先週は、教会に来会された方々があり、沢山の交わりの機会を与えて頂き、とても有意義な時間を過ごすことができました。私はお客様ではなく、主にある兄弟として、良い関係を築きたいという気持ちをもって接しました。
さて、私は、これまで第四週に教会の七つの本質を意識して、メッセージをしてまいりました。七つの本質について、何度かメッセージでお話しましたが、皆さんは覚えておられるでしょうか。七つの本質とは、関係、参加、能力付与、イエス中心、伝道と増殖、ネットワーク、適用可能な構造というものでした。特に、教会では関係が重要で、「神を愛し、隣人を愛する」ということです。ところが、私たちは、「私は神を愛し、隣人を愛しなければならない」と義務感に感じてしまったときに、実は本来の神様の恵みを忘れてしまうのです。
私は、ある聖会である牧師から学ぶ機会を与えられました。それから9月に、ある学院において、その牧師から「霊性の神学」を学ぶことができました。霊性の大切さは、カトリック教会で知られており、プロテスタント教会でも最近注目されてきました。「霊性」とは、人間だけが持つ、神様と関係するために必要な性質です。そして、この霊性を学ぶと、私たちの信仰で、必要なことと必要ではないことを区別できるようになります。今日は、この霊性ということについて、一緒に学びたいと思います。
信仰と幸福感
2019年に社会心理学の研究論文で「キリスト教信者におけるキリスト教的宗教意識と主観的幸福感との関連」という論文が発表されました。この研究論文は、宗教と幸福感の関連性について調べたものです。調査対象は、カトリック教会とあるホーリネスの教団の信徒と教職者を対象に867名から回答を得てまとめたようです。調査にあたり、3つの方面から質問しました。ひとつは、神様やイエス様の御言葉を聞いてそれを信じること(信念)。もうひとつは、教会の活動で、礼拝出席、祈祷会出席、献金などに対する責務を負うこと(責務)。そして、最後のひとつは、教会での人間関係のことです(教会の交わり)。たとえば、信念については、「私は、イエス・キリストの教えによって、日々の魂の糧を得たい」と思っているかどうか、責務については、「私は、教会で奉仕をしなければならない」という意識をもっているかどうか、そして教会の交わりについては、「教会の仲間と、信仰の問題や信仰生活についての分かち合いをしているかどうか」などです。それらの集計の結果、ひとつめの「信念」と、三つ目の「教会の交わり」の意識が強い人ほど、幸福感が高い傾向にありました。一方で、教会活動の責務に対して意識が強い人は、幸福感が低いという傾向が見られました。論文によれば、この背景に、規則意識で自分自身をがんじがらめにすること、奉仕活動が足りていないという罪責感があることが原因で幸福感を失っていると書かれていました。
実際に、教会活動の責務について、皆さんにも聞いてみたいと思います。次の5つについて、点数を付けてみてください。「全く思わない」が0点、「あまり思わない」が1点、「少し思う」が2点、「強く思う」が3点です。
・私は、教会で奉仕しなければならない。
・私は、教会に献金しなければならない。
・私は、毎週、礼拝に出席しなければならない。
・私は、家族や周囲の人々に伝道しなければならない。
・私は、毎週、祈祷会に出席しなければならない。
いかがでしたか。点数が高かった方は、それだけ真面目に、忠実に歩んでこられた方だと思います。でも、もしかすると幸福感を自ら低くしているかもしれません。今日のメッセージは、このような方にこそ聞いていただきたい良い知らせです。
マルタとマリア
ルカ10:38〜42をお読みください。「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:42)
イエス様と弟子たちが旅をしておられ、ある村に入られたとあります。ルカは村の名を記していませんが、ヨハネ11章1節によれば、これはエルサレムの東側のオリーブ山の麓にあるベタニア村であることがわかります。そこにはマルタとマリアの姉妹が住む家がありました。イエス様たちがエルサレムに来たときは、このマルタとマリアの家に泊まられることがあったようです。
姉のマルタと妹のマリアはイエス様たちが来るのを待っていました。イエス様が来られたら、マリアは直ぐにイエス様の足もとに座って、イエス様のお話を聞き入っていました。一方、姉のマルタはイエス様とその弟子たち一行をおもてなしするために、食事や食卓を整えることで大忙しでした。あまりの忙しさの中、マルタは、マリアがイエス様の足もとでじっとイエス様のお話に聞き入っているのを見て、イライラしてイエス様に言いました。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」(ルカ10:40)
このマルタに対して、イエス様は「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。」(ルカ10:41〜42)と言われました。
マルタの言うことはよくわかります。こんなにおもてなしで忙しいのに、マリアはイエス様のそばにいて、まったく手伝ってくれない。イエス様、なんとか言ってくださいよ!と言いたくなるマルタはよく理解できるのではないでしょうか。ところが、イエス様は「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています」と言うのです。さらに、イエス様は、「必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました」と言いました。あなたがマルタだったらどうでしょう、イエス様は全然分かってくれないと思うのではないでしょうか。
