プロローグ
改めて、あけましておめでとうございます。2026年、主の豊かな恵みが、お一人おひとりの上にありますように。
さて、私たちは天国の国籍を持ちながら、この地上を旅する「寄留者」です。海外旅行にパスポートが必要なように、私たちには「聖霊」という神の国のパスポートが与えられています。聖霊は、私たちが神の子であることを証明し、天の故郷へ帰る日まで導いてくださいます。
では、このパスポートを持つ者は、今年どう歩むべきか。ペテロの手紙 第一 2章から、ご一緒に御言葉に聴いてまいりましょう。
1. 私たちがまず行うべきこと(2:1–3)
2:1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
2:3 あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。
2章の冒頭でペテロは「ですから・・」と言っています。これは1章23節、
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
により、神のことばによって、新しく生まれたのだからと2章に続きます。
では、ペテロの手紙 第一 2章1節から3節に入りましょう。ペテロはここで、天国の民である私たちが、この地上で成長していくために「まずやるべきこと」を教えています。それは、シンプルな「引き算」と「足し算」です。つまり、「古い性質を捨てること」と、「純粋な霊の乳を慕い求めること」です。
まず、捨てるべき5つの古い性質が挙げられています。「すべての悪意、すべての偽り、偽善、ねたみ、すべての悪口」です。少し耳の痛い言葉ですが、それぞれ聖書がどんな意味で言っているのか、心に照らしてみましょう。
第一に「悪意」。これは、他人の幸せや成功を願えないねじ曲がった心です。この感情は、自分に向かうもので、自分が可哀そう、自分が可愛いと思う感情です。
第二に「偽り」。心の中に企みがあるのに、表面だけ良い人のふりをすること。人を自分の利益のために利用しようとする心です。
第三に「偽善」。本当の自分を隠して、神様よりも「人からどう見られるか」ばかりを気にする演技のことです。偽りの実際の行動と考えてよいと思います。
第四に「ねたみ」。人の祝福を喜べない心。これは最初の「悪意」と根っこが同じです。ねたみは、相手に向かった感情で、恵まれた相手を憎む感情です。
そして第五に「悪口」。陰で人の評判を落とすようなことを言うことです。これは、ねたみのひとつの行動と考えてよいと思います。
これら5つのゴミは、人間関係を壊し、神の家族である教会を内側から腐らせてしまいます。だからペテロは、まずこれらを「捨てなさい」と命じました。「捨てる」とは、ギリシア語で「アポセメノイ」。「汚れた服を脱ぎ捨てる」という意味の言葉です。家に帰って泥だらけの服を脱いで洗濯機に放り込むように、古い性質を脱ぎ捨てなさい、と言うのです。
実は、先週の水曜日の祈祷会で、皆さんとこの箇所を学びました。その翌日、私は一人になって、時間をかけて自分の心を見つめ直し、「解放の祈り」をしました。正直に告白しますと、私自身の心の中に、ある人に対する「悪意」と「ねたみ」が隠れていることに気づかされたのです。私の中にも、脱ぎ捨てるべき汚れた服がありました。私はそれを主の前に差し出し、手放す祈りをしました。
皆さんにもお勧めします。この一年の始まりに、自分の心を点検してみてください。もし、これら5つの性質のどれかが見つかったら、それをイエス様に差し出してください。第一ヨハネ1章9節には素晴らしい約束があります。
Ⅰヨハ1:9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
この「脱ぎ捨てる」作業をして初めて、私たちは健全な食欲を持つことができます。2節をご覧ください。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な霊の乳を慕い求めなさい」とあります。「霊の乳」とは、ギリシア語で「ロギコン・ガラ」。混じり気のない「神の言葉」のことです。赤ちゃんがお母さんのミルクを必死に求めるように、私たちも聖書の言葉を求めようではありませんか。
なぜなら、それによって私たちは成長し、救いの完成へと至るからです。私たちは既に救われていますが、キリストの似姿へと変えられていく「成長」が必要です。その栄養源は、御言葉以外にありません。
さあ、まずは悪意やねたみといった古い服を脱ぎ捨てましょう。そして、きれいになった心で、赤子のように純粋に、神様の御言葉を慕い求めていこうではありませんか。
2. 私たちは祭司です(2:4–10)
ペテロの手紙 第一 2章4〜10節をお読みください。「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。」(2:4)、そして「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。」(2:9)と語られています。
続いて、4節から10節を見ましょう。ここでペテロは、「主のもとに来なさい」と招いています。
