プロローグ
今年も第4週の礼拝では、私たちの教会が大切にしている「教会のビジョン」についてご一緒に学んでまいります。これまで「教会の7つの本質」として、関係、参加、能力、イエス様中心、伝道、ネットワーク、適応可能な構造といった、大切な要素についてお話ししてきました。
今日はその中でも、すべての基本となる「関係」——つまり「神様との信頼関係」について考えていきたいと思います。
皆さんは、身近な方との「関係」をどう感じておられるでしょうか。
家族でも友人でも、お互いに「信頼できる」という安心感があってこそ、良い関係が続きますよね。もし、相手を信じられないとなれば、それは苦しい付き合いになってしまいます。
私たちと神様との関係も同じです。
今日は、神様との関係を考えるために、箴言1章7節を学びたいと思います。
最初に、主を恐れること、そして、マタイの福音書25章のタラントのたとえから、「誤解から生じる神への恐れ」、そして、「神の恵みによって生きる」と学んでまいりたいと思います。
1.主を恐れること
それでは、箴言1章7節の御言葉をみてみましょう。
「主を恐れることは知識の初め。」(箴言1:7)
私たちはどうしても「恐れる」と聞くと、お化けや雷を怖がるような、「恐怖」を思い浮かべてしまいます。
実際に、聖書を読むと、昔の人々も神様をひどく怖がった場面が出てきます。出エジプト記20章には、シナイ山に神様が現れた時の様子が書かれています。
出エジプト記20章18〜19節には、雷鳴や稲妻、煙る山を目の前にした民が身震いして遠く離れて立ち、モーセに「あなたが私たちに語ってください」と願ったことが記されています。
彼らにとって、神様は近づくこともできないほど恐ろしい存在だったのです。
実は私自身も、若い頃に同じような「恐れ」を抱いた時期がありました。
若い頃、私は福音放送などを通して神様の愛に触れ、礼拝に通い始めました。やがて洗礼を受け、教会学校で子供たちに十戒(神様の掟)を教える教師にもなりました。
しかし、子供たちに「悪いことをすると神様の罰を受けますよ」と教えながら、私の心は次第に苦しくなっていきました。「こんなに罪深い私が、清く正しく生きるなんて無理だ。私は神様を欺いている偽善者ではないか」……そんな思いが強くなり、神様が怖くなって、礼拝から足が遠のいてしまったときがありました。
預言者イザヤも、神様の圧倒的な輝きを見た時、
「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で……」(イザヤ書6:5)
神様の聖さを知れば知るほど、自分の惨めさが浮き彫りになり、怖くなる……それは、あながち間違いではありません。
しかし、箴言1章7節の「主を恐れる」、ヘブル語の、יִרְאָה(yir’ah/イラー)とは、本来、「愛と尊敬による畏敬(いけい)」という意味があります。
それは、自分を愛してくれる父親を敬うような、温かな信頼関係を指しています。
だから、シナイ山でモーセは、恐れる民に対して、こう言いました。
「恐れることはありません。……これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」(出エジプト20:20)
神様がその威光を示されたのは、私たちを脅かすためではなく、私たちが道を外れて不幸にならないよう、神様を正しく敬い、信頼して生きてほしいと願われたからです。
私たちは、天罰を恐れて神様から逃げ隠れる必要はありません。神様は、私たちの父として、私たちが心から愛し、尊敬し、寄り添っていくべきお方なのです。
2.誤解から生じる神への恐れ
マタイの福音書25章14節から、有名な「タラントのたとえ」が記されています。
マタイの福音書25章14〜15節をお読みください。
ある主人が旅に出る際、3人のしもべに自分の財産を預けました。一人は5タラント、もう一人は2タラント、そして最後の一人は1タラントを受け取りました。
「1タラント」と聞くと少なく感じるかもしれませんが、当時の貨幣価値では、なんと現代の1億円にも相当する莫大な金額です。主人はそれほどの信頼を、しもべたちに寄せたのです。
5タラントと2タラントを預かった者は、すぐにそれを用いて働き、喜びとともに主人の財産を増やしました。ところが、1タラントを受け取った者の行動は違いました。彼は地面に穴を掘り、その大切な1億円を「隠して」しまったのです。
なぜ、彼はそんなことをしたのでしょうか?
