先週はある牧師先生からヨハネの福音書の15章16節から教会ビジョンについて教えていただきました。神様には大きなビジョンがあり、そのビジョンとは私たちを罪から救いそして永遠の命を与えていただき最終的にはキリストの花嫁となることです。そのために、私たち一人ひとりは神様によって選び出され、私たちに特別な使命を与えていただき、私たちの生涯は、その使命に生きることが求められているのです。
これまで、ヨハネの福音書をずっと学んでまいりました。ちょうど本日からこの15章に入ります。前回、イエス様が私たちに新しい助け主をお与えくださることを学びました。それは真理の御霊、聖霊です。聖霊は私たちの心に住んでくださり、私たちと父なる神様、イエスキリストをつなぐ大切な役割をもっておられ、また私たちと常に共に生きてくださり、必要な励ましと慰めを与えて下さるお方だと学びました。
これまでも、「まことのぶどうの木」について、学んでまいりましたが、今日も、おさらいをいたしましょう。
1.イエスにとどまる
ヨハネの福音書15章1〜7節をお読みください。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」(ヨハネ15:1)「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」(ヨハネ15:4)
イエス様は「わたしはまことのぶどうの木」と言われています。そして父なる神様は農夫であるとも言われています。すなわち、農夫である父なる神様は、イエス様というぶどうの木を管理されるお方であることがわかります。それは、枝を剪定したり、刈り込みをするお方であるということがわかります。そして、イエス様は、私たちを枝と言われました。私たちは、イエス様というぶどうの木に繋がった枝であり、イエス様の木の実を実らせる枝だというのです。理解しておかなければならないことは、イエス様の実は、イエス様ご自身が実らせるのではなく、私たちを通して実らせるのです。良い実を実らせるために、父なる神様が、私たちに色々なことをされるというのです。
ぶどうを栽培されたことがある方はご存じだと思いますが、毎年2月、3月頃、ぶどうの木が剪定がされているようです。先日、あるぶどう畑で、持ち主の方が枝を剪定されておられました。すなわち、古い枝を取り除いておられました。それは多くの実を結ぶためです。同じように、父なる神様も、イエス様の実を多く結ぶために、私たちを刈り込みされるのです。
当然のことですが、枝がぶどうの木から離れてしまうと、実をつけることはできなくなります。私たちも、イエス様につながっていなければ、イエス様の実はつけることができません。そればかりか、ぶどうの木の枝は、木から離れてしまうと、栄養も得られず、枯れてしまいます。私たちも、イエス様から離れてしまうと、イエス様の栄養を頂くことができず、枯れてしまうというのです。イエス様が私たちに与えて下さる栄養とはなんでしょうか。そして、その栄養を頂くことで、私たちが実らせる実とはなんでしょうか。
私は、若いころ、聖書の御言葉に恐れを感じ、何年も礼拝から遠ざかっていました。そのころ、礼拝に行かなくなった自分は本当に自由になったと思ったことがありました。しかし、次第にそうではないことを思うようになったのです。なんだか虚しく、何をやってもつまらない。世の人々は、本当の喜びを知らないのかもしれないと感じたのです。私は、イエス様を信じた時の喜びを知っており、また、神様の愛を知り、心から感動したのを体験してしまったからです。学生時代、喜ぶべきときも、日々の生活がとても虚しく感じました。そして、再び礼拝に参加するようになり、イエス様との関係を回復しました。
神様と共に歩む喜び、その安心感は私にとって何よりも大切なものとなりました。私の育った地域では、長男は家を継ぐということで重要視されてきました。長男である私がキリスト教を信仰することで、家族や親族から何度も責められ、また、悲しまれたこともありました。しかし、私に対する神様の愛を知り、その喜びを体験してしまった私には、どんなものも、取って代わることができないと知っています。そして、辛いとき、苦しいときも、私を支えてくださったのが、この神様の愛でした。
パウロは、ローマ書8:39で、
「高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:39)
と言っています。このように、一度、神様の愛を体験してしまった私たちを、世界中のどんなものも、引き離すことはできないのです。
イエス様にとどまるとは、私たち自身が一生懸命に離れないのではなく、神様の愛という強い絆によって、イエス様から離れることができない状態になっていることだと思います。
2.父は栄光をお受けになる
ヨハネの福音書15章8〜12節をお読みください。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」(ヨハネ15:8)「わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)
8節には、「あなたがたが多くの実を結び」と書かれています。この御言葉を読むときに、自分は多くの実をむすんでいないのではないか?と考えることはないでしょうか。また、多くの実をむすばなければならない、実を結ばなければ取り去られてしまうと心配し、実を結ぶように頑張ろうとしてしまうことはないでしょうか。
