いけにえと真実の愛

聖書箇所:マタイ9:9〜13

説教者:高橋堅治

今年の夏は、7年ぶりに松原湖聖会に参加してきました。聖会では、講師の牧師による4回のメッセージがありました。その牧師は、神様を信じているのに、なぜ、こんなに苦しいのだろうかという疑問をもつクリスチャンに対して、目に見えない世界におられる神様に出会うことで、その苦しみ自体を受け入れることができることをお話されました。私は、今回の聖会を通して、更に、クリスチャンライフ学院の聴講生として、この目に見えない神様との関係について、直接、その牧師から教えを受けることにしました。私が学んだことは、現在のヨハネの福音書のメッセージで皆様に分かち合いたいと思います。

さて、対話式説教をここ2回ほど、行ってまいりました。

6月はザアカイの物語から「ひとりの友となる」と題して、私たちにも友となる隣人がいることを考えました。7月は、ピレモンの手紙から「神の家族」について考えてみました。私たちは、神様の子どもとして既に受け入れられていること、だからこそ、兄弟姉妹をどう愛したらいいかを学びました。

今日は、マタイの福音書の9章から、「いけにえと真実の愛」ということについて、一緒に考えてみたいと思います。

先週はお盆でした。お盆には、家族が帰省したり、お墓参りに出かけたりすることがあるのではないでしょうか。お盆は、仏教行事のひとつで、正式には盂蘭盆会(うらぼんえ)と呼びそうです。昔、釈迦の弟子のひとりに目連という人物がいました。この目連は神通力を持っており、その力を通して亡くなった母親の死後の姿を見たとき、彼女が餓鬼の世界で飲み食いできず、ひどく苦しんでいることを知ったそうです。なんとか助けたいと考えた目連は、釈迦に相談し、修行を終えた僧侶たちに食べ物を与えるという善い行い(供養)によって生じる功徳を母親に振り向ければ(回向)よいと知ったそうです。だから、苦しんでいる先祖の霊を家に迎えて、供養することで、その霊の状態が改善されるという考えから、墓掃除、家族で集まり、先祖に感謝することがお盆として行われるようになったというのです。

しかし、日本の多くの人が、このような仏教の思想を理解して、墓を清掃したり、供え物をするとは思えません。ただ、私たちにいのちを繋いで下さった先祖に感謝し、大切にしたいという気持ちから、お墓を掃除し、先祖に供え物をするのではないでしょうか。

ユダヤ人も、日本人の先祖を想う姿とそれほど大きく違いません。

彼らは、お墓参りにいくとき、花ではなく石を添えるそうです。花はいずれ枯れるものですが、石は枯れることはありません。その意味は、「先祖のことは決して忘れない」というしるしだそうです。また、先祖の名前で事前を行う、それは先祖の魂のために寄付や善行を行うことが、先祖の人生が善い影響を続けるという意味があるそうです。そして、墓石に手を添えて、先祖への親しみ、敬意、別れを表すのだそうです。

私たちにクリスチャンにとって、家の宗教、檀家というものは大きな問題のひとつです。今日は、このことについて考えてみたいと思います。

1.聖書の言葉によって

私はある家の長男として生まれました。実家の隣には神社があり、春秋にはお祭りがあります。また、私の家は仏教のお寺の檀家でもあります。その長男の私がイエス・キリストを信じました。もちろん、家族は大反対です。当時、洗礼を受けたら勘当するとまで言われました。牧師から仏壇に手をあわせることは良くないと言われてから、私はそれまで行っていた仏壇の前で手を合わせることがなくなりました。私は、中学生の頃、般若心経を学び、すべてを唱えられました。だから、将来は僧侶になるのではないかとも言われたのです。その期待された長男が、当時、仏壇に一切目もくれなくなったのですから、家族の落胆はどれほどだったことでしょうか。家族の落胆を知っていた私の心中はおだやかではありませんでした。

