恵みが信頼に変わるとき

聖書箇所:ヘブル11:6〜9

説教者:高橋堅治

信仰

本日の聖書箇所、ヘブル人への手紙11章には、数々の信仰の英雄たちが書かれています。この信仰の英雄たちを読むとき、「よーし!わたしもがんばるぞ」と励まされる方もおられると思いますが、そうではない方もおられるのではないでしょうか。実際、私は、ヘブル人への手紙11章を読むのは辛いと感じます。自と比較できないほど、凄い信仰者ばかりなので、強い劣等感を感じたり、自分には到底無理と感じてしまいます。自分には、それほど信仰はないなと思うのではないでしょうか。

それでは、皆さんに聞きますが、信仰とは何でしょうか?ヘブル人への手紙11章1節に、信仰の定義が書かれています。

「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

では、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信するとはどういうことでしょうか。少し、それぞれが考えて書ける方は書いてみてください。結構、難しいと思います。

(ヘブル11:1 参照)

このようにしてもまだ分かりませんね。ビリーグラハム先生は、信仰を分かり易く語られています。先生は、私たちは信仰によって、飛行機に乗って遠くに行くことができると言われました。

私たちが飛行機に乗ることは、信仰なのです。

皆さんに伺います。皆さんは、飛行機を乗ったことがありますか?

飛行機に乗ったことがある方に聞きます。飛行機が落ちないだろうかと心配したことがありますか?

私が初めて飛行機に乗ったときのことです。笑われるかもしれませんが、私は、当時、あんなに大きな鉄の塊が空を飛ぶことが信じられませんでした。だから、飛行機の座席に座って、ずっと、家族の手をつかんでいました。恐くてたまらなかったのです。

その後、私は仕事で何度も飛行機に乗らなければならなくなりました。何度も乗るうちに、私は飛行機を恐く無くなりました。それどころか、飛行機に乗ることが楽しくなりました。私は、飛行機に乗る事を恐れなくなったのでしょうか。それは、私が、何度も飛行機に乗り、「飛行機は落ちない」ということを自分自身が体験して、次第に飛行機を信頼するようになったからです。

ヘブル人への手紙11章に記されている信仰という言葉は、ギリシア語でπίστιν(pistis)といい、「神への信頼」を意味する言葉です。信仰と訳されたのは、日本の宗教的な用語に「信仰」があったためと言われています。ですから、飛行機でしたら、私は飛行機を信仰して乗っているといっても過言ではありません。私は何度も飛行機を体験しており、それによって飛行機を信頼しているのです。信仰とは、私たちが神様という飛行機に座席を予約するだけでなく、実際に座って一緒に飛び立つことなのです。

ですから、信仰は、「神への信頼といってもよいと思います。ヘブル人への手紙11章1節にある信仰の定義は、「信仰は神を信頼し、未来のことを神様に委ねること」と言えるのではないでしょうか。

英雄の姿

ヘブル人への手紙11章に登場する「信仰の英雄たち」の信仰はどうだったのでしょうか。私が初めて乗る飛行機を恐れたように、英雄たちも、神様を初めから信頼していたのではないようです。今日は、その中で2人の人物について学んでみましょう。それはアブラハムとギデオンです。

アブラハムは、信仰の父と呼ばれている人です。彼の神様への信頼は完璧でした。創世記22章には、神様が息子イサクを連れて、モリヤの地に行き、イサクを全焼のささげ物にしなさいと言われたとき、アブラハムは、その神様の厳しい命令に従おうとしました。

「神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」」(創世記22:2)

ヘブル人への手紙によれば、彼は「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」とまで神様の力を信頼していたようです。

「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。」(ヘブル11:17)

「神はアブラハムに『イサクにあって、あなたの子孫が起こされる』と言われましたが、」(ヘブル11:18)

「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」(ヘブル11:19)

アブラハムには、神様を信頼するきっかけがありました。

聖書にか書かれていませんが、ユダヤの古い言い伝えによると、幼いアブラハムは、太陽や月をみて、これらすべてを動かす見えない力の存在があると思ったようです。彼の父テラは偶像を作る職人でした。アブラハムは、或る日、偶像は何もできないと思い、父の作った偶像をすべて壊しました。後に、このことが、ニムロデ王の耳に入り、王はアブラハムに火の神を拝むことを強要しました。父の偶像を壊したアブラハムは、王の要求も拒ばみ、アブラハムは火の炉に投げ込まれたようです。ところが、アブラハムは奇蹟的に無傷であったと言います。そして、彼のこの体験が神様を信頼するきっかけになったようです。

