バプテスマのヨハネの誕生

聖書箇所:ルカ1:57〜80

説教者:高橋堅治

アドベント(待降節)の第三週に入りました。この期間はクリスマスを待ち望む大切な時期です。伝統的な教会では、この週に洗礼者ヨハネについて書かれた聖書の箇所が読まれることが多いようです。

杏の里教会では、次のようなお話がされてきました:

第一週:創造主である神様の存在について、そして旧約聖書に預言されていたキリストがイエス様によって実現されたことについてお話ししました。

第二週:ルカの福音書2章を通して、羊飼いたちが幼子イエスを探し求めたように、私たちもキリストを探し求めることの大切さをお話ししました。

そして今日は、ルカの福音書1章から、洗礼者ヨハネの誕生について学びます。

1.ザカリヤの信仰

ルカの福音書1章57〜66節をお読みください。要となる一句は次のとおりです。

「すると彼は書き板を持って来させて、『その子の名はヨハネ』と書いたので、人々はみな驚いた。」(ルカ1:63)

ルカの福音書1章には、イエス様の誕生物語の最初が描かれています。その中で、1章5節に登場するザカリヤという祭司の話が始まります。イエス様がお生まれになる前には、順序や準備がありました。その準備の一環として、キリストの来臨においてとても重要な人物が先に生まれることになっていたのです。

「ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」(ルカ1:5)

ザカリヤは「アビヤ」という組に属する祭司でした。この「アビヤの組」については、旧約聖書の歴代誌第一24章3節以降に記されています。

「ダビデは、エルアザルの子孫の一人ツァドク、およびイタマルの子孫の一人アヒメレクと協力して、アロンの子らをそれぞれの奉仕に任命し、それぞれの組に分けた。」(歴代誌第一24:3)

当時、祭司の数は非常に多かったため、ダビデ王が祭司たちを24の組に分けました。そして、それぞれの組が週ごとに交代で神殿での奉仕を行うようにしたのです。

「第七はハ・コツに、第八はアビヤに、」(歴代誌第一24:10)

祭司たちは、グループごとに公平に仕事を分けられていました。仕事の順番は週ごとに変わり、1年に2回ほど自分たちの順番が回ってきたようです。このお話が始まったのは、アビヤというグループが当番のときでした。そのグループにはザカリヤという人がいました。

ザカリヤと妻のエリザベツは、神様の教えを守る正しい夫婦でした。でも、この夫婦には子どもがいませんでした。その理由は、エリザベツが子どもを産むことができなかったからだと書かれています。当時は、女性の見た目や体の状態で「子どもを産めるかどうか」を判断することが多かったそうです。二人は長い間子どもがいないまま年を取りました。あるお話では、ザカリヤは99歳、エリザベツは89歳だったと言われています。

ある日、ザカリヤが所属するアビヤのグループで、誰が神殿の中で香(こう)をたく役目をするかを決めるくじが引かれました。そして、ザカリヤがその役目に選ばれました。

ザカリヤが神殿で香をたくために入ったとき、み使いが現れました。神殿の聖所には、正面に向かって左側に燭台(ろうそく立て)、右側にパンの机が置かれていて、その真ん中の奥には香をたくための祭壇がありました。この祭壇の右側に、み使いが立っていたのです。

過去のイスラエルの記録を見ると、香の祭壇の近くにみ使いが現れたことが何度かあったと書かれています。特に、ある大祭司が毎回み使いの幻を見て、そのことから自分の死を悟ったという記録もあります。

しかし、ザカリヤにとってはこれが初めての出来事でした。そのため、彼は驚いて取り乱し、大きな恐怖を感じました。そして、み使いが「エリザベツが男の子を産む」と伝えたとき、その言葉を信じることができませんでした。

ザカリヤは、天使が伝えた神様の言葉を信じなかったため、しばらくの間、話すことができなくなってしまいました。この出来事は、ザカリヤが神様の言葉を信じる信仰を持たなかった結果として起こったのです。そのため、神様の大きな祝福を他の人々に伝えることができませんでした。

