先週、ある牧師先生はⅠサムエル記から神の人サムエルについてお話されました。私は、サムエルが神の声を聞こうとする姿に教えて頂きました。以前に祈りについて学んだとき、祈りのひとつに、神の声を聞くという祈りがあります。私たちが祈ることを考えると、「○○してください」というお願いが多いのではないでしょうか。たしかに、お願いをすることも祈りのひとつですが、神様の声を聞くということが祈りにはあります。神様に対してじっと聞き耳をたてること、特に聖書を読んだときに、この聖書の御言葉から、神様は自分になんと仰っておられるのだろうかと思いめぐらすのです。これが、サムエルがいう、「お話しください。しもべは聞いております」(Ⅰサムエル3:10)という祈りなのです。
さて、今日はヨハネの福音書16章から、一緒に学びたいと思います。
1.つまずかないために
ヨハネの福音書16章1〜4節をお読みください。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」(ヨハネ16:1)
ヨハネの福音書16章は、イエス様と弟子たちが一緒に過越しの夕食を取られた時に、イエス様が弟子たちに語られた言葉です。イエス様の話は、13章から始まります。まず、イエス様は弟子たちと過越しの祝いの食事を行いました。そこで、イエス様は立ちあがり、弟子たち一人一人の足を洗い始め、弟子たちが互いに愛し合うことを中心に、告別のお話をされました。この直後に、イエス様たちはゲッセマネの園に行かれ、そこでイエス様は捕らえられたのです。
イエス様は、弟子たちを残して、天国に旅立とうとしておられました。3年間の間、寝食を共にした弟子たちに別れを告げる時、イエス様はこれからもイエス様の弟子として生きていくための大切な教えをされました。それが、「互いに愛し合いなさい」です。一方、イエス様は弟子たちのこれからを気遣って、これから弟子たちの身に起こる出来事を伝えます。それが、迫害の予告です。ヨハネ15:18~25には、あなたがたは、世から憎まれ、迫害されると予告されました。この迫害の予告をした理由をイエス様は弟子たちに、1節から4節までに語られました。すなわち、イエス様は「これらのことをあなたがたに話したのは」というのは、迫害についての理由を説明されたのです。それは、迫害によって弟子たちの信仰が挫折しないように伝えました。また、迫害の理由は、「迫害する者が、父なる神様やイエス様を知らない」ということ、きちんと知っておくことを伝えたのです。
イエス様が弟子たちに仰ったことは、弟子たちに事前に伝えておく必要があった注意事項です。すなわち、弟子として生きていく中で、必ず迫害を受けるということを伝えました。パウロはこのように言っています。
「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)
イエス様は更に、迫害に遭う人々にこのように言っています。
「喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」(マタイ5:12)
迫害に遭う人々は、キリストの弟子であることを証ししているからです。
だから、迫害があっても、挫けてはいけないのです。私たちの信仰を奪おうとする者は、実は神様やイエス様を知らないから迫害するのです。迫害する者は知らないからこそ迫害するのです。だからこそ私たちは、良い行いを通して、彼らが真の神様を知るための窓となるのです。
2.パラクレートス=弁護人
ヨハネ16:5〜7をお読みください。「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。」(ヨハネ16:7)
イエス様は、弟子たちを迫害の苦しみの只中に置き去りにはしませんでした。実際に、次のように約束しておられます。イエス様は、いつか再臨の主として私たちのところに戻ってこられます。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」(ヨハネ14:18)
しかし、弟子たちは、イエス様のお別れの言葉で悲しみがいっぱいでした。イエス様はつい先ほど、「あなたがたを捨てて孤児にはしません」と言われたばかりですが、弟子たちから見れば、途方に暮れる状況です。いままで、頼りにしていた先生がいなくなる、これからどうすればいいのか、弟子たちの気持ちがこのような状態だったと思います。
