によっていのちを得る」ことができます。
私たちが永遠のいのちをいただくために、もっと清く、正しく、善人にならなければいけないのでしょうか、また、聖書の知識をたくさん知っていなければならないのでしょうか。いいえ、イエス様の行われたことを見て、「このお方こそ神の子キリスト」と信じるだけで、私たちは「イエスの名によって永遠のいのちを得る」ことができるのです。
3.神の栄光を見る
ヨハネの福音書11章28〜45節をお読みください。ラザロの墓の前で、イエス様はマルタに言われました。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)
それから、マルタはマリアを呼びました。マリアも急いでイエス様のところへ向かいましたが、その様子を見たユダヤ人たちも一緒についてきました。
マリアはとても感情が豊かで、イエス様に会うと、その足元で泣き出してしまいました。そして、マリアについてきた人々も同じように泣いていました。そのため、イエス様はマルタと話したときのように、マリアと落ち着いて話すことができませんでした。
イエス様は強く心を動かされ、憤りを感じましたが、それはマリアとの会話が妨げられたことが理由の一つだと思われます。さらに、人々は「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言いました。その不信仰な言葉を聞いて、イエス様はさらに深く憤ったのです。
イエス様は「その石を取りのけなさい」と言われました。しかし、マルタは「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから」と言いました。彼女は、イエス様が何をしようとしているのか、まだ理解できていませんでした。
すると、イエス様は「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか」とおっしゃいました。マルタは、おそらくイエス様が「あなたの兄弟はよみがえります」と言われたことを思い出したでしょう。しかし、イエス様に対する彼女の気持ちは半信半疑だったと思います。
石が取りのけられた後、イエス様は祈られました。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。」と。
この祈りは、以前マルタが言った「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています」という言葉と重なります。イエス様は、マルタの言葉を使って祈られました。さらに、マルタが「あなたが世に来られる神の子キリストである」と告白したことに応じて、「あなたがわたしを遣わされたこと(キリストである)を、彼らが信じるようになるために」とも言われました。イエス様は、マルタの「イエス様はキリスト」という確信を与えたかったのです。
それから、イエス様は大きな声で「ラザロよ、出て来なさい!」と叫ばれました。すると、イエス様が「あなたの兄弟はよみがえります」と言われたとおりに、ラザロは生き返り、墓から出てきました。イエス様はマルタのいう「終わりの日」ではなく、直ちにラザロをよみがえらせました。こうして、マルタはイエス様自身が「よみがえり」であり「いのち」であることを体験によって信じることができたのです。そして、まさに、マルタは、イエス様のとりなしと奇跡という御業をとおして、このお方が神の子キリストという確信を与えられました。
イエス様は、マルタの不完全な信仰に対して、体験を通して、確信を与えられたのです。
神様は、私たちの不完全な信仰を受け入れ成長させてくださいます。なぜなら、私たちの信仰は神様によって少しずつ成長していくものだからです。
前にもお話ししたように、信仰には成長の段階があります。まず、この世界に創造主である神様がいると知ることが、赤ちゃんのような最初の段階です。次に、成長すると、私たちの罪が神様によって赦されたことを理解できるようになります。これは子どもの段階です。さらに成長すると、神様の御言葉によって、悪いものに打ち勝つ力を持つようになります。これが青年の段階です。
私たちの父である神様は、私たちが成長できるように、それぞれの信仰の段階に応じて、さまざまな体験を用いて教えてくださるのです。
私は若い頃のクリスマス、ある教会の礼拝に出席しました。当時は聖書や神様をよく分からなかったと思います。そして、翌年のクリスマスに洗礼を受けました。洗礼の前日に、取りやめたいと願いました。なぜなら、三日坊主の自分が信仰を続けられないと思ったからです。牧師先生の説得を受けましたが、案の定、その後、礼拝に行かなくなりました。それから、大学進学後、別の教会で礼拝に再度出席しはじめました。しかし、当時、「神は本当におられるのか」分からなかったのを覚えています。私は、自分を「永遠の求道者」と思っていたのです。その後、また別の教会の礼拝に出席したときのことです。使徒の働き9章の「パウロの回心」の説教から、「神が共におられる」という体験をしました。私が神の存在に対する確信が得られるまで、長い年月がかかりました。
神の存在を疑うような不完全な信仰に対して、神は「神の時」に体験をもって示されました。今日、これまでの人生を振り返ってみましょう。私たちの歩んできた道の中に、神様がともにいてくださった足跡が見えるかもしれません。もし、そこに聖書に書かれているイエス様の愛や素晴らしい働きが現れているなら、あなたもイエス様に対して、「主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と言えるのではないでしょうか。
あなたにとって、あなたの人生はどうだったでしょうか。
あなたは、何故、聖書や神様のことに関心を抱いたのでしょうか。
その人生の中で、神様と出会ったときを思い起こしてみましょう。
あなたが知っているイエス様の姿を思い起こしてみましょう(十字架、赦し、愛)。
あなたにとって、イエス様はどのようなお方ですか?
もし、イエス様がキリスト(救い主)と信じられるなら、すなおに告白しましょう。
神様は、あなたの告白を喜び、あなたに永遠のいのちを与えて下さるでしょう。
今日が、あなたにとって、神様の特別な時なのです。
「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。