1.神を父と呼ぶ
エペソ人への手紙1章3〜6節をお読みください。要となる一句は次のとおりです。
「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:5)
前回の学びでは、神様との関係、兄弟姉妹(教会)との関係、そしてこの世との関係について学びましたね。今回はそのおさらいをしましょう。
まず、神様との関係についてです。ヨハネの第一の手紙には、次のように書かれています。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)
私たちが、神様との互いの交わりがあるなら、私たちの罪を、神様はイエス様の血によって、きよめてくださるというのです。私たちは、神様と祈る中で、自分自身の罪を告白し赦していただくことが出来ます。
また、兄弟姉妹との関係では、兄弟姉妹に対して関心を持つことを示されました。創世記で、神様はカインに対して、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」(4:9) と尋ねられました。カインは、「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」と答えました。マザーテレサが言うように無関心とは愛のないことだとすれば、私たちにも問われることなのです。この一か月の間、どれ程、あなたは、兄弟姉妹に関心を頂くことができたでしょうか。
私たちが住むこの世界との関係では、神様は、私たちが地の塩、世の光となることを望んでおられます。それは、私たちの行いを通して、人々が、この世界に創造主なる神様がおられること、そしてその神様が愛しておられることを知るためです。
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:16)
そのための方法は、キリスト教を広めることではなく、イエス様のように愛を持って接することだと学びました。さて、今日は、私たちが神様を「天のお父さん」と呼ぶことができる理由について学びます。つまり、天地を創造し、すべてを支配されている神様に対して、どうして私たちが「お父さん」と呼べるのかを考えましょう。これは、神様と私たちの関係が「父と子」のような関係だからです。
「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ1:3)
神様は、イエス・キリストを通して、天にあるすべての霊的な祝福で私たちを祝福してくださると書かれています。では、「天上の霊的祝福」とは何でしょうか?それは、神様が私たちに与えようとしている良いもののことです。それは「神の国」と「神の義」です。
「神の国」とは天国のことです。天国については、死んだ後に行く場所だと思うこともありますが、実は天国は今この瞬間でも、私たちが体験できるものです。それは、聖霊を通して感じられる「義」と「平和」、そして「喜び」なのです。
「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(ローマ14:17)
神の義というのは、私たちの罪が赦されて、神様から正しい人として見られることです。私たちの心は、何か悪いことをしてしまうと、良心が痛んで自分を責めることがあります。その痛みが私たちを苦しめて、赦されるまで気持ちが楽になりません。神様は、私たちをそのように作られたのです。だからこそ、神様に赦してもらう必要があるのです。
イエス・キリストが十字架にかかったのは自分のためだと信じるとき、神様は私たちの罪をイエス・キリストの十字架のおかげで赦してくださると約束してくださったのです。この罪の赦しによって、神様は私たちを正しい人としてくださり、神の義を与えてくださるのです。
マタイの福音書には、
「これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。」(マタイ6:32)
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)
と書かれています。天上の霊的祝福を求めることは、神様が私たちに霊的な祝福だけでなく、私たちに必要なすべての物質的な祝福も与えてくださるという約束を信じることです。
では、なぜ神様はそんなにたくさんの霊的な祝福を与えてくださるのでしょうか。それは、神様が「お父さん」であり、私たちを大切に思ってくださるからです。
「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」(マタイ7:11)
イエス様はこう言われました。「父親は、自分の子どもに良いものを与えるものです。それは、子どもを大切に思っているからです。ですから、もし神様が私たちのお父さんであるならば、神様が良いものを与えてくださるのは当然だ」ということです。
「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」(エペソ1:4)