創造主は、アブラハムにご自身を表し、アブラハムを守ると約束されました。しかし、アブラハムは、自分と妻サラの自己保全のために、2度、サラの身分を妹と偽りした。また、アブラハムとサラの間に子供を与えると言われても、そのことを待つことができず、ハガルとの間にイシュマエルをもうけました。また、サラに子供が与えられると聞いても、アブラハムは疑いました。信仰の父と呼ばれるアブラハムも、イサクを奉げるまでに、数々の疑いに対して、神様の御業を体験し、神様は信頼できるお方であるということを学んできたのです。

次はギデオンについて学んでみましょう。

士師記の6~8章には、ギデオンが書かれています。ギデオンは、ミディアン人からイスラエルを救った勇者でした。しかし、彼も初めは弱々しい人物であることがわかります。

「さて【主】の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。」(士師記6:11)

「【主】の使いが彼に現れて言った。『力ある勇士よ、【主】があなたとともにおられる。』」(士師記6:12)

イスラエルは当時、ミディアン人に支配されて苦しんでいました。毎年収穫の時期になると、ミディアン人が大軍で押し寄せ、作物や家畜をすべて略奪してしまうのでした。ですから、ギデオンもミディアン人を恐れて、隠れることができる「ぶどうの踏み場」で小麦を脱穀していたのです。そこに、主の使いがやってきたのです。み使いは、ギデオンを「力ある勇者」と呼びました。彼の状態はまったくかけ離れた状態でした。

「ギデオンは御使いに言った。『ああ、主よ。もし【主】が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。』」(士師記6:13)

み使いは、ギデオンに対して、神様がともにおられることを伝えましたが、ギデオンは、イスラエルと共に神様がいるなら、今の状況はどうなのか?と疑いをかけました。

み使いは、ギデオンに対して、

「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(士師記6:14)

ギデオン、あなたが行ってミディアン人から救うのだと言われたのです。ギデオンは自分がいかに弱くて若く、神様の言われることができないものであるかを知らせました。実に、ギデオンは隠れていたのに、神様はギデオンを勇者と言われたのです。神様の目は、弱いと思っていたギデオンを、既に信仰の勇者と見ておられるのです。

彼は、3度、神様に証拠を求めました。「燃える岩」、「羊毛が濡れて地面が乾く」、「羊毛が乾いて地面が濡れる」ことを求め、神様はそれを行われました。ギデオンは、神様を信頼できなかったのですが、神様がご自分の真実を表されたのです。

最終的に、ギデオンはミディアン人たちとの戦いでは、当初3万2千人の軍勢から、300人まで減らされたにもかかわらず、勝利をおさめました。

アブラハムもギデオンも、神様を信頼できない状況でしたが、神様の方からご自分が信頼に足る方であることをお示しになりました。彼らは神様の真実を体験を通して学んできたのです。

主が良くしてくださったことを忘れるな

ここまでをおさらいすると、信仰とは、神様を信頼すること、そして、信仰の英雄たちも、体験を通して神様を信頼していったということです。

ヘブル人への手紙11章6節には、次のように書かれています。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

言い換えると、

「神様を信頼しなければ、神様は喜ばれません。なぜなら、神様に心を向ける者は、神様が存在すること、神様を求める者に神様ご自身を表してくださるお方であるということに、信頼を置くべきだからです。」と言えます。

私たちがクリスチャンとなったのは、私たちの人生の中で、神様との出会いがあったからではないでしょうか。アブラハムのように、この世界をみて、この世界を支配されておられる方がいるに違いないと思われた方もおられると思います。また、クリスチャンの家族、知り合い、書物などから、この世界に神様がおられると思われた方もおられると思います。そして、神様に心を向けるようになったのではないでしょうか。そして、私たちは神様に心を向けるようになり、神様ご自身が存在し、真実な方であることを教えて頂いているのではないかと思います。そして、私たちは、そのことを通して神様を信頼するようになるのです。

私たちは、ギデオンのように自分は信仰が弱い、小さいとすぐに言ってしまいます。また、アブラハムのように、神様に頼らず、自分で解決しようと考えてしまいます。しかし、神様は存在し、その神様は私たちにご自身を表して下さることに目を向けたらどうでしょうか。

