先週は、「神の家族」について、共に学びました。そこでは2つのことを学びました。ひとつ目は、私たちは父なる神様の子どもであることです。家族についてある方は「たとえ期待が裏切られたとしても、その人と一緒にいることを選ぶのが、家族」と定めています。私たちは父なる神様の子どもとなった後も、何度も神様の期待を裏切るようなことをしてきたのではないでしょうか。しかし、父なる神様は、そのような私たちをなおも深く愛し、赦し、一緒にいることを選ばれているのです。
二つ目は、私たちは父なる神様の子ども、父なる神様にあって、お互いは兄弟姉妹であるということです。この兄弟姉妹との関係はどうあるべきか、それはイエス様が私たちにして下さったことをお手本に、兄弟姉妹に行うことです。イエス様は私たちを赦して下さり、私たちのために愛を示して下さった、だから、私たちも兄弟姉妹に具体的に行うことなのです。そうすれば、私たちの杏の里教会が益々「神の家族」と成長していくのだと私は思います。
1.大祭司イエス
さて、本日はヨハネの福音書17章について、共に学びたいと思います。この17章は、十字架の受難を前にしたイエス様が、弟子たちと最後の話を終えて、イエス様が祈ったものです。この17章は「大祭司の祈り」と呼ばれています。大祭司とは、罪ある人間を代表し、神の前に立ち、神と人との仲立ちをする人です。イエス様が来られるまで、大祭司はモーセの兄アロンとその子孫が行っていました。大祭司の主な仕事は、レビ記16章に書かれています。すなわち、年に一度、ユダヤ暦の第7の月の10日に、大祭司は、民の罪のために一頭の雄やぎをささげ、その血をもって神殿の至聖所に入り、契約の箱の蓋、贖いの座(贖罪所)に血を振りかけます。これによって、民の罪によって汚された聖所を清め、罪の赦しを与えられるのです。そして、この契約の蓋こそ、神の臨在を象徴し、神の栄光が現れる場所でした。
「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。」(ヘブル5:1)
この神と人との仲介者である大祭司は、まことの人であり、また、神であられるお方、イエス・キリストなのです。
「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)
ヘブル人への手紙には、イエス様が大祭司であることを何章にも渡って記されています。
「ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(ヘブル3:1)
それまで、大祭司とは、祭司アロンの子孫が行ってきました。彼らは実の人間であり、自分自身も罪があるために、罪のなだめの生贄を奉げなければなりませんでした。そして、毎年一度、イスラエルのために、大祭司は雄牛と雄やぎの血をもって至聖所に入りました。しかし、これらの動物の血は、罪を清める力は全くありませんでした。
しかし、イエス様は、自分自身のために罪のなだめを必要としません。それどころか、ご自分を生贄として奉げ、尊い血をもって一度だけご自身を奉げられました。この血はすべての罪を清める力があります。ゆえに、完全な大祭司と言ってよいでしょう。
また、大祭司は契約の箱の上にある贖いの座に血をそそぎますが、イエス様はご自身が贖いの座となり、私たちのために血をそそがれました。これこそ、完全な赦しがあり、また、神様の栄光が現わされたところなのです。契約の箱の贖いの座こそ、主イエス様の十字架であると言ってよいと思います。
大祭司イエスは、この至聖所と言ってもよい十字架に架かるまえに、自らのため、また、ご自身がいのちを与える人々(弟子たち)のために、祈りました。これが、ヨハネの福音書17章の「大祭司の祈り」です。この祈りは、1〜5節までがご自身のため、6〜19節が弟子たちのため、そして、20〜26節が、イエス様の弟子たちによって、イエス様の弟子となる人々すべて、すなわち、私たちのための祈りなのです。
スコットランドの宗教改革指導者ジョン・ノックスは、息を引き取る直前に、この「大祭司の祈り」を妻に読んでもらったといいます。ノックスにとって信仰の最後の支えは、自分の働きや勇気ではなく、弟子たちのために祈られるキリストの姿だったのです。人生の嵐の中で私たちを支える錨は、自分がどれほど強く信じているかではなく、キリストが私のために祈っておられるという事実だ、という趣旨の言葉が、ノックスの言葉として語り伝えられています(出典未確認)。
イエス様は、この「大祭司の祈り」の中で、私たち自身のために祈られておられるのです。
2.永遠のいのちとは
ヨハネの福音書17章1〜5節をお読みください。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)