さて、霊性の神学について簡単にお話します。人間の心には3つの性質があると言います。それは、感性、理性、そして霊性です。感性とは感覚的に物事を感じることです。理性とは様々な状況から判断し知識を得ることです。そして私たちの多くは、感性と理性に頼って物事を考え判断するのです。では、霊性とは何か、それは人間にしかない、神様と交わるために必要な性質です。
20世紀の神学者カール・バルトによれば、人間の側から神様に届くことはできず、神様の側から啓示によって語りかけてくださることが先にあると言います。
「父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。」(マタイ11:27)
イエス様は、父なる神様を知る人は、イエス様が父なる神様を現わそうと定めた人だけであると言われました。すなわち、私たちの信仰とは、神様から先に現わされた結果の応答なのです。神様が私たちに神様のご愛や真実を現わして下さるから、私たちはその応答として、神様を信じ、神様を愛し仕えるのです。ですから、神様と交わるためには、いつも応答という受け身であるのです。ここに霊性という性質が必要となります。
たとえば、私たちが感性と理性に頼って信仰した場合はどうなるか考えてみます。私たちはより成熟したクリスチャンになるために色々と考えます。たとえば、「もっと聖書を読もう」「もっとお祈りをしよう」と考えがちです。聖書を読むこと、祈ることは大切なことです。しかし、私たち自身がいくら努力しても、神様を知ることはできないのです。なぜならば、信仰は神様の啓示に対する応答だからです。聖書を読むこと、そして神様に祈ることは、先に私たちにご自身を現わして下さった神様への応答なのです。この順番が逆になると、信仰は義務や道徳に変わります。人間側からの努力で神様を知ることは出来ないからです。そして、霊性とは、神様の前に自分をおき、神様からの啓示を受け取るものです。
たとえば、今日の聖書個所を読むときに、感性や理性で読むなら、次のようになるでしょう。
もてなしで大忙しのマルタはマリアが手伝ってくれないからイライラしてマリアを叱ってもらいたいと思ってイエス様に話した。イエス様は、きっとマルタの思いを知り、マリアにマルタの手伝いをするように言うだろうと考えます。でも、イエス様はマリアをかばった。それはマルタよりもマリアが好きだったからか?感性や理性では、イエス様がマリアをかばう意味が理解できません。
もし、霊性により、この聖書箇所を読むならどうするでしょうか。イエス様は何を必要と考えられたのだろうと考え、「イエス様、私にイエス様のお考えを教えて下さい」と祈り求めるようになると思います。そして、信仰によって、イエス様のお考えを教えて頂くのです。
たとえば、ある人は、「いのちの言葉であるイエス様の言葉に耳を傾けることが人間にとって一番大切な姿勢なんだ」とか、「人はパンだけでなく、神の口からでるひとつひとつの言葉で生きるのだから、マリアはそのことばを頂くことを第一にしたのだ」とか、神様は教えて下さると思います。
実際、マルタは40節で「いろいろなもてなしのために心が落ち着か」なかったとあります。この落ち着かずという言葉は、ギリシャ語で「引き離される」「気を取られる」という意味があります。おもてなし自体が悪いのではなく、もてなしによって、マルタがイエス様から心が引き離されていたのです。マルタはイエス様に対して受け身ではなく、感性と理性を働かして一生懸命にもてなそうとしました。マルタはイエス様に応答するように彼らを迎え入れましたが、もてなしという行為が、いつの間にかイエス様から離れた「この世の気遣い」に変わり、イエス様との間を引き離してしまいました。41節の「思い煩って」という言葉は、種まきのたとえで「この世の思い煩い」と言われた言葉と同じです。イエス様のためのおもてなしでさえ、主から目を離した瞬間に、この世の気遣いになってしまうのです。
イエス様は「マリアはその良いほうを選びました」と言われました。「良いほう」とは「分け前」「取り分」を意味する言葉で、食卓の一皿を連想させます。マルタが整えていた食卓の傍らで、マリアはイエス様のお言葉という「取り分」を受け取っていたのです。
先週、来会者をお迎えしたときに、皆さんは本当によく準備をされ、もてなして下さったと思います。そしてその貴重な働きを通して、礼拝にも多くの方々がみえられ、貴重な体験をされたと思います。
しかし、その中で、大切なイエス様から引き離されたマルタのような気持ちになったことはなかったでしょうか。また、マリアのように、今回のことを通して神様から頂いた「取り分」はありましたか。
召天者記念礼拝、会堂掃除、クリスマス。この秋から冬にかけて、私たちには多くの活動を予定しています。その一つひとつを始める前に、まずマリアのようにイエス様の足もとに座り、「主よ、今、私に必要な一つのことは何ですか」と聞く時間を持ちませんか。イエス様が「マルタ、マルタ」と名前を二度呼ばれました。それは責めるためではなく、マルタもイエス様の足もとに導こうとされたからです。主はあなたの名も呼んでおられます。マリアのように主の足もとに行き、主のお言葉を聞いてはどうでしょう。
もう一度、42節をお読みします。「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:42)
黙想:先週の来会と、今日の御言葉を通して、イエス様はあなたに何を教えて下さったでしょうか?
まず、主の前に出て、主から御心を聞く姿勢を私たちにお与え下さい。私たちの行動が、あなたの御心、あなたのご愛に対する応答となりますように。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。