私は、以前にカウンセリングの学びをしました。カウンセリングでは、相手をどう誉めるかということがとても重要なのだそうです。それは、3段階の相手の誉め方があるということです。

レベル1:所有しているものを誉める

「いい服を着ていますね」「そのネクタイ、いい色ですね」など、相手が身につけているものや持っているものを誉めるレベル。

レベル2:能力や人格に関わることを誉める

「先生は優しい先生ですね」「ピアノが上手ですね」など、その人の態度や能力を誉めるレベル。

レベル3:存在そのものを誉める

相手の存在そのものを認めて誉める。

実は、私たちは存在を認められ、誉められるとき最も自己肯定感が増すと言われているそうです。

何故なら、多くの日本人は、自分の意見が否定されたとき、自分の存在を否定されたように受け止めるのだそうです。もし、気分が落ち込んでいるときは、その日のうちに、あなたは否定的な言葉を受けたことが無かったかを思い起こす必要があります。その日に無いなら、その前日と、遡って否定的な言葉を受けていないかを調べるのです。否定的な言葉は、ボディブローのように時間を経て私たちの存在を否定し、私たちの心を蝕むのです。私たちにとっても、私たちが存在することを認められることが、私たちの大きな喜びにつながるのです。神様も同じです。私たちが神様の存在を認め、神様が私たちのとって真実を表されることが、神様の大きな喜びなのです。

ローマ人への手紙8章28節の御言葉は多くの方が好きな言葉ではないでしょうか。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

この「私たちは知っています」という言葉は、私たちが実際に体験して知っているという意味をもっています。すなわち、神様が存在しており、神様は、私たちの人生の中で、ご自身の真実なことを表されたことを知っていることなのです。

ですから、もし、神様を信頼できないなら、自分の人生を振り返ってみてください。

詩篇103篇には次のように書かれています。

「わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:2)

詩篇103篇2〜5節をお読みください。

是非、時間を作って、次のことを書き出してみて下さい。あなたが、神様、イエス様を知ったときのこと、これまでの人生の中で、神様からの頂いた慰め、励まし、恵みを書き出すのです。それを通して、神様が、どれほどあなたの存在を大切にされ、あなたにご自身が真実な方であるかというこを示して下さったかを書くのです。このことが、あなたが神様を信頼する力となるはずです。

私は、若いころに洗礼を授かり、その後一旦神様から離れ、再び礼拝に行くようになりました。私はそのとき、神様が私を愛してくださるお方であると知りながらも、いまひとつ、神様の存在が自分の中で不十分でした。だから、当時、私は自分のことを「永遠の求道者」と呼んでいました。友だちが興奮気味で神様の存在を知った話をされたとき、私は、夜、ひとりで公園に行って、神様に祈り求めました。その後、私はある教会の礼拝に行っていました。その頃も、私にとって、神様の存在が分からないと思っていました。本当に神は存在するのか・・・そんな思いがありました。或る日、牧師先生により使徒の働き9章でパウロの回心のメッセージが行われた礼拝の後のことです。私は礼拝の余韻に浸っていたとき、突然、私は私の傍に主がおられるということに気づいたのです。それはとても驚きの体験でした。そして、私は私のそれまでに歩んできた様々なときに、主が私と共におられたことを知ったのです。私の喜びはとても大きかったのを覚えています。

神様が存在し、私たちに今もご自身を表されるお方であるということを是非、ご自分の人生を振り返ることにより体験してください。今日、皆さんが書き出す一つ一つの恵みの点と点が、やがて一本の『益となる線』に繋がっていることを発見するでしょう

このお方が真実なお方で私たちを深く愛されておられるということが解ります。それは、旧約聖書や新約聖書で神様が人々に表れて語って下さったことと同じことが、現代の私たちが体験できることでもあります。このことを体験したら、私たちは主を信頼することができます。そして、私たちの将来に起こることも、神様が私たちに与えて下さる恵みとして期待して待ち望むことができるのです。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

皆さん、もし今、神様を信頼できないと感じていても、自分を責めないでください。アブラハムもギデオンも、そして私も、同じ道を歩んできました。まずは、あなたの今日までの歩みの中で、神様が与えて下さった恵みを探すことから始めてみませんか。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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