先月、私たちはヨハネの福音書8章から、イエス様がどのようにして人々をさばくかについて学びました。これは、姦淫の場で捕まった女性を使って、パリサイ人たちがイエス様をわなにはめようとした出来事です。彼らは、イエス様に難しい選択をさせようとしました。もし、イエス様が「女性を赦しなさい」と言えば、モーセの律法を無視していると非難できますし、逆に「女性を石で打ち殺しなさい」と言えば、冷酷で思いやりのない人物だと責めることができるからです。
パリサイ人たちはイエス様に「あなたは何と言われますか」と尋ねました。そのとき、イエス様の答えはこうでした。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」。これを聞いた人々は、年長者たちから順にその場を立ち去り、最終的には誰も石を投げる者はいなくなりました。イエス様に彼女を告発することはできなかったのです。
最後に残ったのは、イエス様とその女性だけでした。イエス様は「わたしもあなたにさばきを下さない」と言われました。イエス様は唯一、彼女をさばく権利があるお方でしたが、彼女を赦しました。それは、彼女の罪のためにイエス様ご自身が十字架でさばかれることになっていたからです。
イエス様は、他の人をさばく権利を私たちから取り上げました。それは、イエス様ご自身が私たちの代わりに裁かれたからです。私たちにできることは、人を赦すことだけです。だからこそ、主の祈りをする前に、自分自身に「赦していない人がいるかどうか」を問いかけます。もし赦していない人がいるなら、その人を赦してから主の祈りをするべきです。人を赦せないままで主の祈りをすることはできないのです。
今日は、ヨハネの福音書9章を通して「見える者になる」ということを学んでいきたいと思います。
1.神のわざが現れるため
ヨハネの福音書9章1〜5節をお読みください。弟子たちが「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」と尋ねたのに対し、イエス様は「この人に神のわざが現れるためです。」と答えられました(ヨハネ9:2-3)。
この物語は、イエス様の十字架に架けられる約5か月前、11月ごろに起こった出来事だと言われています。仮庵の祭り(今年は10月16日から23日)と宮きよめの祭り(ハヌカ、今年は12月26日)という二つのユダヤ教の祭りの間にありました。この時期、イエス様の多くの弟子たちは去り、またパリサイ人たちから命を狙われる状況にありました。
ある日、イエス様が弟子たちとエルサレムの街を歩いていると、通りで物乞いをしている目の見えない人と出会いました。弟子たちはその人を見て、イエス様に質問しました。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」と。
当時の人々は、生まれつき目が見えないことなどの障害を、誰かの罪による罰だと考えていました。しかし、誰の罪かという点で疑問を持っていたのです。弟子たちは、その人自身が生まれる前に犯した罪か、それとも両親や先祖の罪の結果であるのかを知りたかったのです。
また、この時代のユダヤ人の中には、魂が別の肉体に宿る、仏教の「輪廻転生」のような考え方を信じていた人もいたとされています。そのため、この目が見えない人の状態が、生まれる前の罪や、両親や先祖の罪の影響ではないかと考えたのです。
あなたの神、【主】であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
出エジプト記20章5節には、神様が「ねたみの神」であり、神様を憎む人には、その罪が子や孫、さらにその先の世代にまで影響する、と書かれています。この言葉だけを読むと、「親や先祖の罪のせいで、子どもたちも罰を受ける」という意味に感じるかもしれません。でも、この言葉は、親の悪い行いがそのまま子どもや孫たちに悪い影響を与えることを表しているのです。
19世紀のアメリカの社会学者リチャード・ルイス・ダグデールは、犯罪者が犯罪を犯す理由は「遺伝」ではなく、「生活環境」によるものだと言っています。つまり、親や先祖の罪がそのまま子どもたちに伝わって呪われるわけではないということです。
実際、聖書にはエゼキエル書18章20節で、「罪を犯したたましいが死ぬのであり、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。」と書かれています。子どもが親の罪を背負うことはなく、親も子どもの罪を背負うことはありません。
また、イエス様も、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」と答えています。つまり、その人の盲目は「罰」ではなく、「神のわざが現れるため」だということです。
仏教には「因果応報」という言葉があります。これは「原因と結果の法則」で、「良いことをすれば良い結果が生まれ、悪いことをすれば悪い結果が生まれる」という考え方です。昔の人々は、どうしてこの世には苦しみや悲しみがあるのかを考えたときに、この因果応報という考えにたどりつきました。そして「今生きているこの世の出来事は、前世での行いの結果だ」という考え方も含まれています。仏教では、この現世(今の世界)と来世(次の世界)の因果応報のつながりを断ち切るために「悟り」が必要だとされています。
一方で、イエス様は因果応報とは違うことを教えています。「神のわざが現れるため」と言っているのです。では、「神のわざ」とは何でしょうか?
