大祭司の祈り ひとつになる

聖書箇所:ヨハネ17:6〜26

説教者:高橋堅治

私たちが普段、生活しているときに、ふと気づくことがあります。夫婦間の性格、考え方の違い、そして親子や兄弟との性格、考え方に違いがあるのをみつけます。私の家族もそうですが、それぞれ性格と考え方がまるで違います。当たり前のことですが、これだけ異なった人物が家族を築いています。そこに一致があります。お互いが家族であることを知っているという一致です。

これまでヨハネの福音書をずっと学んできました。今日は、先月に続いて、ヨハネの福音書17章を学ぶことにします。この17章は「大祭司の祈り」と呼ばれています。イエス様が十字架の受難を受ける直前に、父なる神様に対して、ときが来たことを祈り、弟子たちのためにとりなしの祈りをされました。まさに、人々のためにとりなしを行う大祭司を表しています。

私たちは、既にヨハネの福音書の目的を学んでいます。ヨハネの福音書20章31節、

「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)

この福音書を読む人々が、イエス様を神の子キリストを信じること、そして、イエス様によって永遠のいのちを得ることが目的なのです。17章には、「永遠のいのち」とは何かと書かれています。

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

それは、父なる神様とイエス・キリストを知ることだと言っています。この「知る」とは「体験する」ことを意味しています。私たちは、私たちが生きるこの世界には、世界をお造りになった創造主がおられることをまず体験するのです。普段の生活の中で、私たちが生かされていることが如何に驚くようなことなのかを知り、創造主が生きておられることを体験するのです。また、イエス・キリストが、聖書の預言の通りに、この世界に誕生され、聖書の預言の通りに、私たちの罪の身代わりになって死なれたことを通して、私たちを愛しておられる創造主を知るのです。更に、イエス・キリストの救いを受け取り、イエス・キリストと共に日々を生きることにより、このお方を体験することです。そして、この命は、たとえ体が滅びても、死を乗り越えて永遠に続くのです。

今日は、大祭司イエス様の祈りで、イエス様とひとつになる私たちについて、学びたいと思います。

1.不完全な信仰を受け入れるイエス

ヨハネ17:6〜8をお読みください。「あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。」(ヨハネ17:6)

6節の「あなたが世から選び出して与えてくださった人たち」とは、イエス様を信じ従ってきた弟子たちを言います。イエス様が言われるように、彼らは、創造主である父なる神様によって選び出され、イエス様に与えられた特別な人々だったとわかります。イエス様が彼らと、3年半の共同生活を行った目的は、彼らが「わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じ」るためでした。

イエス様は、弟子たちが言った、

「ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」(ヨハネ16:30)

という言葉を受け止め、弟子たちの信仰を受け入れたのです。しかし、残念ながら、弟子たちの信仰は不完全なものでした。弟子たちの信仰告白の直後にイエス様は答えられました。

「あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。」(ヨハネ16:32)

イエス様は弟子たちに、あなたがたは信じると言うけど、すぐに、わたしを残して逃げて行ってしまうよと言われました。この様な弟子たちの不完全な信仰を知っていても、イエス様は次のように祈られたのです。

「彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」(ヨハネ17:8)

それは、弟子たちの弱くて脆い信仰を、イエス様は受け入れ、父なる神様の前にお認めになったのです。

私たちは、自分の信仰がいかに弱く、脆いことを知って嘆くことはないでしょうか。何度も何度も、聖書の御言葉を守ろうと思っても、すぐに挫折してしまう自分を知っているのではないでしょうか。

私は、若い頃にある聖会に出席し、信仰が高められ、ウキウキして帰ってきたことを覚えています。向かうところ敵なし、信仰の勝利を感じていました。しかし、この高揚感は三日と持ちませんでした。すぐに、罪に負ける自分を知り、その信仰の勝利感を失ってしまいました。

弟子たちは、まさにイエス様のためなら命も惜しまないと言っていました。

「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ26:35)

しかし、彼らはイエス様を一人残して、逃げ去ったのです。ペテロは三度、イエス様を知らないと答えました。私たちと同じ弱い彼らです。私たちは、その弱い信仰であっても、「イエス様、このような私を赦し、救って下さることを信じます」と言えるのです。なぜなのか?それは、私たちの弱い信仰、不完全な信仰をそのまま受けとめて下さるからです。

「彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」

私たちは、自分のちっぽけな、弱い、脆い、小さな信仰に嘆くことがあります。そして、その弱い信仰の姿こそ本来の私たち自身なのです。イエス様はそれを十分に知っておられたうえで、私たちの信仰をお認め下さるのです。