枝は実を結ぶ仕組みを持っていますが、枝自体が実を結ばせるのではありません。夏に、私は毎年、トマトを植えますが、年を追ってトマト栽培に手ごたえを感じています。トマトをつくっておられる方からみれば、当たり前のことなのですが、トマトは通常一本立て(ミニトマトは二本立て)で育てます。脇芽をすべて刈り取ることが必要です。そして、葉の管理が重要なのです。すなわち、十分な肥料と、日光により葉が養分を作り出すこと、余計な枝を伸ばして栄養を分散させないことで大きな実ができます。このように、枝は単にその養分を実に送る役割しかなく、大切なのは養分を作り出す木そのものです。これと同じように、私たちは、イエス様からの養分によって、実を結ぶことができるのです。だから、「あなたがたが多くの実を結」ぶのは、イエス様につながっていることで、多くの実を結ぶことを表しています。そして、イエス様の実をつける私たちは、人々からイエス様の弟子、すなわちクリスチャンだと知られるのだという意味です。父なる神様は、私たちクリスチャンを通して、栄光をお受けになるのです。
このことは、私たちがよく知っている御言葉で表すならば、
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:16)
すなわち、私たちの光、良い行いがイエス様の実です。
また、
「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:35)
とあるように、私たちが互いに愛するなら、人々は私たちがクリスチャンであることを認めるとあるように、イエス様の実とは、互いの間の愛であるとも言えます。
イエス様は、「わたしの愛にとどまりなさい」と言われました。また、「あなたがたが喜びで満ちあれるように」とも言われました。イエス様から頂く養分は、愛であり、喜びです。私たちの互いの愛、そして、私たちの良い行いは、この愛と喜びによって生じるのです。パウロは、これらの実を称して具体的に「御霊の実」と呼んでいます。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22〜23)
私たちはイエス様にさえつながっていれば、こんな素晴らしいものを私たちのうちに作ってくださるという約束を信じ、これを喜ぶ者となりたいと思います。
3.互いに愛し合う
ヨハネの福音書15章13〜17節をお読みください。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」(ヨハネ15:16)
ここでイエス様はご自身が何のためにこの世界に来られたのかということをもう一度弟子たちに話しました。それは「友のためにいのちを捨てる」ということです。イエス様は私たちに対して友と呼んでおられます。この友とは、ギリシャ語のフィロスと呼び、仲間とか味方という意味があります。ヨハネの福音書の中で、イエス様が、ご自身を明かすにつれて、多くの人々がイエス様から去っていきました。(ヨハネ6:66)
しかし、この弟子たちはイエス様にとどまり続けたのです。イエス様にとって、仲間であり、味方でした。
「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」(マタイ12:50)
弟子たちは、イエス様が選ばれたと言われました。ここで、任命とありますが、これは「あなたが今いる場所、与えられている使命、立場は、あなたが自分で獲得したものではなく、キリストご自身が『ここで豊かな実を結ぶように』と願い、愛と意図をもってあなたをそこに『据え付けてくださった』という意味です。これは、私たち自身がもつ能力、資格などの一切の不安を取り除き、「キリストが置いて下さったのだから大丈夫」という確信と宣言があるのです。ですから、私たちひとりひとりは、それぞれの使命が与えられており、そこでキリストと共に生きることで、キリストを通して与えられる愛、喜びによって周囲の人々を豊かにしていくことができます。そして、イエス様は、その与えられたところで生きていくうえで必要なすべてを備えるために、イエス様のお名前を用いることを望んでおられます。
そして、その結果として、現れるのが、互いに愛し合うことであるというのです。
このヨハネの福音書の15章16節は、私が洗礼を受けるに至った決断したときの御言葉です。洗礼を受けようとしていた時、洗礼の準備会が教会で行われますけれども、数日前に私は怖くなって洗礼を受けるべきかどうかということを悩み始めました。当時の教会の先生から、このヨハネの福音書の15章16節を言われました。私がイエス様を選んだのではなくて、イエス様が私を選び出してくださったということに、私は確信ができました。なぜならば、私のイエス様への出会いに、とても不思議な導きを感じたからです。そして そのイエス様の導きは これまでもずっと私に続いています。私がイエス様から従ってきなさいと言われた時に、私は大きな転換点に立っていると感じ、その後献身をするという大きな出来事もありましたが、今もなおイエス様は教会を深く愛していらっしゃるんだということを感じております。このようなものはふさわしくないものだと思いますけれども しかし、人生の様々な出来事を通しても私を導いていてくださるお方は このように私に様々な御言葉の知恵やまた理解をお与えくださっているということを知りました。実際にメッセージの準備をしているときに、私が思う以上に神様は私に御言葉の意味を語ってくださり、私に様々な理解と、そして様々な深い思いを与えてくださっています。聖霊なしではメッセージを作ることができないということを毎回体験をしています。私自身は、この牧師という役割は、教会の一つの役割として考えており、それぞれの皆さんの与えられている役割の一つを担うものだと思っております。主が私を許される中で、私が御言葉を語る者として今後も働かせていただければ幸いだと思います。
私たちは今置かれているところでイエス様とつながり、そしてイエス様からの愛と喜びという栄養をたくさん受けて、そして私たち一人ひとりが神様から与えられている場で神様の素晴らしさを明かしする実をつけていくものでありたいと思います。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。