ザカリヤが話せるようになるまでには約10か月の時間がかかりました。この間、神様がザカリヤに与えた恵みに対する人々の祝福も一時的に遠のいていたのです。

聖書の御言葉は、私たちに「信じるか、信じないか」を選ぶよう求めています。もし私たちが信仰を持って御言葉を受け入れるなら、神様の祝福はすぐに与えられます。しかし、信じなければその祝福は遠ざかってしまうのです。

10か月が経ち、月が満ちたときに、エリザベツは男の子を産みました。生まれて8日目、割礼を行うために人々が集まりました。そのとき、人々は幼い子どもを「ザカリヤ」と名付けようとしました。しかし、母親のエリザベツは「その子の名前はヨハネにします」と言いました。

「ザカリヤ」という名前には「神の名は知られ、記憶されている」という意味があります。しかし、この子どもはザカリヤの信仰によって生まれたのではなく、神様の憐れみによる特別な贈り物でした。一方、「ヨハネ」という名前には「神の贈り物」という意味があります。

ヨハネという名前を聞いて、人々は驚きました。なぜなら、当時は親族にいる名前を子どもにつけるのが普通だったからです。それなのに、母親が全く違う名前を提案したからです。そこで、人々は父親のザカリヤに尋ねました。ザカリヤは板に「その子の名はヨハネ」と書きました。

ザカリヤは10か月間、神様がみ使いを通して語られた約束が実現するのを目の当たりにしてきました。その結果、神様の約束が真実であると信じ、その信仰を行動で示しました。

この出来事から、私たちは学ぶべきことがあります。それは、信じたならば、その信仰を行動で示すことが大切だということです。信仰は行いを通して完成されるのです。

「あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。」(ヤコブ2:22)

ですから、ザカリヤは「その子の名はヨハネ」と宣言することで、彼の信仰は完成しました。その前に不信仰のため口がきけなくなっていたザカリヤでしたが、「ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって」のです。

このザカリヤが急にものが言えるようになった出来事を見た「近所に住む人たちはみな恐れを抱いた」とあります。ここで言われている「恐れ」とは、ただの怖さではなく、神様に対する深い敬意や驚き、畏敬の気持ちを指します。ザカリヤの変化に、人々は神様の偉大な力を感じ、その御名を讃えたのです。この奇跡の話は、ユダヤの山地全体、つまりエルサレム周辺の丘陵地帯にも広く伝えられていきました。そして、ザカリヤを通して、生まれた子供に対して「いったいこの子は何になるのでしょうか」とまで言う人々が現れました。

私たちも神様の御言葉を信じ、それに行いで応えるとき、信仰が完成し、神様からの大きな祝福を受けることができます。そして、その祝福を通して、多くの人々が神様を賛美するようになるのです。

私は水曜日の夜に「解放の14レッスン」を学んでいます。先日はレッスン11で「力と権威」について学びました。その内容は、イエス様が私たちに力と権威を与えてくださったということでした。

「イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。」(ルカ9:1)

私たちは誰かの病気が治るように願うとき、「神様、○○さんの病気を治してください」と祈ることが多いです。しかし、実はイエス様の弟子たちの祈り方は少し違っていたのです。

「使徒の働き」の中で、生まれつき足が不自由な人を癒す場面では、弟子たちはどのように言ったのでしょうか。

「すると、ペテロは言った。『金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』」(使徒3:6)

また、パウロがリステラで足の不自由な人が座っているのを見たとき、彼に何と言ったのでしょうか。

「大声で『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。」(使徒14:10)

ここで私は、神様を信じて、神様から与えられた権威と力を使って祈ることの大切さを学びました。

私は医療の力を否定するものではありません。むしろ、医療はとても重要で素晴らしい仕事だと思います。ただ、病気の人を思うとき、私たちは神様に相手の癒しを祈り、神様に信頼することも大切だと感じます。

ザカリヤも、彼の信仰の体験は、この後に続く、ザカリヤの歌に変わったのだと思います。

2.いと高き方の預言者

ルカの福音書1章67〜80節をお読みください。要となる一句は次のとおりです。

「幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、」(ルカ1:76)

ザカリヤは聖霊に満たされて預言をしました。そして、その内容は「ザカリヤの賛歌」と呼ばれています。この賛歌は「ベネディクトゥス」とも呼ばれ、ラテン語で「祝福がありますように」という意味を持っています。