2.弟子たちが一つになるため

ヨハネ17:9〜19をお読みください。「聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」(ヨハネ17:11)「あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17:17)

イエス様はこのような弱い弟子たちのためにとりなされました。それは、「あなたの御名によって、彼らをお守りください」という父なる神様への祈りです。それは「御名によって」守るということです。「御名によって守る」とはどういう意味でしょうか。しかも、イエス様は「彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました」とも言われました。弟子たちとの共同生活の中、イエス様が、父なる神様の御名によって彼らを守ったと言うのです。イエス様は弟子たちを何から守ったのでしょうか。

それは、この世です。イエス様は、この世から弟子たちを選び出し、ご自身のものとされました。

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。」(ヨハネ17:14)

イエス様のものになった弟子たちを世は憎むと言います。この世は「悪い者」がいるからです。「悪い者」とは、サタン、悪魔と呼ばれるものです。具体的に、悪魔は何をするかというと、私たちに与えられた神の御言葉を私たちから奪い、私たちが信じないようにします。

「道端に落ちたものとは、みことばを聞いても信じて救われないように、後で悪魔が来て、その心からみことばを取り去ってしまう、そのような人たちのことです。」(ルカ8:12)

この悪魔から私たちの身を守る手段は、私たちにはありません。どんなに注意していても、悪魔に対して何の力もないのです。だから、父なる神様の御名が必要なのです。父なる神様のお名前とは、神様ご自身を現わします。そして、そのお名前には力があります。詩篇では神様の御名が94回も現れます。神様の御名は力があるのです。

「【主】よ私たちの主よあなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。」(詩篇8:1)

「神よあなたの御名によって私をお救いください。」(詩篇54:1)

「私たちの助けは天地を造られた【主】の御名にある。」(詩篇124:8)

だから、私たちは私たちの弱い信仰を嘆くのではなく、弱い信仰の私たちを守られる父なる神様がおられることを誇りましょう。父なる神様に頼るのです。

父なる神様の守りがあれば、「わたしたち(父なる神とイエス様)と同じように、彼ら(弟子たち)が一つになる」のです。すなわち、弟子たちの一致です。イエス様は、弟子たちに、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と言われました。この「互いに愛し合」うには、父なる神様の守りが必要なのです。

「わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。」(ヨハネ17:12)

滅びの子とは、イスカリオテのユダを表します。イスカリオテのユダに、悪魔が入り、イエス様を裏切ります。それは、弟子たちの一致を破壊するものでした。私たちは弱い者で、互いにいがみ合ったり、悪口を言ったり、愛の欠けた者かもしれません。だから、イエス様が私たちに与えられた互いに愛し合うなどとてもできないかもしれません。私たち自身では出来ないことなのです。そこに、父なる神様の守りが必要です。父なる神様によって、私たちは、私たちを誘惑する悪魔から守られ、互いに愛し合う者となれるのです。互いに愛し合う力は私たちにはありません。父なる神様に頼るのです。

3.現代を生きる私たちのために

ヨハネ17:20〜26をお読みください。「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。」(ヨハネ17:21)

イエス様は、そこにいた弟子たちのためだけでなく、現代を生きる私たちのためにも祈られています。聖霊が与えられて、教会が誕生してから2000年もの間、聖霊はこの世界に「彼ら(弟子たち)のことばによってわたしを信じる人々」を次々と起こされました。私たちもそのひとりです。この私たちのために、イエス様は祈られています。

それは、「すべての人を一つにしてください」という祈りです。これが、エクレシアと呼ばれる教会の姿です。私たちは、杏の里教会です。杏の里教会とは、この会堂を示しているのではなく、皆さんひとりひとりを示しています。イエス様は、イエス様を信じるすべての人を一つと言われていますから、教会とは、イエス様を信じるすべての人が一つとなったものです。私たちは現在のすべてのクリスチャンで構成されるひとつの教会に属しているだけでなく、2000年間、続いてきたひとつの教会に属しているのです。そして、そこに父なる神様の守りがあるからこそ、教会はこれまで続いてきました。父なる神様によって、互いに愛し合う者とされてきたのです。

「あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」(エペソ4:4〜5)

ひとつであるのは、私たちは、おひとりの聖霊によって、父なる神様を知り、このお方の愛のうちに生きるからです。聖霊にあって、私たちはイエス・キリストを兄とし、ひとつの信仰、ひとつのバプテスマ、父なる神様によって生きるのです。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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