新しい年を迎えたとき、家族で今年の抱負について話し合った方もいらっしゃるかもしれませんね。先週の礼拝では、顧問牧師が「いのちの冠を頂く」ということについてお話ししてくださいました。
私たち自身の人生や、私たちの周りには、ときどき自分が望まないような困難や逆境が訪れることがあります。それは「人生の試練」とも言えるものです。そういうときこそ、私たちの信仰がどれだけ本物であるかが問われると学びました。そのような試練の時期を乗り越えたあとには、「いのちの冠」が待っているということを教えてくださいました。この教えを胸に、今年も信仰を持って歩んでいきたいと思います。
今年も、これまでと同じように、第二日曜日にはヨハネの福音書の御言葉を学ぶ予定です。しかし今日は、私の今年最初のメッセージです。
昨年の12月中頃から、年の初めに、主が「私に何を語らせたいのか」と祈りながら求めてまいりました。杏の里教会の標語は「互いに愛し合いなさい」というイエス様の命令です。この言葉は、私たちが日々の生活で心に留め、実践していくべき大切な教えです。
特に、私たちの群れには身体や心に病を抱えておられる方、困難な状況にある方がいらっしゃいます。また、私たちを取り巻く社会全体を見ても、多くの問題や課題があります。このような状況の中で、互いに愛し合うためには、とりなし祈ることがとても重要だと感じています。
そこで今日は、イエス様とカナンの女性の出会いの物語を通して、とりなしの姿勢について学びたいと思います。この物語は、聖書のマタイの福音書15章21~28節に記されていますが、同じ内容がマルコの福音書7章24~30節にも書かれています。
これらの御言葉を通して、私たちがどのように祈り、互いを支え合うべきかを考えていきましょう。
1.私をあわれんでください
15:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
15:22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
今日のお話は、イエス様が福音を語り始められてから2回目の過越しの祭りの頃の出来事です。この2年後、イエス様はエルサレムで十字架にかかられることになります。
この出来事は、イエス様が5つのパンと2匹の魚で、男性だけで5,000人もの人々を満腹にされた奇跡の後に起こりました。また、それに続いて、弟子たちがガリラヤ湖で嵐に遭った際に、イエス様が助けられた出来事の後でもあります。
覚えている方もいるかもしれませんが、イエス様がパンの奇跡を行われたのは、弟子たちが村々で宣教の旅を終え、戻ってきたときでした。またその時、イエス様はバプテスマのヨハネが処刑されたことを聞き、大きな悲しみと疲れを覚えられ、人里離れた場所で休もうとされました。しかし、群衆がイエス様を追いかけたため、イエス様は休む間もなく、人々に教え、癒すことになりました。
さらにその後、エルサレムから来たパリサイ人や律法学者たちが、イエス様を批判し、訴えようとする動きを見せました。そのため、イエス様と弟子たちはユダヤの地を離れ、ツロとシドンの地方に退かれたのです。この地方はガリラヤ湖の北約50kmの地中海沿岸に位置する場所で、そこに行くにはおそらく2日ほどかかったと考えられます。
マルコの福音書7:24によると、イエス様はその地で「誰にも知られたくない」と思っておられたようです。忙しい日々や人々からの批判、さらには悲しみの中で、イエス様が静かな場所を求められた気持ちは、私たちにも少し理解できるかもしれません。
マル7:24 イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。
ところが、イエス様が静かに過ごそうとされても、イエス様を探し求める人はいたようです。そのひとりが、カナンの女性でした。彼女はイエス様のうわさを聞き、イエス様に会いに来たのです。
マルコの福音書7:26によれば、
彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであった
と記されています。この女性はギリシア人でしたが、フェニキア地方で生まれたため、カナン人とも呼ばれていたようです。つまり彼女はユダヤ人ではなく、ユダヤ人から見れば「外国人」でした。
当時のユダヤ人たちは、外国人を「神様を知らない者」「神様の祝福を受けられない者」と見下していました。そこで外国人のことを「犬」と呼んで軽蔑することもありました。
このカナンの女性は、イエス様がそこにおられるとわかると、すぐに彼のもとへ行き、こう叫び続けました。
「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます。」
彼女の言葉には、深い苦しみと必死さが表れていました。自分の娘のために、どんな障害があってもイエス様に助けを求めようとする彼女の姿勢に、私たちもとても心に響きます。
このカナンの女性は、自分の娘が悪霊に憑かれて苦しんでいることを知り、何とかして治したいと必死に考えていました。聖書において「悪霊」とは、人に取り憑き、肉体的な病気や精神的な症状を引き起こす霊的な存在とされています。悪霊の長は「サタン」や「悪魔」と呼ばれる者であると考えられています。
聖書を見ると、すべての病気が悪霊の働きによるものではないことがわかります。例えば、生まれつき盲目であった人(ヨハネ9章)や「長血」と呼ばれる婦人病を持った女性(マタイ9章)をイエス様が癒された時、それらは悪霊とは関係ない病気として記されています。それでも、この例のように悪霊による病が存在していたことも、聖書には記録されています。
では、医療技術が発展した現代において、悪霊はどのように考えられるべきでしょうか?私個人の考えですが、どのような病気であっても、医療機関で正確に診断を受け、適切な治療を受けることが大切だと思います。同時に、命を司る神様を認め、神様に癒しを求めることも重要だと感じています。私も、悪霊が存在し、人に何らかの身体的影響を及ぼす力を持っていると考えています。
