キリストに向かって成長する

聖書箇所:エペソ4:1〜16

説教者:高橋堅治

これまで、毎月第4日曜日には、教会のビジョンを深く考えるために、神様の戒めや私たちと神様との関係について、さまざまな観点から学んできました。今日は、「教会とは何か」、そしてその教会に属する私たち一人ひとりがどのようにあるべきかを、エペソ人への手紙を通して一緒に学んでみたいと思います。

1.召されたその召しにふさわしく歩む

「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」(エペソ4:1〜3)

エペソ人への手紙は、パウロという人がエペソという場所にある教会へ書いた手紙です。この教会では当時、深刻な「分裂の危機」が起こっていました。それは、ユダヤ人のクリスチャンと、それ以外のクリスチャンが教会の中で対立していたからです。

ユダヤ人のクリスチャンは、旧約聖書に書かれている「モーセの律法」と呼ばれる神様の教えをしっかり守ろうとしていました。一方で、モーセの律法を知らず、イエス・キリストの教えを信じてクリスチャンになった人たちもいました。この2つのグループはお互いに反発し合い、争っていたのです。

そこで、パウロは教会の人々に対して、「神様が望んでおられるのはみんながひとつになることだ」と伝えました。ユダヤ人であっても、そうでない人たちであっても、イエス・キリストを信じることで、みんなが神様の子どもになるのだと教えたのです。

このように、創造主である神様のお心は、すべての人がひとつにまとまり、平和を保つことなのです。

「その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。」(エペソ1:9〜10)

これは、全宇宙がキリストによってひとつになるということを意味しています。その目的のために、神様は私たちを選び、聖なる者としてくださり、さらに神様の家族の一員として養子にしてくださったのです。

「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」(エペソ1:4)

そして、私たちは良い行いをするために造られた者なのです。

「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10)

ですから、パウロはこう言っています。私たちは神様に選ばれたことにふさわしい生活を送るべきです。それでは、具体的にどんな生活を送ればよいのでしょうか?その答えが2節と3節に書かれています。「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」

難しいと思う人もいるかもしれません。でも、ひとつずつ学んでみましょう。

まず「謙遜(けんそん)」についてです。「謙遜」とは、自分をあまり高く見せず、相手を大切にすることです。ギリシア語では「タペイノプロシューネ」と言って、自分を低くするという意味があります。

でも、自分を低くすることは、簡単ではないですよね。自分を悪く思いすぎると、自分に対して自信を失うこともあります。でも、ここで大事なのは、相手を高くすることです。相手を大切にすることで、自分を低くしながらもバランスを取ることができるのです。

聖書には、このような方法について教えられている部分があります。

「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」(ローマ12:10)

人を尊敬するということは、自分を低く見なくても、相手を素晴らしい人として考えることで自然にできます。お互いに相手の良いところを見つけて、それを認めたり、尊敬したりするのです。性別や社会的な立場、学歴や経歴などにこだわらず、人として相手の良いところを探そうとすることが大事です。

今日の部会では、いくつかのグループを作ります。そして、まず自分の良いところをそれぞれ話してください。その後、他の人の良いところを探してみましょう。みんなで良いところを共有し、相手の素晴らしい点を知り、それを尊敬してみましょう。

では、「柔和(にゅうわ)」とはどんな意味でしょうか?辞書では、「優しくて穏やかなこと」とありますが、聖書では少し違います。聖書の「柔和」はギリシャ語で「プラウス」という言葉から来ています。この言葉には、「どんなことがあっても神様の意志を大切にしようとする心」や「自分を神様にゆだねること」という意味があります。つまり、神様に全てをお任せするということです。

マタイの福音書5章5節には、このように書かれています。

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」(マタイ5:5)

天国に入れるのは、神様に自分の全てを任せる人だということです。もしあなたがイエス様を全面的に信じて、自分の人生を任せているなら、心は穏やかで落ち着いた状態になるのです。

「寛容」という言葉について辞書では、「心が広く、他の人の言動を受け入れること」と説明されています。この聖書の部分では、「マクロスミア」というギリシア語が使われていて、その意味は「導火線が長い」です。つまり、すぐに怒って爆発するのではなく、怒りが爆発するまでに時間があり、その間に怒りを鎮めることができるということです。

「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ4:26〜27)

怒りについて前にお話ししましたが、今回はその続きです。私たちは誰でも怒りを感じることがありますよね。でも、その怒りを心の中にためたままにすると、罪に結びついてしまうことがあります。そこで大切なのは、その怒りを神様に委ねることです。怒りを神様に解放すると、自分自身をその怒りから自由にすることができるのです。