学生時代、私は剣道部に入っていました。ある剣道の大会で、主の祈りをして臨んだところ、なんと、とても勝てない相手に勝ってしまいました。そのとき、剣道部の友人が、「どうして勝てたんだ?」と聞くので、正直に主の祈りを教えました。このような体験から、素直に「神様って凄い」と思いました。剣道場には神棚が祀られており、剣道場に入るときに一礼をすることが決まっていました。しかし、牧師から、その一礼は良くないことだと言われ、私は一礼をしないようになりました。それを友人から指摘されてから、だんだんと気まずくなり、やがて私は剣道部を退部しました。

このように、当時、牧師から言われた言葉によって、私と家族との関係、剣道部の友人との関係が悪化したのです。どうして、このようなことになったのでしょうか。

マタイの福音書9章9〜13節をお読みください。イエス様は収税所に座っていたマタイを見て、「わたしについて来なさい」と言われ、マタイは立ち上がって従いました。イエス様が家で食事の席に着いておられると、取税人たちや罪人たちが大勢来て、ともに食卓に着きました。パリサイ人たちが弟子たちに「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言うと、イエス様は答えられました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。……わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マタイ9:12〜13)

イエス様がイエス様が普段住んでおられるカペナウムという町から歩かれている途中、収税所でマタイに出会い、早速、彼をご自分の弟子にされました。マタイは、おそらく通行人から税を取るために設けられた収税所で徴税をしていたのだろうと思われます。マタイを弟子としたイエス様は、マタイの家で食事をしました。その家には、当時、取税人、罪人と呼ばれた人々が招かれて、イエス様と一緒に食卓に着いたのです。取税人、罪人とはどのような人物だったか、それは当時の社会やユダヤ教社会から排除され軽蔑された人々のようです。

今の日本社会でいうと、

取税人は、悪質な取り立て業者、特殊詐欺や搾取的ビジネスで働く人、権力者と結びついて弱い人々から金を貪る人が相当します。オレオレ詐欺、ニセ警察詐欺、投資詐欺などの詐欺をする人と考えればよいと思います。

罪人は、刑務所を出た人、ホームレスの人、性産業で働く人、暴力団などの反社会勢力の人、地域社会から見放された人と相当します。

そして、食事を共にするとは、彼らの友となること、世間の人々からは、あなたも同類だと言われても否定できない状況です。ところが、イエス様は、このような人々と一緒にいることを大切にされました。当然ながら、当時の宗教指導者たちは、神様の愛を説くイエス様がどうしてこんな人物と一緒にいるのかと考えました。しかし、イエス様は、彼らと付き合わないのではなく、むしろ、積極的に彼らと関係を持ちました。

聖書の御言葉を厳格に守ろうとするパリサイ人たちは、イエス様が、聖書の教えを全く守ろうとしない人々と付き合うことを非難しました。イエス様は彼らに、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」と答えたのです。

イエス様が喜ばれるのは、真実の愛であって、いけにえではないというのです。いけにえとは、「どれほど正しい形であっても、心や愛情が伴わない形式的な宗教行為」を言います。聖書に書いてあるのだから、相手がどう思おうと実施することだと思います。一方、「真実の愛」とは、ヘブライ語のヘセド、ギリシア語でエレオスといい、「苦難にある人、弱い人、必要の中にある人に対して具体的に手を差し伸べて、寄り添う慈悲の姿」です。神様の喜ばれることは、いけにえでなく、真実の愛というのです。

2.崇拝と尊敬

話を戻し、お盆と剣道場での一礼を振り返ります。

私は、最近、自分の人生を振り返ったとき、家族や友人が期待していたことに対して、ただ「いけにえ」によって、彼らの期待を裏切り、自分の正しさだけを貫こうとしていた、パリサイ人の心であったと感じています。

先ほどお話しましたように、多くの人々は、仏教の供養、功徳、回向という思想を知らないまま、ただ、亡くなった家族や先祖への感謝と哀悼のために、墓参りに行き、仏壇の前に手を合わせるのではないでしょうか。私は、その心を受け止めず、ただ、彼らに自らの宗教的な正しさをぶつけていたのです。厳格なユダヤ人でさえ、墓参りを行い、先祖のために敬意と寄り添いがあるのです。

剣道場の一礼についても、彼らの思いは、神棚に一礼するというよりも、これから使用する場所やそこを管理する人々に対するお礼の気持ちを表明するものだと気づきました。もし、その感謝の心が無ければ、正しい武道は身につかないのだと思います。

