洗足のめぐみをいただく

聖書箇所:ヨハネ13:1〜17

説教者:高橋堅治

これまで私たちはヨハネの福音書を一緒に学んできました。今日は、その中でもイエス様が弟子たちの足を洗われた場面を学びます。

まず、毎回確認しているヨハネの福音書が書かれた目的を見てみましょう。

「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)

1.世を去る前のイエス

「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(ヨハネ13:1)

過越の祭りとは?

ユダヤでは「過越の祭り」が近づいていました。これは、昔ユダヤ人たちがエジプトで奴隷だったときに、神様が彼らを解放してくださった出来事を記念するお祭りです。神様は一晩のうちに人々の長男を殺す裁きを行おうとしました。しかし、その裁きを避ける方法として、子羊の血を家の門やかもいに塗ることが命じられました。そうすると、その家は裁きを過ぎ越され、命は守られました。この出来事によって、ユダヤ人たちは奴隷から解放されたのです。そして、この「過ぎ越し」を覚えるために、毎年春になると過越の祭りが行われるようになりました。

過越の祭りとイエス様

この過越の出来事は、実はイエス・キリストの働きを表しています。

昔のユダヤ人は、エジプトの奴隷から解放されるために、子羊の血によって裁きを過ぎ越しました。

人間はみな神様に背を向け、「神様なんていらない」と思って生きています。聖書はこれを「罪」と呼びます。

罪とは、殺人や盗み、嘘などの行動だけではなく、本来、神から離れている状態そのものを言います。聖書には「罪の報酬は死」と書かれています(ローマ6:23)。これは、人は死んだ後に更に裁かれ、永遠の死(滅び)が待っているのです。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)

しかし、神様は人間が滅んでいくのを黙ってみれいられないため、この罪から人を救うために、神様はイエス様をこの世界に送りました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

イエス様は「子羊」として血を流し、人々を罪の裁きから救われたのです。

特別な夜

「過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた」

この夜は、十字架にかけられる前の晩であり、イエス様が弟子たちと過ごす最後の時でした。人は自分の死が近いと知ると、大切な人に特別な思いを注ぎます。イエス様も同じです。これまで愛してきた弟子たちを「最後まで愛された」のです。つまり、イエス様は最後に最も大切なことを弟子たちに伝えようとしておられたのです。

2.洗足の恵み

ヨハネの福音書13章4〜11節をお読みください。要となる一句は次のとおりです。

「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」(ヨハネ13:8)

なぜ足を洗われたのか?

ルカの福音書22章には、この夕食の準備の様子が書かれています。

ルカの福音書22章8〜14節をお読みください。

ペテロとヨハネはイエス様の指示どおり、エルサレムの二階の広間を借りて準備しました。

ところが、食事中、弟子たちは「誰が一番偉いのか」という議論を始めます。

「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。」(ルカ22:24)

彼らはイエス様をキリストと信じていましたが、それはキリストは「ユダヤを復興させる王様」だと考えていたからです。そして、王様のそばで最も偉い立場になるのは誰か、ということに心を奪われていました。そんな中、イエス様は静かに席を立ち、弟子たちの足を洗い始められました。

足を洗うのは、一番身分の低い人の仕事でした。ある先生は、「ペテロとヨハネが足を洗う人を用意し忘れたのではないか」とも話しています。

ペテロとのやり取り

イエス様は弟子たちの足を次から次へと洗って行きました。ペテロのところに来た時、ペテロは言いました。 「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」

ペテロは、弟子の自分が先生であるイエス様に足を洗ってもらうなんて、恐れ多くてできないと感じたのです。(ヨハネ13:6 参照)

イエス様はこう答えられました。 「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」

しかしペテロはさらに強く言いました。 「決して私の足を洗わないでください。」

当時のユダヤでは、弟子が師の世話をすることはあっても、師が弟子を世話することはありません。師と弟子では立場が違うからです。だからペテロはどうしても受け入れられなかったのです。

しかしイエス様は、さらにこう言われました。

「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」

これは、足を洗うことが単なる礼儀や清潔のための行為ではなく、イエス様にとってもっと深い意味を持つことを示しています。

足を洗う3つの意味

イエス様が弟子たちの足を洗ったことには、少なくとも3つの意味があります。

1. 神様の恵みをいただく

2. 全身を洗うことと足を洗うことの違い(足を洗うことの大切さ)

3. 互いに足を洗い合う

① 神様の恵みをいただく

ペテロとのやり取りの中で、イエス様は「神様の恵み」について教えておられます。

私たちは神様を敬いますが、それは神様の罰やたたりを恐れてではありません。聖書の神様はたたりを起こす方ではなく、むしろ愛の神です。私たちを罪から救うためにひとり子イエス様を世界に送り、十字架にかけられたほどの愛です。そして、イエス様が私のために死なれたことを信じて受け入れるなら、全ての罪を赦し、永遠のいのちを与えると約束されました。しかし、このことは、私たちにとって「そんな都合の良い話があるだろうか」と思うほど、信じがたいことです。

ところが、ペテロが「足を洗わないでください」と言ったように、私たちが「そんな都合の良い話なんて信じれない」と受け入れなければ、神様が私たちに与えようとしている恵みが台無しになってしまいます。私たちは、善行をしたり、修行を励んで救われようとしたとしても、それは神様の救いを無下にしていることなのです。だから私たちはペテロのように、 「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言うように、「神様が与えて下さる恵みを全部ください」と神様に甘えてよいのです。更に、「イエス様を私に与えて下さい」という願いすら、神様は喜んで下さるはずです。