昨年の水曜日夜の祈祷会で学んだ「解放の14レッスン」の中で、レッスン10には悪霊に関連する例が挙げられていました。その中で、霊的な問題が肉体や心にどのように影響を及ぼすかについて深く考えさせられました。ですから、神様の癒しを信じつつ、現代の知識や医療を活用しながら、バランスよく向き合っていくことが大切だと感じます。
ある10代の男の子が、問題のある本を隠し持っていたために体が動かなくなり、霊的な解放を経験した人の助けでその本を処分したところ動けるようになった、という例があります(出典未確認)。
このように、悪霊現象は現代においても存在すると考えられます。もし、悪霊からの解放やその方法について興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひ、一緒に「解放の14レッスン」の学びをしてみましょう。
このカナンの女性は、悪霊につかれて苦しむ娘のためにイエス様を探し求め、会いに来たのです。注目すべきは、彼女がイエス様を「ダビデの子」と呼んだことです。この呼び名は、メシア(キリスト)を意味しますが、彼女がその意味をどこまで理解していたかは分かりません。それでも、彼女は「この方なら、私の娘を癒してくださる」と強く信じていたことでしょう。
さらに特筆すべき点は、彼女がイエス様に向かって「私をあわれんでください」と叫んだことです。本来、苦しんでいたのは娘であり、「私の娘をあわれんでください」と言うのが自然に思える場面です。しかし、彼女はそうではなく、「私をあわれんでください」と願ったのです。
これは、彼女が娘の苦しみを自分の苦しみとして感じていたからではないでしょうか。娘が苦しんでいることは、彼女自身の心にも深い痛みを与えていました。娘の苦しみを「人ごと」とは考えず、自分の一部として受け止めていたのです。
私たちも、自分の子どもや家族が何かで苦しんでいるとき、その痛みをまるで自分自身のもののように感じることがあるのではないでしょうか。そのようなとき、心の底から「私をあわれんでください」と叫びたくなるのです。この母親の姿には、娘を思う深い愛と、神様への切実な信頼が表れています。
これは、聖書の大切な戒めの通りなのです。
マタイの福音書22:39 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」
すなわち、隣人である子ども、身内の苦しみが自分自身の苦しみになっているからです。
私たちの「とりなしの祈り」を振り返ってみると、祈りの中で兄弟姉妹たちや苦しむ人々の痛みを「自分の痛み」として感じることが、難しいと感じることがあります。これは、現実的に他人の苦しみを完全に理解することが難しいからかもしれません。
たとえば、昨年の水曜日の祈祷会で、能登地震や戦争について祈り続けてきました。しかし、私はこの祈りにどこか違和感を覚えることがありました。なぜそう感じたのか、考えるたびに気づいたのは、自分がその祈りを「他人事」のように捉えてしまっていたからでした。
「自分は、地震や戦争で苦しんでいる人々の痛みをどれだけ知っているのだろうか?」
「彼らの苦しみに心から共感できているのだろうか?」
こうした疑問が心に浮かんできたのです。
先週のメッセージの中で、顧問牧師が時間の都合上お話しされなかった箇所がありました。それは、コリント人への手紙 第二 11章23~30節の御言葉です。この箇所をご覧になられた方もいらっしゃると思います。その中のある一節に、私は心を留めました。パウロはコリント人への手紙でこう語っています。
11:29 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。
これは、パウロが教会の兄弟姉妹の苦しみを自分自身の苦しみとして感じているからこその言葉だと思います。
私たちのよく言う言葉に、「あなたのために祈っています。」があります。私たちは、この言葉を言うとき、一度、自分に問いかけてみてはどうでしょう。私は、本当に、この人の苦しみを、自分の苦しみとして受け止めることができるだろうか、と。そうすれば、この言葉を簡単に言うことが出来なくなるはずです。ですから、もっと素直に、「私は、あなたの苦しみを自分の苦しみとして感じることが出来ません」、「あなたの苦しみを教えて下さい」と聞いてはどうでしょうか。
2.諦めない心
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
彼女の切なる叫びを聞いても、不思議なことに、イエス様は一言もお答えになりませんでした。まるで無視しているように見えました。いつも優しく、人々を深く憐れむイエス様が、なぜこのような冷たい態度を取られたのでしょうか。
一方、弟子たちは彼女があまりにも叫び続けるので困り果て、イエス様のところに来て言いました。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」弟子たちは、彼女があまりに煩わしいので、早く奇跡を行って癒しを与え、彼女を帰らせてほしいと頼んでいるのです。
この弟子たちの言葉を聞いて、私はルカの福音書11章にあるイエス様のたとえ話を思い起こしました。それは、深夜に友人の家を訪れ、しつこくパンを求めた人の話です。何度も求め続けた結果、その友人はついにパンを渡しました。このたとえ話は、諦めずに求め続けることの重要性を教えています。ルカの福音書11章5〜10節をお読みください。「友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。」(ルカ11:8)、そして「求めなさい。そうすれば与えられます。」(ルカ11:9)と語られています。
パンを求める人の話では、その「しつこさ」によって、必要なものが与えられると語られています。同じように、カナンの女性の切実な訴えは、弟子たちを動かしました。しかし、弟子たちが行動を起こした理由は、彼女への憐れみからではなく、「面倒だから」というものでした。
そして、弟子たちの願いを受けて、イエス様は彼女にも聞こえるようにはっきりと、次のようにおっしゃいました。