今年、私たち杏の里教会の標語は「キリストの愛にとどまる」です。もし、日々の生活でキリストから心が離れてしまっているなら、もう一度キリストに近づき、ピタリとくっついて「とどまる」ことが必要です。ただ、誤解しないでください。この「とどまる」というのは、単に「毎週欠かさず礼拝堂に座っていること」だけを指すのではありません。もちろん礼拝は大切ですが、出席率だけが信仰のバロメーターではないのです。大切なのは、普段の生活の中で、心がキリストと一緒に生きているかどうかです。
そして、キリストと共に生きる私たちの身分について、ペテロは驚くべきことを言っています。それは、「あなたがたは祭司だ」ということです。
「祭司」とは何でしょうか。一言で言えば、「神様と人との間に立って、両者をつなぐ人」のことです。旧約聖書の時代、祭司になれたのはアロンの子孫という特別な人たちだけでした。彼らだけが神殿に入り、人々のためにいけにえを捧げ、神様の言葉を取り次ぐことができました。一般の人は、直接神様に近づくことは許されなかったのです。
しかし、今は違います。イエス・キリストが十字架にかかられたことによって、神殿の幕は裂かれました。今や、キリストを信じる人は誰でも、神様と直接つながることができます。牧師や神父だけが祭司なのではありません。ここにいる皆さんお一人おひとりが、神の御前では尊い「祭司」なのです。いわば、私たちは「天国の大使」として、この地上に置かれているのです。
ですから、私たちはイエス様のお名前によって、いつでもどこでもお祈りできます。人のためにとりなしの祈りをすることもできますし、神様の恵みを誰かに伝えることもできます。4節に、キリストは「生ける石」だと書かれています。私たちはこの「生ける石」にくっつくことで、私たち自身も「生ける石」とされ、霊的な家である教会を建て上げていくのです。
ここで、少し教会の歩みを振り返ってみましょう。2019年の8月、教会の将来について皆さんと話し合ったとき、ある切実な願いが出されました。それは、「5年後も、みんなで礼拝に出席し、恵まれて帰れる日々を過ごしたい」というものでした。あれから5年が過ぎ、今は2026年になりました。その願いは、どうなったでしょうか。神様の守りの中で、私たちはこうして歩みを続けています。
しかし現実には、年を重ねるごとに体が思うように動かなくなり、教会に足を運ぶのが難しくなることもあるでしょう。そんな時、どうか自分を責めないでください。「礼拝に行けないから、信仰が弱くなった」とか「神様から離れてしまった」なんて思わないでください。そうではありません。
あなたは、家庭で、ベッドの上にいても、自宅の椅子に座っていても、あなたは立派な「祭司」としての務めを果たすことができます。大切なのは、私たちがどこにいても、神様と人との間に立つ「とりなし手」として、キリストにつながり続けることです。たとえ礼拝に来られない日があっても、あなたは祭司なのです。私たちは皆、それぞれの場所で、祭司として生きるのです。
3. 私たちは自由な者です(2:11–17)
ペテロの手紙 第一 2章11〜17節をお読みください。「あなたがたは旅人、寄留者なのですから」と勧められ(2:11)、「自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。」(2:16)と語られています。
次に、11節から17節です。ペテロはここで、社会の中での私たちの生き方を語ります。テーマは「私たちは自由な者」である、ということです。
先ほども申しましたように、私たちは神の国の国民であり、この世界では「寄留者(外国人)」です。ですから、悲しいことですが、この世界は私たちの価値観を完全には理解してくれません。時には、誤解されたり、煙たがられたりすることさえあります。イエス様も、ヨハネの福音書15章19節ではっきりと仰いました。
ヨハ15:19 あなたがたは世のものではありません。そのため、世はあなたがたを憎むのです。
私たちが聖書の教えに従って歩もうとすると、周りの人から「変わった人たちだ」と思われることがあります。特にここ日本では、仏壇や神棚を拝まないことや、法事の習慣が違うことで、「先祖を大切にしていない」と批判されることがあるかもしれません。これは、日本のクリスチャンが長年抱えてきた悩みです。
そんな時、どうすれば良いでしょうか。言葉で言い返して論破すべきでしょうか?ペテロは、「そうではない」と言います。12節を見てください。「立派な行いによって」、人々の誤解や批判を沈黙させなさい、と教えているのです。
少し私自身の話をさせてください。私と家内は、毎年、親族の中で誰よりも早く、家族のお墓の掃除に行っています。クリスチャンですからお経はあげませんが、誰よりも丁寧に清掃し、生垣を整備します。それは、「私たちは先祖を大切に思っていますし、親族の皆さんのことも愛しています」ということを、口先ではなく行動で示すためです。これを何年も続けました。その結果どうなったと思いますか?今では、親族の中で私たちの信仰を批判する人は誰もいなくなりました。むしろ信頼してくれるようになったのです。「立派な行い」は、百の言葉よりも雄弁に、神様の愛を証しするのです。