この霊的な祝福は、私たちが「聖なる者」となり、「傷のない者」になることを目的としています。「聖なる者」というのは、清いとか聖別されたという意味もありますが、ここでは「神様にふさわしい者」または「神様のもの」という意味で考える方が分かりやすいです。なぜなら、必ずしも貧しく清い生活や、高潔な行いだけが「聖なる者」を指すわけではないからです。「傷のない者」というのは、「非難されるところがない」という意味です。私たちが罪によって非難されることはありますが、罪が赦されれば非難されることはありません。
この目的、つまり私たちが聖なる者となり、傷のない者となることは、神様が「ご自分の子にしよう」と決められたことから来ています。これは神様のご意志であり、ひとり子イエス・キリストの十字架での死と復活を通して、私たちは罪によって非難される者ではなくなり、神様のものとなったのです。これは、神様が私たちを養子として迎え入れたことを意味します。
当時のユダヤ社会では、養子縁組という習慣はほとんどなかったようですが、ローマ人の習慣には養子縁組がありました。ローマ人は、優秀な子どもに大切な財産を相続させるために養子を迎えることがありました。養子になると、実の子どもと同じように、相続権が与えられます。例えば、ローマ皇帝ユリウスは、解放奴隷の子どもであったオクタウィウスを養子にしました。このオクタウィウスが後の皇帝アウグストゥスです。
このように、養子になれば子どもとしての身分が与えられ、すべての相続権も得ることができます。同じように、私たちもキリストのおかげで、創造主である神様の養子となり、創造主を「お父さん」と呼ぶことができるのです。
ある宣教師は、日本に来ている方で、父なる神様を親しみを込めて「お父さん」と呼んでいます。その方は「お父さん」に言われて、大きな災害があった被災地に行き、被災者を助ける活動を行いました。
その方は、自分の実のお父さんのことを「ちっちゃいお父さん」と呼んでいます。ちっちゃいお父さんもクリスチャンで、被災地に向かうときに、ある人が「ちっちゃいお父さんは何て言っているの?」と尋ねたところ、「ちっちゃいお父さんは、お父さんが言われたから、しょうがないと思っているよ」と答えたそうです。
その方は、父なる神様との関係を、実際のお父さんと子どもの関係のような愛に満ちたものだと理解しています。そして、その愛するお父さんに従うことを大切にしています。
私たちも父なる神様にとって、大切な息子や娘なのです。このことを聞いてから、私は「天のお父様」と呼ぶようになりました。まだ「天のお父さん」とは言えませんが、できるだけ親しみを込めて、父親として神様に接したいと考えています。
もし、私たちが本当に神様の子どもとされたことを理解するなら、父なる神様を「天のお父さん」と親しく話しかけることができるようになりたいものです。そして、神様の声を聞きながら、自分がどのように生きていくべきかを判断したいと願います。
2.神の家族として歩む
エペソ人への手紙2章13〜19節をお読みください。要となる一句は次のとおりです。
「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)
パウロは、エペソ人への手紙の第2章で、イエス・キリストの十字架によって私たちが救われ、神の子どもとして新しい関係に入ったことを教えています。もし私たちが神の息子や娘とされたなら、私たち同士の関係は、家族のようなものになります。
エペソ人への手紙2章13節から学びましょう。
「しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」(エペソ2:13)
パウロが「かつては遠く離れていたあなたがた」と言っているのは、エペソの教会の人々のことを指しています。ここで、エペソ人への手紙について少し説明します。
エペソ人への手紙は、紀元60年頃にパウロがローマの牢屋にいるときに、エペソの教会に宛てて書いた手紙だと考えられています。つまり、これは使徒の働きの後の出来事です。エペソの教会には、ユダヤ人以外の人々、つまり異邦人が集まっていました。
当時、ユダヤ人クリスチャンたちは「割礼を受けていない異邦人は、信仰だけでは救われない。モーセの律法を守り、ユダヤ人のように生活しなければ、神様に受け入れられることはない」と言っていました。また、異邦人に対して福音を伝えていたパウロのことも批判していました。これにより、エペソの教会は動揺し、分裂の危機に直面していました。
そのため、パウロはこの問題を解決するために、エペソ人への手紙を書きました。エペソの人々は異邦人と呼ばれ、かつては創造主である神様を知らず、神様から離れて生きていました。だからパウロは「かつては遠く離れていたあなたがた」と言ったのです。しかし、彼は続けて「今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者になった」とも述べています。それは、キリストが彼らの罪を贖い、彼らが神様の子どもとして迎えられたからです。
「キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。」というように、パウロは、「ユダヤ人と異邦人(ユダヤ人ではない人たち)」という二つのグループが、一つの存在、つまり教会にまとめられたと教えています。これは、イエス様が十字架で自らを犠牲にしたことで、ユダヤ人と異邦人の間にあった隔たりの壁を壊したということです。
