父と御子のうちに生きる

聖書箇所:ヨハネ10:22〜38

説教者:高橋堅治

今回はヨハネの福音書10章から、「父と御子のうちに生きる」ことについて学びましょう。

前回学んだ9章では、イエス様が生まれつき目が見えなかった青年を癒しました。この青年が目が見えなかったのは、彼や彼の祖先の罪が原因ではなく、神のわざが彼の人生に現れるためだったのです。これは、私たちがよく考えがちな「因果応報」(悪いことが起きるのは、自分や誰かの罪のせい)とは異なります。それは、私たちの人生に、イエス・キリストの救いが起こるためなのです。

目が開かれた青年は、自分の体験を周りの人々に語ることで、彼の心の目も少しずつ開かれていきました。この出来事から学ぶことは、イエス様に出会ったことで、自分の生き方や心がどのように変えられたかを他の人々に伝えるたびに、イエス様をもっとよく知ることができるのです。

さて、今日は10章の22〜38節に注目し、「父と御子のうちに生きる」ことについて考えます。

1.父のうちにいる

ヨハネの福音書10章22〜29節をお読みください。「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(ヨハネ10:27〜28)

ヨハネの福音書には、祭りでの出来事がたくさん描かれています。この福音書は、イエス様の3年半の公生涯全体ではなく、特定の場面に焦点を当てています。そのため、いつ祭りが行われたかという時期が、理解する上で重要なポイントになります。

たとえば、3章にあるニコデモとの出会いは、イエス様が最初の「過越しの祭り」に行かれたときのことです。また、6章でイエス様が5,000人にパンを与える出来事は、2回目の「過越しの祭り」の時期で、これはイエス様が十字架にかかる1年前のことです。さらに、7章に出てくる「仮庵(かりいお)の祭り」は十字架の半年前の10月に行われており、そして「宮きよめの祭り」はその3ヶ月前、12月末に起こった出来事なのです。

このように、ヨハネの福音書ではイエス様の十字架を意識して、重要な場面が語られています。そして、次の11章からは、いよいよ十字架にかかる直前の「過越しの祭り」の場面に移ります。この福音書は全体で21章から成り立っているため、半分近くが「過越しの祭り」の出来事、つまり十字架に関わる場面について語っているのです。

宮きよめの祭りは「ハヌカ」とも呼ばれ、今でもお祝いされています。今年は12月25日から1月2日まで行われます。この祭りの起源は、紀元前170年頃の出来事にさかのぼります。

当時、シリアの王様アンティオコス・エピファネスがユダヤを支配していて、とても厳しいやり方で恐怖を与える政治をしていました。彼は、ユダヤ教の大切な「律法」を守ることを禁止したり、ユダヤの神殿にある祭壇に豚をささげるといった行為をしました。また、8万人以上ものユダヤ人を殺しました。

そんな中、ユダヤ人の指導者であるユダ・マカバイが反乱を起こし、独立をかけた戦争に勝利しました。そして、汚れてしまった神殿の祭壇をきれいにしたことを記念して、宮きよめの祭りが始まったのです。

また、ユダ・マカバイに関する有名な音楽作品として、ヘンデルが作った「ユダスマカベウス(見よ勇者は帰る)」という曲があります。この曲は、表彰式などでも流されることがあります。

宮きよめの祭りが行われていたのは冬の時期で、気温は最高で12℃、最低で5℃ほどでした。これは長野の11月くらいの気温で、寒い季節です。そのため、人々は寒さを避けて、風が通らない「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所に集まっていました。イエス様もこの場所でよく人々にお話をしていたようです。

イエス様が歩いているとき、ユダヤ人たちや当時の宗教指導者たちが集まってきて、イエス様に質問をしました。彼らは、「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」と、少し敵意をもって言いました。彼らは、イエス様が「私はキリストです」とはっきり言うように促したかったのです。

では、なぜ彼らはイエス様にそう言わせたかったのでしょうか?それは、もしイエス様が「私はキリストです」と言えば、彼をローマ帝国に「イエスはローマに反抗する者だ」と告発できるからです。