1〜5節は、イエス様ご自身のために祈られております。17章のイエス様の祈りは、私たちがどう祈ればいいかを教えてくれます。私たちは、自分のために祈るか、とりなしの祈りをするかどちらかになります。しかし、イエス様は、バランスよく、ご自身と弟子たちのために祈っています。イエス様のご自分のための祈りは、「子(わたし)の栄光を現してください」です。イエス様の栄光を現すとは、この後に続く、十字架の受難と復活です。それをイエス様は、父なる神様に求めておられます。この十字架と復活によって「子があなたの栄光を現す」のです。その栄光とは、父なる神様のご性質、すなわち、義、愛、知恵、恵み、聖さ、真実などです。
- 神様の義は、罪を裁かないままにはされないこと(十字架)、
- 神様の愛は、この世界の人々のためにひとり子を差し出すほど大きい(救い)、
- 神様の知恵は、御子を十字架にかけることで、人々を赦し救う、
- 神様の聖さは、罪を決して容認しないこと、罪人をきよめてご自分の子どもにする、
- 神様の真実は、十字架の救いの約束は昔から定められ、変わることがないこと(復活)
です。
そして、イエス様は、永遠のいのちをつぎのように言われました。
「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」
永遠のいのちは、神の恵みによって、与えられる最大最高の賜物です。イエス様は、全世界を手に入れるよりも、この永遠のいのちを得ることがどれほど価値あるものかを言われています。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。」(マタイ16:26)
この御言葉は、よく人間のいのちは、地球よりも重いというように解釈されたことがありますが、実際には、全世界の全てと比較しても、永遠のいのちは価値があるという意味です。永遠のいのちを得るために、これまで多くの人々は努力をしました。
紀元前3世紀、中国の秦の始皇帝は、老いと死を恐れ、不老不死の霊薬を求めました。彼は全国に不死の薬を探すように命令しました。大きな権力を持ち、富も持っていましたが彼は得ることはできなかったのです。今も人々は、長生きのために色々な工夫をしますが、実際に長くても120歳という年齢を超えることはできません。私たちは、いつか、いずれ死ぬのです。
しかし、イエス様は私たちに、永遠のいのちを与えると言われています。この永遠のいのちとはなんでしょうか。ひとつは、死を超えたいのちです。私たちがいずれは死を迎えることはすべての人に平等に来ます。しかし、イエス様はこのように言われます。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)
このいのちは死を乗り越えたいのちです。私たちが死んだ後、私たちと他のすべての関係は無くなります。死というものが、すべてを無にしてしまうのです。すなわち、私たちのいのちは、ある環境の中で存在するものです。家があり、空気があり、体があり、そこにいのちが存在しています。それらの環境と断絶したとき、いのちの存在は無になるのです。
しかし、唯一、永遠のいのちだけは違います。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
それは、唯一の神である創造主とイエス・キリストを知ることが永遠のいのちだと言われるのです。この知るとは、具体的に体験する、関係を結ぶという意味です。この世界で滅びることなく、永遠に存在し、いまも生きておられるお方、父なる神様と御子イエス・キリストと、私たち自身のいのちがつながっていること、それがいのちとして存在するということになります。死の後も、永遠の神によって存在し続けるのです。
永遠のいのちには、もうひとつあります。それは、世の終わりの後に続くいのちです。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(ヨハネ6:54)
イエス様は復活の後、まったく別のからだによみがえられました。永遠のいのちを持つ者は、イエス様が終わりの日によみがえらしてくださると約束をされます。すなわち、新しい栄光の体を頂き、それによって生き続けることができます。
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリント15:52)
あなたは、永遠のいのちを欲していますか?このいのちを頂きたいですか?
イエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」と言われます。わたしの肉とは、私たちのために引き裂かれた御体です。また、わたしの血とは、わたしたちのために流された血です。それを心から自分のものとしていただく者に、イエス様は永遠のいのちを持つというのです。
今日、聖餐の恵みをいただき、このパンと杯によって、イエス様の約束を体験し、永遠のいのちを持つことの喜びを頂きましょう。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。