イエスの価値観に生きる(関係の大切さ)

聖書箇所:マタイ5:13〜16

説教者:高橋堅治

これまで、聖書の中で最も大切な戒めである「神を愛すること」、「自分自身を愛すること」、「隣人を愛すること」について一緒に学んできました。この教えは、今年の標語である「あなたがたは互いに愛し合いなさい」を実行するために、とても大切なものです。

今日は、「関係」について考えてみましょう。それは、「神様との関係」、「教会との関係」、そして「この世との関係」についてです。

1.神との関係

創世記3:7〜10をお読みください。「そよ風の吹くころ、彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」(創世記3:8)

創世記3章では、最初の人間であるアダムとエバが罪を犯して堕落する様子が描かれています。悪魔である蛇がエバに近づき、神様が「食べてはならない」と言われたエデンの園の中央にある木の実を食べるように誘惑しました。エバはその木の実を取って食べ、アダムにも渡して彼も食べました。

実を食べた後、彼らは「目は開かれ、自分たちが裸であることを知った」のです。そして、神様が園を歩かれるとき、「主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠し」ました。これは、人間が罪を犯してしまったことを象徴しています。神様の命令を破ったことで、彼らは神様を恐れ、身を隠しました。この出来事によって、神との関係が壊れてしまったのです。

神との関係が壊れることがどれほど大変なことかを理解するためには、まず私たち人間がどのような目的で造られたのかを知る必要があります。

「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」(創世記1:27)

人間は、神様によって造られた存在であり、神様のかたちに似せて造られたと聖書の創世記1章に書かれています。「教会生活の手引き」の19ページには、人は「神との交わりの関係性という中にあって生きる者」として造られたと記されています。この「神との交わりの関係性の中にあって生きる」というのは、簡単に言うと、神様との関係があって人間は生きるものなんだということです。

聖書には、神様を一言で表すなら「愛」であると書かれています。神様は、父なる神、子なるイエス、そして聖霊という三つのご人格を持っておられ、この三位一体の神様の間には、愛の関係があるのです。神様に似せて造られた人間も、愛の関係を基本として生きるべき存在であり、特に夫婦の関係は、この神様の愛を表すものです。また、本来、神様と人間の間も愛の関係で成り立っているべきなのです。

ですから、聖書で学んできたように、一番大切な戒めは「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして神を愛する」ということです。これが、人間が造られた目的だからです。

しかし、人間が罪を犯したことで、神様との関係は壊れてしまい、人は神様を恐れるようになりました。その結果、人は神様から離れ、神様ではない他のものに心を寄せるようになりました。木や石で作った偶像や、お金や人に心を向けて、創造主である唯一の神様を見失ってしまったのです。

でも、神様は、神様から隠れた人間を「あなたはどこにいるのか」と探し求め、恐れの原因である罪を解決するために、救い主イエスをこの世界に送りました。そして、イエスは人間の罪を背負って十字架にかけられました。このようにして、私たちの罪が取り除かれたのです。

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。」(Ⅰペテロ2:24)

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため」であると言います。これは、

「今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」(コロサイ1:22)

私たちは、昔は神様を恐れて身を隠すような存在でしたが、イエス様が十字架で亡くなられたことで、神様は私たちの罪を許し、私たちを清らかで、傷のない、誰にも責められない存在にしてくださいました。今、神様との関係が良くなったので、私たちはもう恐れることなく、神様と愛の関係を築くことができます。たとえ私たちが罪を犯してしまっても、以前のようにその関係が壊れることはありません。

「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:7)

「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」(Ⅰヨハネ1:8)

神様との良い関係を保ち続けるならば、イエス様の血が私たちのすべての罪を清めてくださるのです。この言葉は、私たちにとって本当に大きな慰めとなります。この言葉は、イエス様を信じた後に犯してしまった罪について語っています。

以前、私はイエス様を信じているのに、時々罪を犯してしまう自分をとても情けなく感じたことがありました。その時、心が暗くなり、神様の愛を感じることができなくなりました。集会に参加して恵みを受けたときは嬉しいのですが、時間が経って罪を犯すと、その喜びが一気に消えてしまうのです。それはまるで寿命が近づいた蛍光灯が、明るくなったり暗くなったりするような感じでした。しかし、それは私が御言葉を正しく理解していなかったからだと気づいたのです。

神様との「互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」ということは、クリスチャンであれば、イエス様の力で罪からきよめられることがずっと続くという意味です。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません」とあるように、「自分には罪がない」と思い込むのは、自分自身を誤解していることであり、心の中に真実がないということです。