パウロは、「平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」と言っています。

ここでの「平和の絆」とは、みんなで仲良く暮らすことを意味します。そして「一致」というのは、みんなが心を一つにすることを指しています。私たちは、イエス様が行った愛の仕事を続けるために、みんながひとつになって協力して生きていく必要があるのです。

また、最近「境界線」という学びを始めました。ヘンリー・クラウドさんたちが書いた「境界線」という本は、クリスチャンがどのように自分や他人との関係を築いていくべきかを考えるヒントをくれます。この本の中で語られているのは、自分が責任を持つべき範囲を超えたり、逆に自分の責任を相手に押しつけてしまったりすることがある、ということです。これを解決するためには、一人で抱え込むのではなく、チームで協力していくことが大切です。

イエス様も愛の仕事をするとき、一人にすべてを任せるのではなく、弟子たちを二人ずつ派遣して宣教活動をさせました。このように、私たちもチームで協力しながら、愛と平和を広げる仕事をしていきたいですね。

「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。」(マルコ6:7)

私たちは、一人だけで何かをするのではなく、みんなで力を合わせて行動します。その中で仲間との「絆(きずな)」が生まれ、心がひとつになるのです。『境界線』のテキストには、助けとなる関係が複数必要であること、頼れる人が複数いれば、誰か一人が助けられないときにも他の人に頼ることができ、互いに助け合って成熟していける、それがキリストのからだである教会の素晴らしさである、という趣旨のことが書かれていました(ヘンリー・クラウドさんたち『境界線』より要約)。

私たちがこれから解決していかなければならない奉仕があります。現在でも、役員、会計、会堂掃除、食事などがあります。これらを一人が負担するのではなく、チームで実施するように考えていく必要があります。そして、そこに知恵が働き、改善すべきことは改善を行い、奉仕を通して良い関係をつくることができたらよいでしょう。

2.からだは一つ

「あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」(エペソ4:4〜5)

神様の願いは、私たちみんなが「ひとつ」になることです。教会はイエス様の体のようなもので、その教会もひとつです。そして、聖霊(御霊)はお一人で、主イエス様もお一人です。だからこそ、私たちの信じる信仰もひとつであり、私たちが受ける洗礼(バプテスマ)もひとつなのです。

その理由は、この世界を造り、支配しておられ、どこにでも存在する創造主である父なる神様がおひとりだからです。神様はおひとりで、そこから私たちは造られ、選ばれました。そのため、私たちは「ひとつ」であるべきなのです。

教会は「キリストのからだ」として考えられています。この教会という言葉をギリシャ語で「エクレシア」と言い、その意味は「神の民の集まり」を指します。つまり、教会は建物を表しているわけではないのです。

よく「教会に行く」や「教会に来る」といった言い方をしますが、これは正しい表現ではありません。正しくは「礼拝に集まる」や「礼拝に参加する」と言うべきです。教会は人々の集まりなので、一人ひとりの関係やつながりがとても大切なのです。

私たちの関係は、イエス様の愛に根付いた愛の関係であるべきです。そして、私たちがどこにいても、イエス様の愛をその関係の中に持っていれば、私たちは教会の一員なのです。

私達は「教会に行かないことは、信仰から離れること」と考えてしまうことがあるかもしれません。しかし、もしイエス様の愛の中で人々とつながっているなら、その人も教会に加わっているのです。

私たちが普段、家庭や職場、地域社会で過ごす中で、周りの人々と神様の愛の関係を築いていくなら、その人たちもまた教会の一部となることができるのです。

私の家族は、今のところ「杏の里教会」の礼拝に出席する気持ちにはなっていません。でも、私が家族に「私が教会として、神様のことばを話します」と伝えたら、とても喜んで「いいよ」と言ってくれました。

今では、家族と会うとき、チャンスがあれば聖書の話をしています。そして、帰る前には必ず、家族のために祈ります。そのことは、「家族も教会に加わっている」と言えるのではないでしょうか。

先日クリスマス会がありました。そのとき、普段は来ない方々も参加してくださいました。みんなで神様の愛の中で、楽しい時間を共有し、一緒に過ごしました。これが「教会」というものだと思います。

だから、礼拝や特別なイベントに人を呼ぶことばかり考えるのではなく、家庭や職場でのつながりをもっと大切にするのも良いと思います。

礼拝の最後に祝祷というお祈りがあります。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(Ⅱコリント13:13)

祝祷(しゅくとう)は「派遣の祈り」とも言われます。それは、私たちがそれぞれの生活の場に戻る時に、神様が私たちと共にいてくださるように祈るものです。そして、私たちの周りで神様の教会が築かれていくことを願う祈りとも言えるのです。