また、ペテロは「人の立てた制度に従いなさい」「王を敬いなさい」とも言っています。実は、ペテロがこの手紙を書いた時代、ローマ帝国の皇帝はクリスチャンを迫害するような暴君であったと言われています。それなのに、ペテロは「従いなさい、敬いなさい」と言うのです。なぜでしょうか?それは「主のゆえに」、つまり神様の栄光のためです。
神様は「無秩序」や「混乱」を望まれる方ではありません。社会に秩序があることを望んでおられます。為政者がどんな人であれ、社会の秩序を守る役割を担っているなら、その役割に対して敬意を払うこと。それが、社会の秩序を保たれる神様への信頼の証になるのです。私たちは、無政府状態や無法地帯を作ることではなく、平和と秩序を大切にする良き市民であるべきなのです。
ペテロは私たちのことを「自由な者」と呼びました。私たちはキリストによって罪から解放された、真に「自由な者」です。この世の常識や、人の評価に縛られる必要のない、自由な天国の国民です。しかし、その「自由」を、自分のワガママのために使ってはいけません。「私は自由だから、何をしてもいいんだ」と言って、社会のルールを破ったり、人に迷惑をかけたりすることは、神様の御心ではありません。
私たちは、「神のしもべ(奴隷)」として生きるために、自由を与えられたのです。嫌々ではなく、自由な意思を持って、喜んで神様に仕え、隣人に仕える。社会の秩序を守り、良い行いを通して神様の栄光を現す。それが、ペテロの言う「自由な者」としての生き方なのです。
4. キリストの足あとを辿る(2:18–25)
ペテロの手紙 第一 2章18〜25節をお読みください。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」(2:21)と語られています。
最後、4番目のポイントです。18節から25節を通して、「キリストの足あとをたどる」ことについて考えましょう。
私たちは長い人生の中で、あるいはこの一年の中で、苦しみや困難に直面することがあります。特に辛いのは、「自分は正しいことをしたのに誤解された」「一生懸命やっているのに報われない」という、不当な苦しみです。「神様、なぜですか?なぜ私だけがこんな目に?」と叫びたくなる時があります。
しかしペテロは、驚くべきことを言っています。19節と20節です。「不当な苦しみであっても、神を仰いで耐えるなら、それは神の御心にかなうこと、恵みです」と言うのです。そして21節には、「そのためにこそ、あなたがたは召されました」とさえ書かれています。
なぜなら、私たちの主イエス・キリストも、全く同じ道を歩まれたからです。キリストは罪を犯さず、口には偽りがなかったにもかかわらず、十字架につけられました。しかし、主はののしられても、ののしり返しませんでした。苦しめられても、脅すことをしませんでした。ただ、正しくさばかれる父なる神様に、すべてをお任せになったのです。
このキリストの打ち傷のゆえに、私たちは癒やされました。そして、ここからが重要です。キリストが苦しまれたのは、私たちを救うためだけではありません。「あなたがたがキリストの足あとに従うようにと、模範を残された」のです。
ここで、少し想像してみてください。私たちには馴染み深い、雪の日の光景です。深い雪が積もった朝、まだ誰も歩いていない道を歩くのは大変ですよね。足は埋まるし、どこが道かも分かりません。でも、もしお父さんやお母さんが先に歩いてくれていて、しっかりとした「足あと」が残っていたらどうでしょうか。子供だった私たちは、その足あとの上を、「ぴょん、ぴょん」と踏んでいけば、濡れることもなく、安心して進むことができました。寒さは厳しくても、前を行く親の背中を見ながら、そのぬくもりを感じて歩くことができたはずです。
信仰の歩みも同じです。「寄留者」として生きるこの地上の旅路は、時に吹雪のような試練があります。道が見えなくなることもあります。でも、目を凝らして見てください。私たちの前には、イエス・キリストという先駆者がつけてくださった、確かな「足あと」があります。ののしられても祝福する足あと。自分を捨てて他者に仕える足あと。そして、父なる神様にすべてを委ねる祈りの足あとです。
私たちがその足あとに自分の足を重ねていくなら、道に迷うことはありません。私たちは、キリストのぬくもりを感じながら、本当のふるさとである「天の御国」に向かって、確実に進んでいくことができるのです。
愛する皆さん。2026年が始まりました。私たちはこの地上では「寄留者」です。
まず、悪意やねたみといった古い服を脱ぎ捨て、御言葉を慕い求めましょう。
「祭司」として、とりなしの祈りを捧げましょう。
「自由な者」として、善い行いをもって社会の秩序を守りましょう。
そして、どんな時も、キリストの足あとをたどって歩んでいきましょう。
「魂の牧者であり、監督である方」が、今年一年、皆さんの歩みを守り、導いてくださいますように。お祈りします。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。