また、ユダヤの神殿には「聖所」という特別な場所があり、そこには祭司しか入れませんでした。そして、外との境目は幕で仕切られていました。しかし、イエス様が十字架にかけられたとき、その神殿の幕は裂けたのです。これは、今まで隔てられていた神と人々との関係がイエス様の犠牲によって変わったことを表しています。
「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(マタイ27:51)
これは、イエス様の体が切り裂かれたことが、神殿で起きた出来事を象徴していることを意味しています。さらに、パウロは、イエス様によってユダヤ人と異邦人を分けていた壁が壊されたとも言っています。また、旧約聖書に書かれている律法、つまり様々な規則や決まりも、イエス様によって廃止されたと述べています。モーセの律法の中には、例えば「割礼を受けなければ救われない」とか、「安息日を守らなければならない」といった規則がありましたが、これらの規則はイエス様によって役に立たないものとされたのです。
ユダヤ人にとって、律法は彼らをユダヤ人たらしめる重要なものでした。しかし、イエス様の教えにおいては、この律法が役に立たないものとなり、ユダヤ人と異邦人の間にあった垣根も取り除かれたのです。ですから、イエス・キリストにあって、ユダヤ人と異邦人という2つのグループが1つの新しい人、つまり「教会」として作り上げられたのです。
教会は、十字架を通して神と和解し、お互いの間にあった敵意もなくなりました。このようにして、私たちはキリストによって贖われ、様々な規則から解放され、1つの教会として結ばれました。全員が神様の子供とされ、私たちは兄弟姉妹であり、神の家族なのです。
教会について説明しますね。教会というのは、教団の「教会生活の手引き」の31ページにも書かれていますが、「エクレシア」という言葉で表され、「イエス・キリストによって集められた神様の民の集まり」のことを指します。聖書では、この教会を「一つのからだ」として表現しています。
また、使徒信条では教会を「公同の教会」と呼んでいます。この「公同の教会」というのは、381年に定められたニカイア信条で言われている「聖なる、普遍の、使徒たちから受け継がれた唯一の教会」という意味があります。つまり、神様の民はひとつの体のようにひとつである、ということです。
大事なことは、教会は建物のことではなく、神様を信じる人々が集まった「人々の集まり」であるということです。
では、教会とはどのようなものなのでしょうか?たとえ話で説明しますね。
黒い布地に塩を落とすと、塩の白さが目立ちますよね。この黒い布地を「世界」、そして塩を「クリスチャン」と考えてみましょう。日曜日になると、クリスチャンたちは教会に集まり、礼拝をします。礼拝が終わると、それぞれが家に帰ります。
日曜日と平日の違いを考えると、日曜日にはクリスチャンたちは教会に集まりますが、平日にはそれぞれの場所に散らばっていきます。でも、実はその散らばった場所、つまり職場や学校、家庭もまた「教会」に含まれていることがわかると思います。すなわち、教会は地域で広がり、そして、日本中、世界中に広がっているのです。そして、これが唯一の教会、一つのからだなのです。
このように、教会はただの建物ではなく、クリスチャン一人ひとりがその一部であり、日常生活の中でも教会の内に存在しているのです。もし、私たちが行く職場や家庭も教会に含まれているならどうでしょうか。私たちは、どこででも礼拝し、神様を褒めたたえることができるのです。
ひとりの人を紹介します。その人の名はニコラス・ヘルマンと言い、ブラザー・ローレンスとも呼ばれています。彼の半生は戦争での戦いでした。戦争で足を負傷し、その後、小間使いとなりました。その後、彼は修道院で料理人として働くようになったのです。彼の生活にはいつも神の臨在がありました。彼の料理人としての一面は、伝記に次のように書かれています。ローレンス修道士は、台所での仕事に向かうとき、神に親しく信頼を寄せて祈り、仕事の前後や合間のすべてを祈りに用いました。仕事の後には自分の務めを振り返り、うまくいけば感謝し、そうでなければ赦しを求め、落胆せずに再び神の臨在の実践を続けたということです。台所の騒音や喧騒の中でも、聖餐式でひざまずいているときと同じ平穏の中で神を感じていたと言われます。(ローレンス修道士について伝記に書かれている内容の要約。書名は原稿に記載なし)
彼は仕事をしている時、神様がそばにいることを感じ、親しく話を続けていたのです。私たちも、神様が私たちの父であり、その父が子どもである私たちを愛して下さるならば、もっともっと親しい関係を持ちたいと思うのではないでしょうか。
私たちが日常、ブラザー・ローレンスのように、神様の存在を感じ、神様と親しく会話するなら、それは教会で礼拝していることと同じなのです。様々な理由で、日曜礼拝に出席できなくても、父なる神様はそこにおられ、私たちを神様の子どもとして親しく交わって下さるのです。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。