では、宗教的な面で考えたとき、私たちは何をすべきでしょうか。それは、自分の信仰をきちんと表明することだと思います。たとえば、私はクリスチャンなので、仏に対する信仰はありません。しかし、亡くなった家族や先祖を尊敬し、大切にしたいという気持ちは同じであることをしっかり伝えるのです。手を合わせ、祈るときが必要なら、仏に対してではなく、神棚に対してではなく、天の父なる神様に祈るのです。

たとえば、焼香をするしないという具体的な問題があります。焼香とは、仏教の面では「香りが広がるように仏の教えや功徳が広く行き渡ること、自分の心身や場のけがれを清めること、故人を供養し冥福を祈る」という意味があるそうです。それよりも、「故人に対する敬意を表すこと」が強いともされています。また、献花は偶像礼拝ではないかと言う牧師もおります。亡くなった人に対して、花を奉げるからです。しかし、私たちは献花を亡くなった方に対する感謝と哀悼を表すものであることを知っています。すなわち、献花ということも、宗教的な面で考えれば、偶像礼拝になり、感謝と哀悼という面であれば、「真実の愛」となるのです。

そればかりではありません。偶像礼拝だけでなく、様々な面で、私たちはイエス様の心を学ぶ必要があります。イエス様は、社会ののけ者にされた人々を喜んで受け入れられました。そのことが決して非難されることであっても、イエス様は積極的に友となりました。私たちは、私たちの宗教をいけにえとして、私たちの家族や友人、知人に押し付けることはないでしょうか。それは偶像礼拝ではないか、罪ではないかと押し付け、相手を裁いていることはないでしょうか。もし、そうなら、それはパリサイ人たちと同じで、イエス様を非難する者なのかもしれません。イエス様は、罪人の友として、私たちのすべてをそのままで受け入れ、私たちのすべてを赦して下さったお方です。

私たちも相手を受け入れ、罪人の相手のありのままをイエス様と同じように赦し、愛してあげてはどうでしょうか。

『野生のキリスト教』の著者は、その著書の中でひとつの例を挙げています(『野生のキリスト教』より要約)。

同書には、キリスト教を信じて家の宗教行事に参加しなくなった女性が、ある夏に夫と墓を訪れて掃除をしていたところ、偶然その場に来た祖母と出会い、家族そろって墓を清掃することになった、という例が紹介されています。墓参りは、先祖を敬い、家族の絆を確かめる行為でもあると気づかされる話です。

実際に親族や友人・知人に対して、信仰的なことで対応することは非常に難しい問題です。いくら牧師であっても相手の立場、取り巻く関係についてはよくわかりません。いくら聖書にこれこれの御言葉がありますと言っても、それは「いけにえ」にしかならない場合もあります。丁度、献花一つも問題だけでも、色々な考え方があります。ではどうしたらいいのでしょうか。それは、祈りによって聖霊に問うことです。神様、私にとって大きな問題です。どうか、あなたのお心を教えて下さい。

わからなくなったとき、これは「いけにえ」か、それとも「真実の愛」かと問うことです。なぜなら、

「律法全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つのことばで全うされるのです。」(ガラテヤ5:14)

私たちの主は、宗教指導者たちによって、「いけにえ」となりました。しかし、主は私たちに「真実の愛」を表して下さったのです。

話し合いの質問

質問1: これまで、牧師・信徒からの助言などの結果、人々との関係が悪くなったことはありますか?

質問2: その言葉は、あなたにとって、「いけにえ」(どれほど正しい形であっても、心や愛情が伴わない形式的な宗教行為)でしたか?

質問3:イエス様が喜ばれる「真実の愛」を行うとしたら、そのときはどうしたら良かったと思いますか?

未信者: あなたは、クリスチャンになる(洗礼を受ける)ことに躊躇していますか?

もし、躊躇しているとしたら、何が原因ですか?

イエス様はどのような人もイエス様のところに来られる人を受け入れます。罪人の友となってくださったイエス様はあなたの友となってくださると思いますか?

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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