来週からクリスマス・アドベントが始まり、今年の通常のメッセージは今日が最後です。第四礼拝では、教会のビジョンについて話してきました。
聖書の言葉に基づいて行動を決めることを「神学する」と言います。これは専門的な学びだけでなく、日常生活で聖書の教えを考え、それに従って行動することです。
第四礼拝で学んだことを生かして、神様の御心に従う教会づくりを進めていきましょう!
これまで学んできたこと
5月 いのちを豊かに得る(神を愛する)
聖書は、私たちがどう生きるべきかを教える「人間の取扱説明書」です。その教えは次の2つにまとめられます。
(1)「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして神を愛しなさい」(マタイ22:37)
(2)「隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:39)
「神を愛する」とは、感情を込め(心)、意志をもって行動し(いのち)、聖書を深く考える(知性)ことです。好きな人を思う気持ちと同じように、神様を心を込めて愛するのです。
6月 いのちを豊かに得る(自分自身を愛する)
自分自身を愛するとは、神様の視点で自分の価値を認めることです。白雪姫の魔女が鏡の答えで自分の価値を測ったように、人は他者の評価に影響されがちです。聖書には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ書43章4節)とあります。神様が私たちを大切な存在と見てくださっていることを知り、自分を受け入れ、愛するのです。
7月 いのちを豊かに得る(隣人を愛する)
「善きサマリア人のたとえ」から、隣人とは、自分から愛を持って関係を築こうとする相手のことだと学びました。そして、イエス様はまさに、私たちの隣人となってくださったお方なのです。
8月 イエスの価値観に生きる
私たちは、神様との交わりの中で生きることで、自分の罪が絶えずきよめられるということを学びました。また、神様は私たちに、兄弟姉妹に対して関心を持つように求めておられるのです。そして、この世において、私たちは「地の塩」となり、「世の光」として生きるようにと求められていることも学びました。
9月 神との関係
エペソ人への手紙1章5節から、私たちが神様に「養子」として迎えられ、神様を「おとうさん」と呼べるようになりました。教会とは建物ではなく、イエスを信じる人々の集まりです。日曜日だけでなく、日々の生活の場が私たちにとって教会となるのです。
10月 喜びの実を結実する聖霊
私たちは、兄弟姉妹の信仰について批判しがちです。しかし、信仰の考え方が自分と違っていても、その人を「キリストが代わりに死んでくださった大切な存在」として受け入れることです。また、私たちが教会で「お客様」でいるのではなく、キリストの弟子として生きる必要があります。そうすれば、聖霊によって少しずつ成長し、愛や喜び、平安といった「聖霊の実」を身に着けていくことできます。
今日は「神が置かれた祝福とのろい」というテーマでお話しします。このテーマを通して、私たちに与えられている聖書の言葉がどれほど大切なものか、一緒に学んでいきましょう。
1.神のみこころを行う
前回、ソロモン王について話したことを覚えていますか?ソロモン王は、紀元前9世紀にユダヤを治めた王で、とても裕福で多くの功績を残した人物です。
ソロモン王は毎年3000億円相当の金を得ており、食事に使う器はすべて金で作られていました。彼の財産はそれだけではなく、多くの宝物も持っていたのです。また、彼やその家族、家来たちが一日で消費する食材は、小麦粉だけでも食パン約5万個分に相当し、牛30頭や羊100匹も含まれていました。さらに、ソロモン王には700人の妻と300人の側室がいました。彼の大きな功績としては、神殿を建てたり、町々に城壁を作ったりしたことが挙げられます。また、他国と貿易を行い、その結果、多くの富を得て国を豊かにしました。それだけではありません。ソロモン王は、聖書の中の詩篇の一部や箴言(しんげん)、伝道者の書、雅歌(がか)などを書いた人物でもあります。このように、多方面で才能を発揮した偉大な王だったのです。
ところが、これほどまでのソロモンが伝道者の書で語った言葉は、
「確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ」(伝道者の書2:17)
でした。
彼は、自分の人生を振り返ったときに、「すべては空しく、風を追うようなものだ」と言いました。つまり、何をしても満足できなかったのです。
大晦日(12月31日)の夜になると、お寺で「除夜の鐘」が鳴らされますね。この鐘は全部で108回鳴らされます。この108回は、「煩悩(ぼんのう)」の数だと言われています。煩悩とは「欲」「怒り」「愚痴」の心だといいます。この中でも特に恐ろしいとされるのが「欲」です。
日本仏教学院の「仏教ウェブ入門講座」によれば(同講座より要約)、仏教では、欲を「五欲(ごよく)」と言い、5つの種類があるといいます。
食欲:食べたい、飲みたいという気持ちです。
財欲:お金が欲しい、物が欲しいという気持ちです。
色欲:恋愛や人への魅力に関する気持ちです。
名誉欲:人から褒められたり、認められたいという気持ちです。
睡眠欲:眠りたい、怠けたいという気持ちです。
欲が悪いと言われる理由について、次の3つが挙げられています。
(1)自己中心的である
欲は、他人よりも自分を優先して考えるため、自己中心的になりやすいのです。
(2)満足しない
欲には限りがなく、どれだけ満たされても「これで十分」と思えないのです。
(3)抑えたり、なくすことが難しい(煩悩具足)
欲は人の心に深く根付いていて、簡単に抑えたり取り除いたりすることができないのです。
ソロモン王は、多くの富や功績を手に入れ、多くの人々から栄誉を受けました。しかし、彼自身はそれがとても「空しいもの」だと感じていました。欲しいものを求めて手に入れたとしても、どれだけ多くを持っていても、現状に満足できない自分に気づいていたのだと思います。
科学の視点から「欲」について考えてみましょう。
みなさんは「ドーパミン」という物質を聞いたことがありますか?