イエス様は「神のわざ」について、こう言っています。
ヨハ 6:29 イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」
ここで言われているのは、「神が遣わした者」、つまりイエス・キリストを信じることが「神のわざ」だということです。
たとえば、生まれつき目が見えない人がいたとします。その人が目が見えない理由は、彼がイエス・キリストと出会い、イエス・キリストを信じるためである、とイエス様は教えています。
聖書には「イエス・キリストを信じて天国に入ることは、たとえ体の一部を失っても、体全体がゲヘナ(地獄)に入るよりも良いことだ」と書かれています。
マタイ5:29 もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。
5:30 もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。
誰も障害を持って生まれたいと願う人はいません。また、不慮の事故や病気に遭いたいと思う人もおりません。しかし、私たちの人生ではそれがあります。そんなとき、神様の罰なのだと思うのではなく、あなたに「神のわざが現れるため」だとイエス様は言われます。
賛美歌作家ファニークロスビーは、生後6週間のとき、風邪により失明したと言われています。彼女は後に次のように言っています。
「私が一生盲目であることは、神の恵み深い摂理の意図によるものだったようで、私はその恩恵に感謝しています。もし明日、地上で完全な視力が得られるとしたら、私はそれを受け入れないでしょう。もし私が自分の周りの美しく興味深いものに気を取られていたら、神を讃える賛美歌を歌わなかったかもしれません。」
あなたがイエス様に出会ったときを思い出してください。たとえ目が見えないといった障害がなかったとしても、あなたの中には弱さや、他の人に見せたくない部分があったかもしれません。でも、神様はその弱さを通して、イエス・キリストの信仰へと導いてくださったのではないでしょうか。それは、あなたにとって神様のわざが現れたときだったのかもしれません。
2.私がその人です
ヨハネの福音書9章6〜11節をお読みください。イエス様が泥を彼の目に塗って「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われ、彼が行って洗うと見えるようになりました。人々が「これは座って物乞いをしていた人ではないか」と言うなか、当人は「私がその人です」と言いました(ヨハネ9:7-9)。
イエス様が目が見えない人を癒すために行った奇跡について、いくつかの聖書の箇所に記されています。それぞれの奇跡では、イエス様が異なる方法で目を癒されたことがわかります。
今日の聖書個所では、イエス様は目が見えない人に近づき、地面に唾をして泥を作り、それを彼の目に塗りました。そして、「シロアムの池で洗いなさい」と言われました。
また、マタイの福音書(9:29)では、イエス様が目が見えない二人の目に触れて、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われ、彼らの目が癒された場面があります。
マタ 9:29 そこでイエスは彼ら(二人)の目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。
マルコの福音書(8:23)では、
マル 8:23 イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。
マル 8:25 それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。
さらに、マルコ10:52では、
マルコ10:52 そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。
これらの場面からわかるのは、イエス様の奇跡は時に触れることで、時に唾をつけることで、また時に言葉だけで行われたということです。どのような方法であれ、イエス様は目の見えない人々を癒すことができました。しかし、イエス様の奇跡の背後には、相手の信仰が決め手でした。相手の信仰を引き出すために、イエス様は様々な方法を取られたと考えてもよいと思います。
さらに、目の癒しに「土」が用いられたことについてですが、これは創世記3:19の「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」という言葉と関連しています。人間が土から創造されたため、イエス様が盲目の人を癒す際に土を使ったという解釈があります。
まず、彼は自分から「目が見えるようになりたい」と願ったわけではありませんでした。しかし、イエス様の奇跡には、相手がイエス様を信じる心が必要なのです。イエス様は、信じることに基づいた行動を求めます。だから、イエス様は「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と彼に言ったのです。
もし、彼がイエス様の言うことを守らなかったらどうなったでしょうか? たとえば、「シロアムの池は遠いから、自宅で水を使って洗おう」と思ったら、きっと目は治らなかったでしょう。彼がイエス様の言葉に従って、その通りに行ったからこそ、目が治ったのです。「そこで、彼は行って洗った。」この言葉は短いですが、彼はイエス様の言葉を信じて、そのまま行動したのです。
彼が帰ってきたとき、周りの人々は驚いて「これは座って物乞いをしていた人ではないか」と言いました。でも、なかには「違う。似ているだけだ」と言う人もいました。そこで、彼は自分で「私がその人です」とはっきり言いました。
驚いた人々はすぐに「おまえの目はどのようにして開いたのか」と聞きました。彼は、自分が経験したことをそのまま話しました。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」 彼はただ、事実をそのまま伝えただけでした。
イエス・キリストに出会い、その生き方が変わった人に、人々は深い関心を持つのです。
教会の第二日曜日の礼拝では、「恵みの分かち合い」の時間があります。この時間は、私たちが日常生活で経験した神様の恵みや信仰に関する出来事をみんなと共有するためのものです。でも、時々、私たちは話すことをためらってしまうことがありますよね。しかし、聖書に登場する目が見えるようになった人のように、神様がしてくださったことをそのまま素直に話せばいいのです。そうすることで、話す人も聞く人も、信仰がさらに成長していきます。だから、神様に感謝し、積極的に証しをしていきましょう。