パウロの生涯の願いは、キリストを得ることでした。

「私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。」(ピリピ3:8-9)

② 全身を洗うことと足を洗うことの違い(足を洗うことの大切さ)

イエス様は更にこう言われました。

「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです」

ここでいう「水浴」とは、全身を洗うこと、つまり洗礼(バプテスマ)のことです。イエス様を信じて洗礼を受けた人は、もはや全ての罪が赦され、神様の前で「全身がきよい」とみなされるのです。

しかし、日常生活の中で私たちは再び罪を犯してしまいます。そんなとき、「ああ、なんて自分は弱いんだろう」と落ち込むこともあります。でも、イエス様は私たちの弱さをご存じで、私たちに解決する方法を与えて下さっています。

すなわち、「足を洗う」とは、日々の生活で汚れた罪を洗い落とすことです。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

証し 私の体験

私は若いころに洗礼を受け、その後、しばらく神様から離れていた頃がありました。

そして、学生のとき、ふとしたことから教会の集会案内を見つけて、教会に行くようになりました。私は、知人のクリスチャンに、過去に洗礼を受けたことは話していました。礼拝には出来るだけ出席していましたが、自分は罪深く聖餐式を受ける資格がないと思っていました。だから、洗礼を受けていても、聖餐式のパンとぶどう酒を受け取りませんでした。ある日、そのことを知った牧師先生が礼拝後に声をかけてくれました。

「どうして、あなたは聖餐式を受けないのですか?」と。私は、先生に神様から長く離れていて、とても罪深いと思っていること、そんな自分が聖餐を受けるのはふさわしくないことを話しました。

すると先生はこう言いました。「あなたこそ、聖餐を受けることが必要なのです。」

それは、日々罪を犯す私たちには、日々、イエス様の血によってきよめられる必要があるのです。私たちは罪を赦された者ですが、洗礼を受けたからと罪を犯さなくなるのではなく、再び、罪を犯し続ける弱い存在なのです。そのような弱い私たちの罪をイエス様は十字架の血によって赦し、全ての不義からきよめて下さるお方なのです。

私は、自分の罪を神様に告白し、ただ神様の恵みを受け取ればいいことを知りました。次の聖餐式から、私は、イエス様が私のために流された血と裂かれた体を思い起こしながら、喜びをもってパンとぶどう酒を受けることができました。

3.互いに足を洗い合う

ヨハネの福音書13章12〜17節をお読みください。要となる一句は次のとおりです。

「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(ヨハネ13:14)

イエス様の質問

弟子たちの足を洗い終えたイエス様は席に戻り、こう尋ねられました。

「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。」

このとき、弟子たちはまだ完全には理解できなかったかもしれません。

イエス様は続けます。

「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」

模範としての行動

イエス様は、あなたがたは私を先生と呼ぶがその通りだ、だから、その私がしたことを同じようにしなさい、と教えました。つまり、「お互いに仕え合いなさい、謙遜になりなさい」ということです。

弟子たちは「誰が一番偉いか」で議論していました。そんな中、一番偉い立場であるイエス様が、一番低い立場のしもべのように行動されました。

イエス様の深い謙遜

ピリピ2:6-8にはこう書かれています。

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、」(ピリピ2:6)

「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、」(ピリピ2:7)

「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:8)

イエス様は神でありながら、人となり、十字架の死にまで従われたのです。しかし、私たちは、自分のあり方を捨てることができないのです。

私たちの弱さと執着

一方、私たちは自分の立場や地位、名誉、財産などを手放すことを恐れます。私たちは、それらのものがまるで自分のものであるかのように思ってしまいます。

ヨブの姿

先週のメッセージを覚えておられるでしょうか?

私は、「苦難のときこそ、キリストの福音を体験するときだ」と語られたのをはっきりと覚えています。ヨブがすべてのものを失ったときに言った言葉、「【主】の御名はほむべきかな」を果たして自分は言えるのだろうかと思いました。

「そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。』」(ヨブ記1:21)

ヨブは、持っていたものがすべて失われても神様をほめたたえたのです。

私の体験

以前、仕事のうえで心身の不調を経験し、長く休むことになりました。その結果、それまで築いてきた立場や収入を失うことになりました。また、私を追い込んだ人物への怒りで眠れない日々もありました。当時の私は、とてもヨブのようには神様を賛美できませんでした。それらを失い、働き方を変えて、教会に仕えるようになってから、私は気づきました。それまで得た立場や収入は砂の上に建てた家のようで、簡単に崩れるものだったのです。そして、それも神様から与えられた恵みのひとつだったのですが、それが私にとって当然のもののように思っていました。しかし、今はそれらのものを失った以上に、神様からの恵みを多く感じることができるようになりました。

この経験を通して、私は過去に失ったものに捕らわれず、いま、神様が与えてくださっている恵みに目を向けるようになりました。

イエス様を模範とする

イエス様を模範とするなら、今ある自分を受け入れ、神様の恵みを喜んで受け取りながら生きることができます。私たちは、神様からの恵みによって赦され、生かされています。この神様の恵みを頂いている者同士として、私たちは互いに仕え愛し合う者になることができます。

イエス様が最後の夜に、弟子たちに教えたこと、それは自分があるのは神様からの恵みであって、恵みを頂いた者として、互いに愛し合うことなのです。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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