3.キリストに向かって成長する

エペソ人への手紙4章7〜16節をお読みください。キリストが一人ひとりに賜物を与え、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を立てて、聖徒たちを整え、キリストのからだを建て上げさせてくださる、と語られる箇所です。

教会には文化があります。私たちの杏の里教会を一言で言うなら、皆さんはどんな教会だと言えますか。それが教会の文化です。もし、それが良い文化であれば、それを大切にすることです。

私自身、昨年から祈り会、愛餐会や部会での皆さんを伺い、私たちの杏の里教会は「本当に優しい教会だな」と感じています。この教会には、弱さを抱える方々がいます。その中に、気遣いのある言葉や行動が所々に見られ、優しい心を持った人々が集まっている教会だと思います。また、弱さを抱える人たちのために互いに祈り合う姿勢があるのも、この教会の特徴です。まずは、このように素晴らしい教会であることを、私たち一人ひとりが改めて認識したいのです。

世の中には、伝道熱心で様々な集会や活動を行っている教会もあり羨ましく感じますが、神様は、私たちがキリストに向かって成長することを望んでおられます。

エペソ人への手紙4章13節には、こう書かれています。

「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」(エペソ4:13)

私たちは聖書を読んだり礼拝に参加したりして、イエス様への信仰や知識を学びます。そして、心を一つにして成長し、キリストのからだ(教会)をしっかり築くことが大切です。そのために、信仰や聖書の教えをわかりやすく伝える人たちがいます。それは、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師と呼ばれる人たちです。

成熟したクリスチャンとは、悪いことを考えたり、人をだましたりする教えに惑わされない人のことです。また、どんな間違った教えにも振り回されず、しっかりした信仰を持っています。

さらに、「ヨハネの第一の手紙2章」では、クリスチャンが成長していく段階について説明されています。12〜14節で、子どもたち、父たち、若者たち、幼子たちに向けて、それぞれ書き送る理由が述べられています。

「若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」(Ⅰヨハネ2:14)

成長には4つの段階があります。それぞれの段階を簡単に説明しますね。

  • 幼子たち:創造主である神様の存在を知る人たちのことです。神様がこの世界を作られたことを知り始めた段階です。
  • 子どもたち:イエス様の十字架によって、罪が赦されたことを信じ受け入れた人たちです。自分の罪が赦されたと理解し、救いを信じるようになった段階です。
  • 若者たち:神様の言葉が心に働き、悪い者(サタン)に打ち勝つ力を持つ人たちです。信仰が強くなり、神様の言葉を自分の生き方の土台とする段階です。
  • 父たち:創造主である神様を深く知り、他の人たちを養い導くことができる人たちです。信仰が成熟し、次世代を支える役割を果たす段階です。

まずは「若者たち」を目指します。自分の信仰をしっかり持ち、神様の言葉によって生きることができるようになるのが目標です。そしてその先には、「キリストの満ち満ちた身丈」(キリストのように成長した状態)に至ることを目標とするのです。これを「聖化」と呼びます。

福沢諭吉が「一生勉強」と言ったように、クリスチャンの人生も成長を続け、生涯現役となるものです。たとえ高齢や病気で体が弱くなったとしても、神様を褒めたたえ、信仰を人に伝え、天国への希望を持ち続けることができます。そのようにして、私たちは生涯を通して成長し続けるのです。

今日はエリザベス・エリオットという女性を紹介します。彼女は、1926年にベルギーで生まれ、2015年まで生涯をイエス・キリストと共に生きた人です。彼女はエクアドルのアマゾンで人々に福音を伝えるために献身的な生涯を送りました。夫ジム・エリオットはアウカ族と接触を試みた結果、殺されてしまいました。しかし、彼女は夫を殺したアウカ族の人々のところに行き、人々と生活を共にし仕えたのです。晩年、彼女は多くの著書とラジオ番組を通して、キリストの愛を伝えました。彼女はいつも、「あなたは永遠の愛で愛されています」「永遠の腕があなたを支えています」と語っていました。彼女は2015年、88年の生涯に幕を閉じました。しかし、それ以降も本人が書いた著書を通して、今も人々に神の愛を証ししています。

彼女は、夫を殺した人々を赦し、その人々のために自らが出向き、キリストの愛を伝えました。そして、一生涯を通して人々にキリストの愛を証しし続けたのです。

私たちも、キリストから派遣された一人のクリスチャンとして、神様の愛を行うために、家庭や職場に派遣されています。また、イエス様の信仰と知識を学びながら、一生涯をかけて、キリストに向かって成長していく者として召されているのです。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

聖書書名: