今日は、教会でよく使う「奉仕」について一緒に学びたいと思います。
先月の第四週のメッセージでは「天に宝を蓄える」というお話がありました。私もはじめは「天に宝を蓄える」=献金のことだと思っていました。でも、そのメッセージは献金だけをすすめるものではありませんでした。私たちにとっての本当の宝は、私たちの中にいるキリストです。「天に宝を蓄える」とは、この方が私たちの中で大きく育っていくことを意味します。
さて、先週お話ししたとおり、今日は「奉仕」について考えます。ご存じの方もいると思いますが、学校には「奉仕活動」というものがあります。文部科学省は、小学校で「ボランティア活動など社会奉仕体験活動」を充実させることで、自主・自律や協力の心、公共の精神を育てるように言っています。
一般的に「奉仕」は、社会に貢献するボランティア活動を指します。しかし、キリスト教会でいう「奉仕」は、世間のボランティア活動とは少し違います。教会では、奉仕分担表を作って、礼拝の準備や清掃、受付などの仕事を「奉仕」と呼びます。では、教会での「奉仕」とはどんなことなのでしょうか。今日は皆さんと一緒に、その意味を考えてみましょう。
1.筋の通った奉仕
ローマ人への手紙12章1〜8節をお読みください。要となる句は次のとおりです。
「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)
ローマ人への手紙は、使徒パウロがローマの教会の兄弟姉妹たちに向けて書いた手紙です。使徒の働きのあとに出てくるので、はじめに書いた手紙のように思えますが、実はガラテヤ書やテサロニケ書、コリント書などのあと、パウロが3回目の伝道旅行でコリントにいたときに書かれたものだと言われています。
では、12章を一緒に見てみましょう。1節にはこうあります。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。」
ここでパウロは、「あなたがたに勧めます」という言葉を使って、強くお願いをしています。つまり「どうか、聞いてほしいのです」という気持ちです。
では、パウロは何を願っているのでしょうか?それは、「神のあわれみによって」というところに表れています。ローマ人への手紙の1章から11章までで、パウロは何度も神様のあわれみを語ってきました。ここで言う「神のあわれみ(複数形)」とは、多くのあわれみのことです。
パウロは、この「神様のあわれみ」を知った皆さんに対して、ぜひともこうしてほしいと、心を込めてお願いしているのです。
パウロはローマ人への手紙で、神様の大きなあわれみを何度も語っています。以下のようなあわれみです。
1. 神様は忍耐と寛容によって私たちを悔い改めに導いてくださる(1章)
2. キリストの血によって、私たちが正しい者と認められる(義認)(3章)
3. いったん救われると、もはや罪に定められることがない(8章)
4. 神様はすべての人を憐れみ、救おうとされる(10章・11章)
これだけのあわれみを知ったなら、パウロは兄弟姉妹たちに、こうお願いするしかないのです。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。これがあなたがたにふさわしい礼拝です。」
つまり、神様がこんなに私たちを愛し、キリストが命をかけて救ってくださったことを知ったのだから、私たち自身も神様に喜んでいただける生き方をしましょう、というのです。
また、「ふさわしい礼拝」という言葉は、「筋の通った奉仕」とも言えます。「ふさわしい」とは、「筋の通った」、「道理にかなった」、「無理のない」という意味です。また、礼拝(λατρεία:ラトリア)は、神への奉仕という意味です。つまり、神様のあわれみを受けた私たちが、心から納得して行う奉仕こそが、本当の礼拝なのです。
辞書で「奉仕」を調べると、次のように書かれています。「報酬を求めず、また他の見返りを要求するでもなく、無私の労働を行うこと」
この「奉仕」という言葉は、もともと宗教の言葉です。辞書にはさらに、「神への奉仕として、神への代わりとして、困難な場面におかれている隣人に手を差し伸べ、出来る限りの援助をおこなうこと」とも説明されています。
この「奉仕」という言葉が広まったのは、西暦516年、イタリアのヌルシアにあったベネディクトゥス修道会の会則がきっかけだと言われています。その考え方は、「隣人や困窮者への援助、奉仕がそのまま神への奉仕につながる」というものです。
また、仏教や神道でも、信仰のあかしとして奉仕活動を行い、社会奉仕を修行の一つと考える場合があります。
その奉仕とは、「神のあわれみ」を受けた私たちが、そのあわれみを知ったうえで、自ら進んで、自分のからだを「神に喜ばれる」「聖なる生きたささげ物」としてささげること、つまり神に喜ばれる行いをすることです。
このことは、イエスさまが次のように言われた聖書の言葉にも表れています。
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:16)
私たちは、神様の子どもとされる恵みを受けたら、自分の良い行いを通して、神様の御名がほめたたえられるように生きるのです。
神様への奉仕で、パウロは、私たちが気をつけるべきことを4つ、具体的に示しています。
(1)この世と調子を合わせてはいけません(2節)
この世の人たちの習慣や考え方を真似せず、神様の恵みに応える生き方に自分を正しなさい、ということ。
(2)心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい(2節)
イエス・キリストの十字架によって、新しく生まれ変わることです。そうすると、「神様が何を望んでおられるか」をいつも考えて行動できるようになります。
(3)思うべき限度を超えて思い上がってはいけません(3節)
神様のあわれみを知ったら、もう自分を大きく見せる必要はありません。
「誇る者は主を誇れ。自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。」(Ⅱコリント10:17〜18)
私たちは、自分ではなく、神様に認められる人になりましょう。
(4)神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい(3節)
「信仰の量り」とは、神様から与えられた能力や知識などのことです。人のそれぞれ信仰の量りは違います。
「一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。」(ローマ12:4〜5)
からだの目や口の機能が違うように、私たちもそれぞれが違うのです。
パウロはさらに、ローマ人への手紙12章6〜8節で「与えられた賜物に応じて奉仕をしなさい」と教えます。
「私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、……」(ローマ12:6〜7)
すなわち、神様から受けた恵みに応えて、自分の体を「神に喜ばれる生きたささげ物」とすることが「筋の通った奉仕」なのです。
先ほどお話ししたように、「神への奉仕」は教会の中だけで行うことではありません。それどころか、日曜礼拝以外の6日間こそ、私たちの「神への奉仕」の実践するときです。それは、「神への奉仕」がベネディクトゥス修道会で言われたように、隣人や困っている人への援助や奉仕だからです。私たちが日々の生活の中で地の塩、世の光として生き、私たちの良い行いによって、父なる神様がほめたたえられるなら、それもすべて「神への奉仕」、つまり「礼拝」なのです。
この「礼拝」は、神様が一人ひとりに与えてくださった賜物を使って行うことで成り立ちます。まず第一に、私たちが神様の大きなあわれみを知ることです。そして、そのあわれみに応えて、自分の人生を神様の喜ばれるために生きようとすることです。
また、私たちが奉仕に用いる賜物は、私たちが与えられた賜物です。その賜物を慎み深く考え、どのように用いるかを考えていきましょう。「自分には賜物がない」と言う人がいますが、それは自分の賜物を深く考えたことがないからかもしれません。神様は必ず、あなたにぴったりの賜物を与えておられます。
賜物とは、人より優れている能力や知識ではありません。どんなに小さなことでも、喜んで出来ることがあれば、それが賜物です。次に、聖書に登場する人物がどんな賜物を持っていたか、一緒に見ていきましょう。
2.聖書に登場する奉仕者たちの賜物
(1)ドルカス
使徒の働き9章36〜39節をお読みください。
「またヤッファに、その名をタビタ、ギリシア語に訳せばドルカスという女の弟子がいた。彼女は多くの良いわざと施しをしていた。」(使徒9:36)
名はタビタ、またはドルカスと呼ばれていました。聖書には、「彼女は多くの良いわざと施しをして」おり、彼女が病気で亡くなったとき、やもめの女性たちは泣きながらペテロに、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せたのです。彼女は、夫に先立たれた女性たちのために衣服を作るという奉仕をしていたのです。まさに「隣人や困窮者への援助、奉仕」でした。