宗教改革者のルターは、「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。大胆に悔い改めて大胆に祈れ。」と言ったとされています。このように、クリスチャンは神様との良い関係を持っていれば、恐れることなく、たとえ罪を犯しても、イエス様の血によってきよめられながら大胆に生きていくべきなのです。

アダムとエバは、恐れから神様から逃れようとしました。しかし、私たちは神様の愛を信じ、逃れることなく、神様と良い関係を続けるべきです。そして、たとえ罪を犯したとしても、イエス様の血によってきよめられるという御言葉に信頼するのです。そうすれば、私たちは神様と共に歩むことができ、様々な事がらによっても、喜びを失わないのです。

2.教会との関係

創世記4:8〜9をお読みください。

アダムとエバにはカインとアベルという子供がいました。このカインは、人類で初めて人を殺してしまった人物として知られています。カインは、アベルが神様に捧げたものが受け入れられ、自分の捧げものが受け入れられなかったことに怒り、嫉妬してアベルを殺してしまいました。その後、神様がカインに「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と尋ねましたが、カインは「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」と答えました。「番人」とは、世話をしたり見張ったりする人のことを指します。神様は、ここでどうしてカインに、「弟アベルは、どこにいるのか」と聞かれたのでしょうか。少し、考えてみましょう。

まず、教会とは何んでしょうか?私たちは、よく、人に「教会に行く」と言いませんか?教会に行くというと、教会は建物でしょうか?

「教会生活の手引き」の31ページには、教会が「エクレシア」、つまり「イエス・キリストによって召し集められた神の民の集まり」として記されていると書かれています。教会は建物や場所のことではありません。「教会に行く」と言うよりも、「教会に参加する」や「教会に集う」、「教会に加わる」と言った方が、エクレシアの意味に合っています。

では、神の民とは誰のことを指すのでしょうか?それは、クリスチャンやキリスト者のことです。実は、クリスチャンやキリスト者という言葉は、もともとはあだ名だったのです。

「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(使徒11:26)

クリスチャンという言葉は、アンティオキア(現在のトルコ)の人々がイエス様の弟子たちに対してつけたあだ名です。キリスト者とは、イエス様の弟子を指す言葉なのです。みなさんが「イエス様の弟子」と呼ばれたら、どんな気持ちになるでしょうか?弟子なんて、少し難しいと感じるかもしれませんね。

では、イエス様の弟子とはどのような人のことを言うのでしょうか。次に、イエス様が話された内容を紹介します。

「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」(ヨハネ8:31)

弟子とは、イエス様の言葉に従い続ける人のことです。「とどまる」という言葉には、「生きる」という意味があります。つまり、イエス様の言葉に従って生きる人が弟子なのです。

イエス様の弟子であるクリスチャンは、イエス様の教えたとおりに生活する人のことを指します(ヨハネ 8:31 参照)。イエス様の教えは、この世の価値観とは異なる独自の価値観を持っています。

マタイの福音書の5章から7章に記された山上の説教の中で、イエス様は「しかし、わたしはあなたがたに言います」という言葉を使って、この世の価値観とイエス様の価値観を対比させながら話をされました。つまり、私たちはイエス様の価値観に従って生きることが求められているのです。

このイエス様の教え、すなわち、イエス様の価値観は、私たちを愛してくださる神様を知り、その神様を愛し、そして神様が愛してくださる自分自身のように隣人を愛することです。

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」(マタイ7:12)

そして、そのイエス様の価値観に従って生きるなら、私たちの間には愛があるはずです。そしてその愛が、人々に私たちがクリスチャンであることを示す結果となるのです。

「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:35)

神様がアダムに「あなたはどこにいるのか」と聞かれたとき、それはただ場所を尋ねるためではなく、人との関係を問われたのです。神様は、その関係を回復しようとしておられました。また、カインに「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と聞かれたときも、神様は兄弟の関係を問われました。しかし、カインは「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか」と答え、無関心な態度を示しました。マザー・テレサは「愛の反対は憎悪ではない、無関心である」と言われました。すなわち、愛のない状態なのです。

私たちがもしイエス様の弟子、つまりクリスチャンであるなら、主は私たちが互いに愛し合うことを求めておられるのではないでしょうか。

神様がカインに「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と尋ねたように、もし私たちに「あなたの兄弟姉妹はどうしていますか」と聞かれたら、私たちはちゃんと答えられるでしょうか?