この賛歌は、原文では2つの部分に分かれています。1つ目は68節から75節、2つ目は76節から79節です。原文に忠実に訳すと、以下のようになります。

「イスラエルの神をほめたたえましょう。それは、神様が恵み深く私たちを訪れ、民を救い出してくださったからです。

また、ダビデの子孫を通して、私たちに「救いの角」(つまり、力強い救い)を与えてくださいました。

このことは、昔から聖なる預言者たちを通して語られていたとおりです。

神様は、私たちの敵や私たちを憎む人々から救い出してくださり、

先祖たちへの憐れみと、神様が彼らと結ばれた契約を思い起こしてくださいました。

さらに、私たちの父祖アブラハムに誓われた約束を守り、

敵から救い出された私たちが、これからは神様に恐れることなく仕えることができるようにしてくださいました。

このすべては、私たちが一生の間、神様の前で敬虔さと正しさをもって生きるためです。」

この最初の部分では、神様の救いの計画と目的について述べられています。そこでは、イスラエルの神様が、ダビデの子孫として救い主であるキリストをお与えになることが記されています。そして、キリストに救われた者は、神様を恐れることなく、一生を敬虔に正しく生きるためであると記されています。 いわゆるキリスト預言です。

そして、76節からは、

「幼い子よ、あなたはいと高い方(神)の預言者と呼ばれるでしょう。そして、主が来られるためにその道を整えるため、先に進んで働くのです。

あなたは人々に、罪が赦されることで救われるということを教えます。

それは、私たちの神がとても深い憐れみを持っておられるからです。その憐れみによって、天から光が訪れ、

暗やみや死の影の中にいる人々を照らし、私たちを平和の道へ導いてくださるのです。」

ヨハネの生涯とその目的について語られています。ヨハネは「いと高き方の預言者」と呼ばれました。そして、彼の目的はキリストが人々を救う準備をすることだったのです。

マタイの福音書3章7〜10節をお読みください。要となる二節は次のとおりです。

「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」(マタイ3:8-9)

ユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫であり、神様から特別な祝福を受ける存在だと考えていました。しかし、ヨハネは彼らの心の中を見抜き、こう伝えました。「石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができる」。つまり、血筋や家柄ではなく、悔い改めが大切だということです。悔い改めとは、「神様に背を向けていた生き方を改めて、神様のもとに戻ること」を意味します。

ヨハネはこのことを教えるために、当時ユダヤ教に改宗する人たちに授けられていた「バプテスマ(洗礼)」を、ユダヤ人たちにも授け始めました。この洗礼は、罪が赦されて、神様に救われることが必要であることを教えるためでした。

その理由は、「私たちの神様が深い憐れみを持っておられるから」です。神様は世界の創造主であり、人間が神様から離れてしまい、暗闇や死の影の中にいるような状態を嘆かれました。そして、人々をその暗闇から救い出すため、光であるキリストを世に送りました。

もし人々が罪からの救いの必要性を理解しなければ、キリストが来られてもその救いを受け入れることができません。そのために、バプテスマのヨハネは人々に救いの準備をさせる役割を果たしたのです。このことから、ヨハネは「いと高き方(神様)の預言者」と呼ばれているのです。

前々回お話ししたように、今の日本では、約9割の人が「神様なんていない」と考えている社会です。そのため、自分がなぜ存在しているのか分からないと思う人も多いのではないでしょうか。「死んだらそれで終わりだ」という考え方を持つ子どもたちもいます。しかし、もし私たちの世界を造った創造主が存在し、私たち人間を目的をもって造られたことを知ることができれば、私たちはその目的に沿って自分の人生を歩むことができるはずです。

すなわち、今の日本も、聖書で言われているユダヤと同じように「暗闇と死の陰」の地だと言えます。しかし、そのような場所にも、天から来た光であるキリストが訪れて、私たちを照らし導いてくださるのです。バプテスマのヨハネは、「いと高き方の預言者」として、ユダヤの人々に光であるキリストが来られることを伝えました。同じように、私たちも家庭や職場、日々の生活のさまざまな場面に遣わされており、その場所でイエス・キリストの光を伝えることができるのです。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:16)

すなわち、私たちも、バプテスマのヨハネと同じ、「いと高き方の預言者」として、神様の深い憐れみを現わすことができます。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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