しかし、イエス様はこう答えました。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。」と。イエス様の言葉は、彼らが期待するような「キリスト」とは異なる存在であることを示していたのです。

それは、

  • 永遠のいのちを与える者:「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5:24)
  • 神の子:ヨハネ5:25
  • さばきを行う権威を持つ者:ヨハネ5:27
  • 聖書が証しする者:ヨハネ5:39
  • 父なる神が喜ぶことを行う者:ヨハネ8:29
  • 自由にする者:「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」(ヨハネ8:36)
  • 神に遣わされた者:ヨハネ8:42
  • 昔から存在する者(神に等しい者):「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」(ヨハネ8:58)

ユダヤ人たちは、キリストを「ユダ・マカバイ」のような力強い指導者として期待していました。しかし、彼らはイエス様の教えを理解せず、むしろイエス様を受け入れようとしなかったのです。そのため、イエス様は彼らについて「わたしの羊の群れに属していない」と言われたのです。これは、イエス様に従う「羊たち」が、イエス様の声を聞き分け、つまり「聞き従う」ことができるからです。

アメリカのラジオ牧師であるマギー博士がこんな話をされています。彼の知り合いのテキサスの牧場主が、2000匹の羊を飼っていました。あるとき、そのうちの2匹の子羊が群れからはぐれてしまったのです。群れから離れた子羊は自分では戻れず、オオカミが襲っても無力で、結局は危険にさらされてしまいます。羊にとって一番安全なことは、羊飼いのそばにいることです。そして羊たちはそれを知っている、ということなのです。

イエス様は、イエス様を信じる私たちのことを「わたしの羊」と呼んでいます。これは、私たちが羊のように弱く、迷いやすい存在だからです。しかし、私たちはイエス様の言葉を知っていて、その言葉に従おうとしています。そのため、私たちはイエス様の「羊」なのです。

そして、イエス様はご自身のことを「良い牧者(羊飼い)」とおっしゃっています。

「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)

この方は、私たちのためにいのちを捨てられたのです。その理由は、私たちが「彼ら(イエス様の羊)に永遠のいのちを与え」るためです。この永遠のいのちは、「永遠に、決して滅びることがな」ものであり、「わたし(イエス様)の手から奪い去りはしません」ものなのです。

さて、新改訳聖書2017版には、

「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:29)

と書かれています。ところが、新改訳聖書第三版では「父は、すべてにまさって偉大です」という趣旨の訳になっています。少し、意味が違います。

ギリシア語の素直な訳では、「父は偉大です」という訳になります。また、ジョン・ウェスレーも、父は天にも地にもまさる方であり、その御手から彼らを奪うことのできる者はひとりもいない、と語り、神の守護力が他のどんな存在にも勝っていることを強調しています。

パウロも、ローマの教会の人々にこのように語りかけ、神が全てを超えて力強く存在していることや、神の手から私たちを引き離せる者はいないことを信じるように教えました。

「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」(ローマ8:37)

「そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:39)

どんなものも、人々や悪魔、あるいは様々な厳しい状況でさえも、神様の愛から私たちを引き離すことはできません。父なる神様は私たちを守ってくださるため、その御腕(みうで)でしっかりと抱きしめてくださっているのです。

私たちは子羊のように、父なる神様の御腕の中で抱かれ、守られているのです。これこそが、神様の愛というものなのです。

2.私たちのうちにいる御子キリスト

ヨハネの福音書10章30〜38節をお読みください。「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)

イエス様が「わたしと父とは一つです」と言われたとき、ユダヤ人たちは大変驚き、怒りでいっぱいになりました。彼らは、イエス様が自分を神様と同じくらいの存在だと言っていると考え、それがとても冒涜的(ぼうとくてき)だと思ったのです。それで、イエス様を罰するために石を投げようとしました。

イエス様はこう言われました。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」

するとユダヤ人たちは答えました。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒涜のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」