その後、6世紀ごろにドルカス協会という団体が生まれ、彼女の思いを受けついで、地域の人々に衣服や物資を届けるようになりました。現在もドルカス協会は、奨学金や慈善寄付活動を行っています。
彼女は、神様から与えられた賜物である縫製、資金を使って、神様が喜ばれる良いわざ(衣服の提供)と施しをしていたのです。
(2)フィベ
「私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。」(ローマ16:1)
パウロがコリントという町に滞在していたころ、近くの港町ケンクレアの教会で彼女は仕えていました。彼女はパウロを支え、『ローマ人への手紙』を届ける手伝いをしていたのです。彼女は、人の世話や自分の時間という賜物を用いて、教会の執事、伝道の支援という神様が喜ばれる良いわざをしました。
(3)ステパノ、ピリポ
使徒の働き6章1〜6節をお読みください。ギリシア語を使うユダヤ人のやもめたちが毎日の配給でなおざりにされるという苦情を受けて、使徒たちが、御霊と知恵に満ちた評判の良い人たち七人を選ぶよう提案する場面です。
「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」(使徒6:4)
当時、エルサレム教会では、やもめや貧しい人たちに食事を配っていました。しかし、信者が増えるにつれて、その奉仕が行き届かなくなり、不満が出ました。そこで、食事の配給を助けるために、7人が選ばれました。その中には、最初の殉教者ステパノと、サマリアでの伝道やエチオピアの宦官への洗礼を行ったピリポが含まれていました。彼らの立場は、Ⅰテモテ3章8〜13節にある「教会の執事」にすぎません。
しかし、ステパノやピリポは、食事の配給だけにとどまらず、神様から与えられた恵みと力の賜物を用いて、不思議としるし、伝道、洗礼というよいわざを行い、世の光、地の塩として生きたのです。
中村哲さんは、中学校に通っていたころ、聖書を通してイエス・キリストに出会い、バプテスマを受け、クリスチャンとして歩みを始められました。当時の牧師に「直接世のため人のために役立つ仕事をしたい」と話し、医学部へ進学されました。
卒業後は神経内科医として働くかたわら、国際医療NGOの医師としてパキスタン・ペシャワールへ派遣され、ハンセン病や結核の医療支援を行いました。さらに、アフガニスタンでも医療活動を広げられました。
2001年、アフガニスタンの大干ばつで苦しむ人々を救うために井戸掘削を始められました。しかし地下水の枯渇で井戸掘りが禁止されると、2003年に「緑の大地計画」を立て、用水路建設を提案されました。病院の運営は副院長に任せ、ご自身は用水路建設に全力を注がれました。建設の知識がなかったため、一から学び、計画を完成させられました。
中村さんは「直接世のため人のために役立つ仕事をしたい」という願いに忠実に、医師という立場にこだわらず、その目的を実現されました。彼には、医師という賜物だけでなく、人を助けるために必要な多くの賜物を持っていたのです。人々を愛するために良い行いを行った結果、医師以外の多くの賜物が現れたのです。
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。」(ローマ12:3)
私は、「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません」という言葉を思い返しました。自分には賜物が「ない」と決めつけて過小評価することは、かえって神様の前で思い上がる態度ではないでしょうか。そうではなく、神様がくださった恵みを軽んじず、慎み深く考えて受け止めることが必要です。なぜなら、神様は次のように約束して下さっておられるからです。
「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」(ヤコブ1:5)
もう一度、神様のあわれみを思い返し、神様が喜ばれるために、神様の御心を求めて、自分自身を神様にゆだねてみましょう。自分が気付かなかった多くの賜物が明らかになるかもしれません。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝(筋の通った奉仕)です。(ローマ12:1)
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。