まず、お互いにもっと関心を持つことから始めましょう。祈りのカードを使って、互いのために祈ることができますし、毎月第一日曜日には祈り会があり、その場で互いの必要を知り、一緒に祈ることができます。これまで、牧師先生方がひとりひとりの信徒をケアしてこられましたが、これからは私たち自身も、信徒同士のつながりをもっと強くし、普段の関係をさらに深めてみてはどうでしょう。心の中で教会のメンバーの名前を挙げて、神様から「あなたの兄弟姉妹Aさんは、どうしていますか」と尋ねられたときに、しっかりと答えられるように心がけたいものです。

3.世との関係

マタイ5:13〜16をお読みください。「あなたがたは地の塩です。」「あなたがたは世の光です。」(マタイ5:13〜14)「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:16)

私たちは、日曜日の礼拝のときだけクリスチャンであってはいけません。礼拝のときの自分と、月曜日から土曜日までの自分は同じであるべきです。イエス様の価値観に従って生きるなら、私たちは隠れたところで見ておられる天の父なる神様を意識しなければなりません。つまり、神様との関係の中で歩むことが大切なのです。

「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:6)

私たちの日常生活で信仰をどう実践するかは、特に神様を信じていない人が多い環境では難しいことがあります。家庭や職場でクリスチャンが少ないと、信仰を理解してもらえないこともあるでしょう。

私が若い頃、キリスト教が広く受け入れられている国のクリスチャンたちを羨ましく思ったことがありました。当時は周囲の理解を得られず、礼拝に参加するのも大変なことがありました。でも、今振り返ると、理解されなかったのには理由があったのだと思います。私は、マザー・テレサなどの素晴らしいクリスチャンの例を挙げて、信仰の素晴らしさを伝えようとしましたが、実際のところ、自分の信仰には良い証しがなく、説得力に欠けていたのです。

イエス様は、私たちのことを「地の塩」と「世の光」と呼びました。当時のユダヤで、塩は味付けや腐敗防止のために使われていて、今も同じように使われていますね。塩の無い食べ物はあまり美味しくないですし、実際に甘いアイスクリームやチョコレートにも少しだけ塩が含まれています。例えば、100gのアイスやチョコには約0.1gの塩分が入っています。でも、もし塩が多すぎたら、美味しくなくなってしまうでしょう。その食べ物に応じた適量があるのでしょう。

同様に日本のクリスチャン人口は1%未満と少数ですが、神様は私たちをこの社会の「地の塩」として、家庭や職場、そして社会全体をより良くするために送り出しているのです。

光は、私たちが生きるためにとても大切なものです。なぜなら、暗闇の世界を明るく照らしてくれるからです。この「光」とはイエス様の光のことを指しており、イエス様の教えに従って生きることを意味します。私たちがその教えに従って生きることで、人々は神様の存在を知り、天国へ進む道を見つけることができるのです。

私たちは「地の塩、世の光」として、とても大切な使命を持ってこの世界に送り出されています。私たちが神様の言葉通りに、神様を愛し、自分自身を愛し、隣人を愛することです。それだけで良いのです。

先日、あるクリスチャンの方の証しを聞きました。その方は、毎朝、仕事に出かける前に、職場の人たちを愛することを祈ってから、仕事に行くようにしていたそうです。

彼はあまり好かれていなかった上司に対しても、愛を持って接しようと努力しました。その上司の家族にも、プレゼントを贈ったこともありました。

その結果、彼の仕事は祝福され、たくさんの成果を出すことができました。そして、彼が牧師になるために仕事を辞めるとき、会社の社長は、なぜそんなに成果を挙げられたのか、その理由を教えてほしいと頼んできたそうです。

世の中では、お金を稼ぐことや昇進、自己実現が大切とされることが多いです。しかし、彼にとって一番大切だったのは「愛すること」だったのです。

今日は、関係について学びました。

神様との関係では、神様との交わりの中で私たちの罪はイエス様の血によってきよめられると約束されており、私たちは大胆に生きることができること、

兄弟姉妹との関係では、神様は兄弟姉妹に対して無関心ではなく、関心を持つことを求めておられること、

この世との関係では、神様は、私たちに「地の塩」「世の光」としての大切な使命を持って派遣されていること、そこでは世の価値観ではなく、イエス様の価値観、愛することにより、人々が神様の存在をしり、天国への道を見つけることができるのです。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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