15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
この言葉に、弟子たちは納得したと思います。彼らは、キリストがユダヤ人を解放し救うために来られたと信じていたからです。しかし、このイエス様の答えにも関わらず、カナンの女性はすぐに行動を起こしました。彼女は諦めることなく、次の一歩を踏み出しました。
聖書にはこう書かれています。「彼女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、私をお助けください』と言いました。」彼女は弟子たちに頼ることはしませんでした。彼女は、自分が助けを求めるべき相手をしっかりと知っていたのです。
ここで、私たちが彼女から学ぶべきことが2つあります。
(1)諦めない
まわりの人が何を言おうとも、祈りを聞き、それを成してくださるのは神様お一人です。「もう諦めなさい」と言われることがあったとしても、イエス様の前に行き、ひれ伏し、「主よ、私をお助けください」と求め続けることが大切です。どんな困難があっても、諦めずに祈り続ける信仰を持つことを、彼女の姿から学ぶことができます。
(2)イエス様にだけ頼る
私たちが誰かのために祈り、とりなすとき、その人の苦しみを自分の苦しみにしたなら、その問題を神様ではない他の人にまかせるのではなく、とことんまで神様に向き合う必要があります。そして、その祈りは神様に叫ぶべきであり、人間に頼り過ぎてはいけません。
このカナンの女性のように、誰かのために、信仰をもって神様に直接求め、ひれ伏す姿勢を私たちも持ちたいものです。それが、真実な祈りであり、神様との深い関係につながるのです。
3.主よ、そのとおりです
15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
15:27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。
イエス様は、前でひれ伏す彼女に、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」と言われました。「子どもたち」とはユダヤ人を示しています。「パン」は神様から与えられる恵みのことです。「小犬」とは、家庭でペットとして飼われている犬を指します。ユダヤ人は、外国人を軽蔑して「犬」と呼ぶことがありました。この言葉は、彼女に対して、「ユダヤ人に与えるべき恵みを取り上げ、飼い犬である外国人に投げ与えることは良くない」という意味を持っています。とても皮肉のある言い方です。
しかし、彼女は、自らが小犬であることを認めて、「主よ、そのとおりです」と言いました。そして、「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と答えました。これは、飼い犬でも、主人の食卓からこぼれ落ちたパン屑を食べる、それは子どもたちすら拾って食べようとしない神様の恵み、ユダヤ人が受け入れようとしないキリストの多くの恵みの一部を頂くことはできる、という意味を持っています。
彼女は、神様のこぼれ落ちるほどの大きな恵みの一部を頂く権利があること、そして、その一部だけでも自分の願いをかなえるには十分であることを伝えました。
イエス様は、彼女のイエス様への信仰を喜び、「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」と答えられました。聖書の中で、イエス様が信仰を褒めたのは、ローマ軍の百人隊長と彼女だけです。
私たちも、ときに「自分のような小さな者は、神様の恵みを受ける資格がないのではないか」と考えることがあります。しかし、この天地を造られた神様は、私たち一人ひとりに命を与え、日々豊かな恵みを注いでくださっています。
私たちは、自分の父なる神様がどれほど偉大なお方であるかを認め、信頼する必要があります。
使17:27 確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。
17:28 『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。
私たちは、父なる神様の中に生きて、動き、存在しています。そのため、私たちが捧げる祈りを父なる神様はすべて聞いてくださいます。
さらに、父なる神様は、イエス・キリストにすべての権威を与えられました。
マタイ28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
だからこそ、私たちはイエス・キリストの名によって、その権威に基づいて求めることができるのです。
ヨハ 14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。
さらに、私たちに与えられている聖霊は、私たちが祈るとき、弱い私たちを助けてくださるのです。
ロマ 8:26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
私たちはパウロのように、多くの人々の苦しみを自分の苦しみとして受け止めることは難しいかもしれません。
パウロは、実際、教会の一人一人と深い絆を結んだのだと思います。
これまで、私はもっと教会に関わる必要があるのに、それが十分でないと悩んだことがあります。しかし、主は「いつも、あなたの行うべきことは何か」と問われました。「家族と両親です」と答えると、「それでいい」と言われました。
カナン人の女性が、優先した隣人は自分の娘でした。娘を自分自身のように愛することが、結果的にイエス様から信仰を褒めて頂いたのです。
ですから、私たちも、まず、身近な一人の隣人からはじめ、自分自身のように愛し(自分の苦しみとする)、とりなし祈る者になってはどうでしょうか。
そこに、本当のとりなしの心があるからです。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。