そこに、イエス様は「助け主」を約束されたのです。
イエス様ご自身が去ることが弟子たちの益であるとまで言われるのは何故でしょうか。
この益とは、まさに、イエス様が受けようとされている十字架の受難によって、私たちの罪が赦されること、また、イエス様の復活による永遠のいのちを頂くことが定まるからです。そして、ここではイエス様は、去っていかなければ、助け主がお出でにならないと言われています。それは、助け主を遣わすのがイエス様ご自身だからです。
そして、イエス様が言われた「あなたがたの益になる」とは、この助け主の存在が大きいのです。助け主とは、「パラクレートス」(παράκλητος)と言い、力強い味方、肩を持ってくれる者、同情をもって弁明してくれる人という意味です。昔、ギリシアでの社会では、弁護士という職業がなく、裁判の際、被告は有力な友人・知人を自分の側に呼び寄せて、弁護させました。そのような人物をパラクレートスと呼びました。すなわち、イエス様は弟子たちを孤児にはせず、聖霊を一人一人の心に遣わし、弁護士として与えて下さることを約束しておられるのです。
ルカ12:11〜12をお読みください。「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」(ルカ12:12)
私たちが信仰の問題で、周囲の人々から厳しい言葉で言われたとき、私たちは彼らに何を言うべきか悩んでしまいますが、イエス様は、私たちに弁護士を与えて下さり、「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださる」と約束されました。
現在のフランスのリヨンは、AD177年の頃、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの治世の時代、迫害が激化していました。当時のリヨンやヴィエンヌでは、キリスト教徒は家や浴場、市場などあらゆる場所から締め出され、群衆からの激しい暴力に晒されていました。さらに、彼らが人肉食や近親相姦といった恐ろしい行為をしているという偽りの告発が広まると、かつては友好的だった民衆までもが野獣のように怒り狂い、過酷な迫害が始まりました。
その異常な怒りの標的とされた一人が、ヴィエンヌ出身の助祭サンクトゥスです。彼は凄惨な拷問を受けても自分の名前や身分などを一切明かさず、すべての質問に対してラテン語で「私はクリスチャンです」とだけ答え続けました。激怒した拷問者たちは真っ赤に熱した真鍮の板を彼の体の最も柔らかい部分に押し付け、その体は人間の姿をとどめないほど変形してしまいました。
しかし数日後の二度目の拷問では、腫れ上がっていた体が元の姿と機能を回復するという奇跡が起き、拷問が逆に癒やしとなりました。それでも迫害の手は緩まず、最後は円形闘技場に引き出されて野獣の試練を受け、鉄の椅子で体を焼かれながらも最後まで信仰を貫き通し、殉教しました。
サンクトゥスは、厳しい迫害の中、ただ、「私はクリスチャンです」と答え続けたのです。
このようなクリスチャンが私たちの信仰の先輩にいたのです。神様やイエス様を知らない世界で私たちはこのような立場にいるのです。でも、私たちは頼るべき聖霊がおられ、この方が私たちに語るべきことを教えられます。
3.CrimeとSin
ヨハネ16:8〜15をお読みください。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」(ヨハネ16:8)
その方、助け主は、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかにされると、イエス様は話されました。御霊は、イエス様を知らないこの世の人々の、罪・義・さばきについての考えが間違っていることを明らかにされるのです。