Ⅰコリ14:26 それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。
3.目の見えない者が見えるようになる
ヨハネの福音書9章35〜39節をお読みください。イエス様は追い出された彼を見つけ出し、「あなたは人の子を信じますか。」と言われ、彼は「主よ、信じます」と言ってイエス様を礼拝しました(ヨハネ9:35, 38)。
彼の証しが広がり、人々の間に大きな反響を呼びました。
9:13 人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
9:14 イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。
このため、イエス様を敵視していたパリサイ人たちが、安息日に治癒が行われたことを問題視し、調査を始めました。まず、パリサイ人たちは彼に「どうやって目が見えるようになったのか」と尋ねます。彼は「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えました。
この答えを聞いたパリサイ人たちの間で、イエス様が神様から来た者かどうか意見が分かれました。そして、パリサイ人たちはその男に「おまえは、あの人についてどう思うか」と尋ねました。彼は「あの方は預言者です」と答えました。
しかし、パリサイ人たちはイエス様が奇跡を行えるはずがないと考え、もともと目が見えていたのではないかと疑いました。それで彼の両親を呼び出し、「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか」と尋ねました。
両親は「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。」と答えました。実は、両親はイエス様が彼を癒やしたと話すと、信じた者が会堂から追放されることを恐れていたため、イエス様が彼を癒やしたと言わなかったのです。
パリサイ人たちは、「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」と言いました。これは、正直に答えろという意味です。しかし、盲目であったその人はこう答えました。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」彼は、盲目だったのが見えるようになったという事実を話したのです。
パリサイ人たちは再び、「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか」と聞きました。彼らは、イエス様が目を開けたということを信じられなかったのです。目が見えるようになったその人は、なぜ同じことを何度も聞くのか不満に思い、こう言って少し皮肉を交えました。「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
その人は、さらに「あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」と言いました。「神から出ておられる」、つまりイエス様は神様から遣わされた者だと認めるようになったのです。
こうして彼は、何度も質問されているうちに、イエス様に対する信仰がだんだんはっきりしてきました。
イエス様について、まず「イエスという方」として知り、次に「預言者」として理解し、そして「彼は『あの方の弟子』になった」と続き、最後には「神から出ておられる」として信じるようになったのです。自分の体験を振り返るたびに、イエス様が自分にとってどんな存在かがだんだんとわかるようになっていきます。イエス様とはどんな方か、自分に問いかけて考えるのです。
その結果、彼は追放されてしまいました。でも、イエス様のために追放されたことで、イエス様が彼を探し出してくれたのです。彼の信仰が深まっていく中で、イエス様が再び彼の前に現れたのです。
イエス様は彼に「あなたは人の子を信じますか。」と尋ねました。「人の子」という言葉は、ギリシャ語やヘブライ語で「全ての人間性を持つ人」という意味があります。これはキリスト(イエス様)を指しています。ダニエル書7章13節にも、こうあります。
7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。
彼はイエス様に「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」と助けを求めました。私たちがイエス様をキリストとして信じようとするとき、この言葉が役立ちます。イエス様は「あなたと話しているのが、その人です」と教えてくださるのです。
彼の信仰は十分に整っていましたから、彼は「主よ、信じます」とすぐに応答できたのです。
ロマ 10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
彼は心でイエス様を信じて、口で「イエスを主」と告白しました。私たちも、もしイエス様がキリストであり、私たちの罪のために十字架にかかり、愛してくださるお方だと信じるなら、イエス様に「主よ、信じます」と告白すれば、聖書が約束している通りに救われるのです。
彼は生まれつき目が見えない盲人でしたが、イエス様によって目が開かれ、その後、自分の信仰を人々の中で証しし、彼の信仰はどんどんと確信に近づきました。そして、イエス様の前で「主よ、信じます」と告白したのです。彼は最初は盲目で物乞いをしていて、神様の存在を理解できなかったかもしれません。しかし、彼の目が見えなかったことで、イエス・キリストに出会い、彼を信じ、真の神様を見出すことができました。これが神のわざでした。
一方で、パリサイ人たちはイエス様の奇跡を目の前で見ても、その事実を素直に受け入れることができず、信じませんでした。彼らは目が見えていても、心の目が盲目だったため、神様のわざが彼らには行われず、救われることができませんでした。その結果、罪が彼らの中に残ってしまったのです。また、彼の家族もパリサイ人を恐れて、自分たちは関係ないふりをしました。彼らは神様よりも人を恐れたのです。彼らは、目は開くことができても、恐れにより、目を閉じてしまったのです。
私たちも、生まれつきの弱さや欠点があるかもしれませんが、それは神様のわざ、イエス・キリストを信じ、救われるためなのです。イエス・キリストに出会って、この世界の真実を見極めることができるようになりました。創造主である神が生きて支配されておられること、イエス・キリストによる神様の愛が私たちのうちにあること、聖霊による平和と喜びがあることを、目が開かれて見えるようになりました。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。