ドーパミンとは、人間の脳内で作られるホルモンのひとつです。このホルモンは、脳の「報酬系」という部分で働き、何かを達成したり、経験しようとしたときに分泌されます。
ドーパミンは、生きるためにとても大事な役割を持っています。例えば、ごはんを食べることや目標を達成することなど、生きるために必要な行動を起こす際に、やる気を起こしてくれます。もしドーパミンが足りなくなると、気力がなくなってしまいます。その結果、うつ病のような病気を引き起こすことがあります。ドーパミンは「生きたい」という意欲を支える大切な物質です。
このドーパミンは、私たちが「欲しい!」「やりたい!」と思うときにたくさん分泌されます。ドーパミンが分泌されると、私たちは生き生きとした状態になります。しかし、欲しいものが手に入ったり、やりたいことが終わると、ドーパミンは減少してしまうのです。
たとえば、「お金をたくさん稼ぎたい!」と思うとします。まずは10万円を稼ぐことにします。そのために、一生懸命働いたり、投資をしたりしますよね。このとき、私たちの脳の中では「ドーパミン」が分泌されて、やる気が出て、楽しい気持ちになります。
でも、いざ10万円を手に入れると、このドーパミンが減って、目標を達成したにも関わらず「思ったほど、嬉しくないな」と感じるのです。そこで、今度はもっと大きな目標、例えば「今度は100万円を稼ぐぞ!」と思うようになるのです。そして「もっと刺激が欲しい」と感じ、どんどん自分の欲に引っ張られ、抑えられなくなったりします。過度な状態を「ドーパミン中毒」とか、「依存症」と呼ばれます。
ここまで話すと、欲は悪いもののように感じますが、神様は私たち人間に「欲」を持つ仕組み、ドーパミンを最初から備えてくださったはずです。ですから、欲自体は悪いものではないはずです。
ヨハネの手紙第一 2章15~17節には、こんなふうに書かれています。
「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。……世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」(Ⅰヨハネ2:15、17)
ヨハネは、「世も世にあるものも、愛してはいけません」と言っています。この「世」とは何のことを言っているのでしょうか?
ギリシア語では「世」を「コスモス」と言い、「全宇宙」を指します。一方で、「神様から離れた世界」のことを指すこともあります。ここの「世」とは、神様から離れた世界を示しています。
聖書のⅠヨハネ5:19ではこう書かれています。
「世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。」
神様から離れてしまった世界は、悪い者、つまり悪魔の支配下にある世界だとされています。すべての欲望が悪いわけではありませんが、悪魔の支配下にある世界から生まれる欲望が問題だと言われています。具体的には、「肉の欲」「目の欲」「暮らし向きの自慢」といったものが悪いとされているのです。
良い欲とは何でしょうか。それは、「神のみこころを行いたい」という欲のことです。この欲は、健康的で正しい欲なのです。なぜなら、「世と世の欲は過ぎ去る」からです。「過ぎ去る」というのは、消えて無くなり続けるという意味です。
例えば、この世の欲には限りがありません。欲が一つ満たされても、次から次へと新しい欲が生まれます。それに比べて、「神のみこころを行う」という欲は特別です。この欲は、「永遠に生き続ける」のです。「生き続ける」という言葉は、ギリシア語で「メノ」といい、意味としては「留まる」「存続する」「変わらずに続く」ということです。
つまり、この世の欲だけを追い求めても、最後には空しい人生が残るだけです。それはとても残念なことではないでしょうか。逆に、永遠に存在し続ける意味のある欲を持ちたいと思いませんか?それが、「神のみこころを行う」という欲なのです。
2.祝福とのろいを置く
「見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。」(申命記11:26)
申命記11章26〜28節をお読みください。祝福とは主の命令に聞き従った場合であり、のろいとは聞き従わず、ほかの神々に従って行った場合です。
申命記は、旧約聖書のモーセ五書のひとつで、ユダヤ人が約束の地カナンに入る直前に書かれたものです。エジプトを脱出した後、荒野を38年間さまよったユダヤ人たちは世代交代を迎えました。そこでモーセは新しい世代に神の律法を教え直します。
内容の中心は、「神の命令に従えば祝福を受けるが、従わなければのろいが降りかかる」ということです。モーセが民に掟を教え、神との約束を確認した重要な書物です。
神様の祝福は、神様がこの全宇宙を創造されたときに、人類に与えられた祝福です。すなわち、
「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。』」(創世記1:28)
この御言葉は「文化命令」と呼ばれます。神様が人間を作った目的のひとつは、人類が地球で生き生きと生活し、発展していくことでした。この命令によって人間は意欲を持ち、努力して進歩するようになったのです。