後で帰ってきた主人に対し、彼はこう言い訳をしています。
マタイ25章24〜25節で、一タラントを受け取ったしもべは、主人を厳しい方だと思い、怖くなって、一タラントを地の中に隠したと言い訳しました。
ここに、彼の最大の悲劇があります。彼は主人のことを「失敗したら厳しく罰する、恐ろしい人だ」と完全に誤解していたのです。その「間違った恐れ」のせいで、彼の心は凍りつき、せっかくの財産を土に埋め、喜びのない時間を過ごしてしまいました。
このたとえに出てくる「主人」は神様、「しもべ」は私たちです。
よく「タラントは才能のことだ」と言われますが、「神様の恵み」として受け取るとよいでしょう。
もし私たちが、神様を「少しの失敗も許さない怖い方」と誤解していたらどうなるでしょうか。「御言葉を守らないとバチが当たる」「正しく生きないと神様から見捨てられる」……そうやってビクビクして過ごすなら、それは一タラントを土に埋めたしもべと同じ、喜びのない人生になってしまいます。「持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。」(マタイ25:29)というように、神様の御言葉を「自分を縛る規則」としてしか受け取れなくなり、喜びは取り上げられ、重荷だけが残るのです。
主人である神様がしもべである私たちに求めていたのは「お返し」ではありませんでした。神様の恵みを受けて、それを倍に増やしたしもべたちである私たちに対しても、主人は「それを返しなさい」とは言わず、「主人の喜びをともに喜んでくれ」と、ただ共に喜ぶことを望まれました。
実際に、神様の恵みは、私たちの行いでお返しできるような安いものではありません。
特に、イエス・キリストの十字架という最大の恵みを、どうやって私たちの「行い」で償うことができるでしょうか。どんなに立派な行いをしても、十字架の愛への「支払い」にはなりません。
私たちは、神様の恵みを「返さなければならない借金」のように思うのはやめましょう。神様を「厳しい取立屋」のように誤解するのもやめましょう。
神様は、私たちに与えて下さる恵みの中で、のびのびと、喜びをもって生きることを心から願っておられるのです。
3.神の恵みによって生きる
神様との関係が「怖い主人とビクビクするしもべ」ではなく、「愛し、信頼し合う親子」のような関係であるなら、私たちはこれからどう生きていけばよいのでしょうか。
それは、神様が注いでくださっている「恵み」を、ただ素直に受け取り、喜んで生きるということです。
日々の生活にある恵み
神様の恵みは、特別な時だけではなく、私たちの毎日の生活の中に溢れています。聖書にはこうあります。
「あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」(使徒の働き14:17)
今日食べるものがあること、季節の移ろいを感じられること。これらすべては、神様が私たちの心を喜ばせようとして贈ってくださっている「プレゼント」です。そう思うと、何気ない毎日が感謝に変わるのではないでしょうか。
私たちを育てる「恵みの言葉」
「みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」(使徒の働き20:32)
また、聖書に記された神様の恵みの言葉は、私たちを縛るためのルールではなく、私たちを豊かに成長させ、天の御国へと導くための「恵みの言葉」です。
キリストの贖い、罪の赦し
そして何より、イエス様の十字架による「罪の赦し」こそが、私たちが頂いた最大の恵みです。
これらの大きな愛、恵みをいただいた私たちは、どうお答えすればよいのでしょうか。
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」(ローマ12:1)
これは「義務として、嫌々やりなさい」ということではありません。
「これほどまでに愛されているのだから、この神様のために何かしたい、喜ばれる生き方をしたい」という、心からの感動によるお返しです。恐怖に怯える「奴隷」の生き方ではなく、愛に応えようとする「自由な子供」としての決意です。
実は私自身、かつては「神様のために何かをしなければ」という思いに縛られていたことがありました。
ある年の冬のことです。あるクリスチャンの修養会から帰宅した夜、私はふと目を覚まし、悲しみに襲われました。「私は神様のために、まだ何もできていない。こんな自分ではダメだ」と、自分を責めていたのです。
その時でした。主が私の心に、優しく語りかけてくださったのです。
「あなたはそのままでいい。わたしは、そのままのあなたを愛している」
その瞬間、私は知りました。神様は、私が何か立派なことをするから愛してくださるのではなく、今の、ありのままの私を、ただ愛してくださっているのだということを。
私がすべきことは、神様のために必死に頑張ることではなく、まずこの大きな神の愛を受け取り、自分が愛されていることを喜ぶことだったのです。
結び:主を恐れる=主を喜び、信頼すること
どうぞ、神様のために「何とかしなければ」と自分を追い詰めないでください。御言葉を聞いて「自分はできていない」と自分を責めないでください。
あなたの父である神様は、あなたを深く愛しておられます。
あなたが神様の愛を知り、毎日を喜んで生きること。それこそが、神様にとっての最大の喜びなのです。
「主を恐れる」とは、この素晴らしい神様を心の真ん中に置き、その大きな愛を心から信頼して歩むことなのです。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。