ここで大切なことは、人間は神になることはできない、という考え方です。人間が神になろうとするのは、神を侮辱する行為であり、今も変わりません。

人類の歴史を振り返ると、権力を持った人が自分自身を神として崇めさせたことがあります。例えば、

  • エジプトのファラオ:神ホルスの化身とされ、生ける神とみなされた。
  • ローマ皇帝アウグストゥス:自らを神の息子「ディヴィ・フィリウス」と称し、人々に崇拝させた
  • アレクサンドロス王:神に等しい存在として、神殿に奉られた
  • 天皇:現人神とされ、昭和天皇は太平洋戦争で神として崇拝。敗戦後、人間宣言。

しかし、イエス様はこれらの人々とは違います。イエス様は神が人間の姿になってこの世界に生まれた方なのです。

「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ9:6)

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(ピリピ人への手紙2章6〜8節)

しかし、彼らはイエス様というお方のことを知らないので、信じることができませんでした。そこでイエス様は「たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい」と言われたのです。これは、イエス様が行ってきた数々の奇跡を見て、それが本当であると認めなさい、という意味でした。

「それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです」(ヨハネ10:38)

イエス様は、「父なる神様が私の中におられ、神様が私を通して働かれていることを信じなさい」と言っています。私たちは父なる神様を直接見ることはできませんが、イエス様の行いや言葉を通して、イエス様の中におられる父なる神様を知ることができるのです。

「わたしを見た人は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)

では、なぜ、「父がわたしにおられ、わたしも父にいること」を知る必要があるのでしょうか。

それは、イエス様が、父なる神、キリストとの愛の関係に私たちを招いているからです。

「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」(ヨハネ17:21)

「イエス様が一番」という歌を聞いたことはありますか?こんなふうに、私たちは「神様が一番で、その次に家族、そして仕事」というように優先順位を考えてきたかもしれません。そして「神様が一番」として日曜日に礼拝に行きますよね。でも、そのために家族や仕事を犠牲にしてしまったことはないでしょうか?また、「仕事が三番目だから」として、仕事に集中しているときに、イエス様のことを忘れてしまうことはありませんか?

「イエス様中心」という考え方があります。これは、私たちの生活のあらゆる場面で、イエス様がいつもその中心にいてくださるということです。家族と過ごすときも、仕事をしているときも、イエス様を意識している状態です。これはまさに「わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられ」るという状態です。

私はこれを「イエス様の仕事」と呼ぶようにしています。つまり、私たちが日々の生活の中で、父なる神様のお心を大切にし、イエス様が喜ばれる行いをすることが「イエス様の仕事」なのです。イエス様の仕事は、牧師の仕事や教会のためだけのものではなく、神様と人を愛することです。

年をとって体力的な仕事ができなくなったとしても、イエス様のように微笑みをもって人々に接することも、「イエス様の仕事」、立派な仕事なのです。イエス様に倣って生きることは、年齢に関係なくできる素晴らしい働きです。

あるクリスチャンの女性が、英語が話せなかったため、大きな病院で掃除の仕事をしており、毎日、病院の汚れた場所をきれいに掃除していました。

あるとき、彼女はふと思ったそうです。「自分の仕事は、汚れた場所をきれいにすることだけど、これはもしかしてイエス様がしてくださったことと似ているのではないか?」と。イエス様も、汚れた私たちの心を十字架で清めてくださった方です。弱い人や罪を持った人を受け入れ、素晴らしい人に変えてくださるのです。彼女は「私も汚れたところをきれいにすることで、イエス様と同じような働きをしているんだ」と感じたのです。

その病院では、毎年5人の優れた職員が表彰されていましたが、これまで選ばれたのは医師や看護師、事務長などの人たちでした。しかし、ある年に彼女はその「優秀な職員」の中でトップに選ばれたのです。

聖書を通して、イエス様が行ったみわざを学び、父なる神様の御心がイエス様によってどのように行われたのかを深く理解するのです。私たちの日常の生活の中で、イエス様が行ったように、イエス様の御言葉を実践していくのです。具体的には、イエス様のように、神と人を愛する働き(イエス様の仕事)を行っていくのです。

それによって、次の御言葉が成就するのです。

「あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。」(ヨハネの福音書17章23節)

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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