神様が与えた「祝福」は、人間が幸せに生きるための助けです。そして、先ほどの「ドーパミン」も、この祝福に関係しているかもしれませんね。
でも、最初に造られた人間、アダムとエバは、神様の命令に背き、のろわれてしまいました。
「大地は、あなたのゆえにのろわれる。」(創世記3:17)
これは、神様の祝福が失われた状態、のろわれた状態になってしまったのです。
しかし、神様は信仰深いアブラハムという人物に祝福を約束されました。アブラハムの子孫であるユダヤ人は、神様の命令に従うことで、祝福を受ける特別な民とされました。
ユダヤ人でない私たちはどうなのでしょうか。
「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:3)
私たちは呪われた者でした。
「あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」(エペソ2:5)
でも、イエス・キリストのおかげで、私たちも神様から祝福を受けられる人になったのです。
では、私たちにあるのは、祝福だけなのでしょうか?のろいは取り去られたのでしょうか?
いいえ、聖書にはこう書かれています。ユダヤ人たちと同じように、神様は私たちの前にも「祝福」と「のろい」の両方を置かれたのです。そして、それを選ぶことを私たちに託されています。
黙示録に次のようにあります。
黙示録22章18〜19節には、この書のことばにつけ加える者、取り除く者への警告が記されています。
この御言葉について、私は、以前は異端と呼ばれる宗教への警告だと考えておりました。確かに、御言葉に付け加えたり、取り除いたりする者はのろわれることが書かれています。しかし、私たちは「この書の預言のことばを聞くすべての者」とは、異端ではなく、クリスチャンに向けられて書かれたものであることを理解する必要があります。
これは、昔、神様がモーセを通してユダヤ人に語られた状況に似ています。約束の地カナンに入ろうとするユダヤ人たちの前に、神様は祝福とのろいを示されました。同じように、天国に入る私たちにも、神様は選択肢として、祝福とのろいを与えておられるのです。
このことから、私たちは、神様の御言葉を真剣に受け止め、自分自身の選択がどのような結果をもたらすかを考える必要があります。
「もし、だれかがこれにつけ加えるなら」という言葉についてですが、私たちが聖書の言葉を読んでいて、自分にとって都合が悪いからといって、新しい考えを付け加えたりすることがあってはいけない、という意味です。また、「だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら」という部分も、同じように、都合が悪いからといって、聖書の言葉を無視したり、受け入れなかったりしてはいけない、と言っています。
なぜこのようにしてはいけないのかというと、聖書のみことばは「神のみこころ」を伝えるものだからです。神様は私たちを祝福するために、与えて下さったものだからです。だから、聖書のみことばを大変だから、厳しいからと言って、無視したり、受け入れないならば、せっかくの神様の祝福を受けることが出来なくなってしまうのです。
私は、先日、ある牧師先生から、「すべてのことにおいて感謝する」ことを教えて頂きました。
「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:18)
この言葉は、普段なら受け入れられる言葉かもしれません。でも、「すべてのことに」となると、受け入れるのが難しいと感じることがあります。たとえば、大切な人を失ったときや、失敗してしまったとき、私たちが感謝する気持ちを持つのはとても難しいのです。
でも、先生は「どんな状況でも感謝する祈りをしなさい」と教えました。それは、今の状況自体を喜ぶということではありません。むしろ、神様が私たちを愛していて、今の厳しい状況も神様の計画の一部だと信じることだというのです。それは「キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること」だからです。
もし、私たちが聖書のみ言葉に従うなら、私たちは神様から祝福をいただけるはずなのです。
なぜなら、
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
からです。
今日は、私たちの身体には欲望を抱く機能があることを知りました。聖書によれば、この欲望自体は悪いものではありません。「神のみこころを行いたい」という欲望は、他の欲望のように一時的に消えるものではなく、永遠に続く良いものであります。
この「神のみこころ」は、聖書の御言葉を通して私たちに与えられています。その御言葉のひとつひとつを私たちが信じ受け入れるか、それとも無視するか、私たちは選択することが出来ます。もし、信じ受け入れるならば、私たちは御言葉による祝福を受けることができるのです。御言葉を受け止め、神のみこころを行いたいと願い、それを信じ従うならば、それは永遠に続くものとして私たちを祝福し、喜びを与えて下さるはずです。
主の祝福を祈ります。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。