この世における罪とはなんでしょうか。戦争で子供が犠牲になる痛ましいニュースをときどき知らされます。そのとき、「罪のない子供たちが・・・」と報道でよく言われるのではないでしょうか。しかし、子供たちは本当に罪がないのでしょうか。子供にも、嘘やごまかしという罪の性質があることを、私たちは知っています。それは、イエス様のいう罪と、この世の罪の基準が違うからです。日本語の「罪」という言葉には、実は二つの意味が混ざっています。ひとつは犯罪、英語でいうCrime。法律に違反し、刑罰を受けることです。もうひとつが、聖書のいう罪、Sinです。これは神様に対する罪であり、私たちは刑罰を受けることはなくとも、平気で嘘をつき、約束を破るものです。イエス様が言われる罪に対する世の誤りは、罪は刑罰の対象となる律法(法律)を守らないことだという考えです。当時のユダヤの宗教指導者たちは、どのように規則を守ればいいかを厳格に定めて、それを文字通り行っていました。しかし、本来、神様が求める、人としての愛、優しさなどが無い規則だけの冷たいものでした。それは、罪を「罰せられるもの」としか考えていないからです。しかし、罪とは、神様やイエス様の本質を知り、愛さないことです。すなわち、神様がどれほど私たちを愛して下さっているか、イエス様は私たちが神様を愛するためにどれ程の犠牲を受けて下さったのかを知らないことです。もし、それが分かれば、規則などを知らなくても、私たちは神様が喜ばれることを行おうとするのではないでしょうか。裁かれるから行うのではなく、愛するから行うのです。
義については、イエス様が父のもとに行くことだと言われています。イエス様は地上での不当な判決を受け、十字架に架けられました。世の誤りは、イエス様を十字架に架けることでした。ピラトはユダヤの群衆を恐れ、正しい裁きが出来ず、正しい方を罪人にしてしまいました。これが彼らの義、正しいことなのです。しかし、本当の義は、イエス様の十字架の身代わりにより赦され、神様の前に正しいと認められることです。このように、世の中の義は、権力やお金などで変わります。しかし、神様の義は、イエス・キリストの贖いによる義だけなのです。
さばきについては、イエス様は、この世の支配者であるサタン(悪魔)が裁かれたことだと言われました。この世は間違って罪のないお方を裁きました。しかし、神様は、キリストの十字架を用いて、赦しを与え、死を滅ぼされました。これは、この世界を恐怖と偽りで支配していた悪魔を裁いたことになります。
助け主は、クリスチャンのひとりひとりに、罪、義、さばきについて直接教えて下さるのです。それは、御霊はイエス様ご自身が持つ恵みを私たちに伝えて下さる方なのです。御霊によって、イエス様ご自身が一人ひとりのうちに住んでくださるのです。
御霊は、イエス様の昇天後も、神の知恵とキリストを証しし続けてこられました。新約聖書を見て下さい。福音書で語られたイエス様のご生涯の後、使徒の働きから続く、使徒たちの手紙には、実際に御霊が語られた言葉が書かれています。キリストの霊が、クリスチャンたちを通して語ったものとして、聖書に書き記されています。聖書は神様の霊感によって書かれたもの、御霊の働きによるものです。私たちは、直接、御霊から頂いた書物をいつも手にしているのです。
更に、御霊は今も生きて私たちの内に働いておられます。そこで語られる言葉は、聖書と同じように私たちを生かし、私たちに恵みを与えて下さるものなのです。
そして、御霊の声は、常にキリストの栄光を現しています。
助け主「パラクレートス」とは、もともと「傍らに呼び寄せられた者」という意味です。イエス様は、弟子たちが迫害に遭い、苦しむことをご存じの上で、御霊を遣わすと約束されました。御霊は、ただ遠くから言葉を教えてくださる方ではありません。私たちの苦しみを共に担い、手を取り、目を合わせるように寄り添ってくださる方です。これこそが、私たちにとっての真の弁護人なのです。
皆さんに知って頂きたいのです。私たちがどんな状況にあっても、助け主として、いつも私たちに寄り添っておられる方がいることを。
御霊は今も、聖書を通して、また私たちの内側で、キリストの栄光を語り続けておられます。そして、どんなときも、私たちの傍らに寄り添っていてくださいます。問題は、私たちが聞いているかどうかです。サムエルのように祈りましょう。「お話しください。しもべは聞いております」。今週、聖書を開くとき、御霊が今日のあなたに何を語っておられるのか、聞き耳を立てて歩んでまいりましょう。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。