Ⅰヨハネ4章7〜16節をお読みください。「神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」(Ⅰヨハネ4:16)
先週の父の日礼拝では、イエス様がゲッセマネの園と十字架の上で祈られた4つの祈りについて学びました。その中で、イエス様が苦しまれているとき、父なる神様も同じように苦しまれていたことを教えていただきました。私はこのことを心に留め、神様のご愛について考えました。どうして神様は人をこれほどまでに愛されるのでしょうか?これが今週の私の課題となりました。
5月の第四日曜日から、第四日曜日は教会のビジョンについて皆さんと一緒に考えていこうと思いました。今週も続けて、「いのちを豊かに得る」その2として、聖書の重要な戒めについて考えてみましょう。
1.神を愛する
マタイの福音書22章35〜40節をお読みください。律法の専門家がイエス様を試そうとして、どの戒めが一番重要かと尋ねたとき、イエス様はこう答えられました。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。」(マタイ22:37〜39)
最初に、前回の内容を復習しましょう。
創造主である神様は、私たち人間をお造りになりました。しかし、神様は人間をただ造るだけでなく、人間の取扱説明書も用意されました。それが聖書です。
前回、電子レンジの例を挙げましたね。電子レンジを買ったとき、最初に取扱説明書を読んで、注意事項や設置方法、取扱方法を確認してから使いますよね。もし取扱説明書を見ずに使おうとしたら、うまく料理ができないだけでなく、火事を起こしたり感電したりすることもあります。ですから、人間の取扱説明書である聖書を読むことで、人生の目的や生き方、人との接し方、注意すべきことなどがわかります。
しかし、聖書は全部で2154ページもあり、イスラエルという外国の古文書なのでとても難しいのです。このような場合、要点を学ぶことが大切です。聖書の要点は、マタイの福音書22章35〜40節に書かれています。ここに、2つの大切な戒め(命令、おきて)が記されています。
イエス様は、この2つの戒めに聖書全体がかかっていると言われました。それは、
1. 「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」
2. 「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」
この2つを守ることで、実は聖書のすべてを守っていることになります。聖書は人間の取扱説明書ですから、その通りに守れば、私たちは自分の人生を正しく取り扱うことができるのです。
既に「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、神を愛」することについて学びました。この「心(カルディア)」とは感情を表し、「いのち(プシュケー)」とは意志を表し、「知性(ディアノイア)」とは判断力を表します。つまり、私たちの感情、意志、判断力を使って神様を愛しなさいと聖書は言っているのです。
例えば、私たちに大好きな人がいるとします。その人のことを思うと嬉しいという感情が起こり、その人のために何かをしてあげたいという意志が生まれます。例えば、プレゼントを贈る、手紙を書くなどの行動が起こります。そして、その人の幸せのために色々と考えるようになり、判断力を使います。例えば、体調が悪いと知ったら、栄養をきちんと摂るようにとか、医者に行った方がいいと勧めます。このように考えると、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、神を愛」するとはどういうことかが分かるでしょう。
それから、もしその大好きな人と喧嘩をしたらどうするでしょう。喧嘩の後、相手が許してくれないのではないか、まだ怒っているのではないかと思い悩みます。相手との間に壁ができたような気持ちになります。その場合、相手に「ごめんなさい」と言って仲直りしようとします。また、どれほど好きな人であっても、その関係が度を越えたとき、たとえば相手の奴隷のようになったとしたら、もはやそれは愛の関係とは言えず、喜びが無くなるのです。
このように、感情、意志、判断力を使って神様を愛することは、私たちの人間関係にも当てはまります。神様との関係も、相手を思いやり、行動し、判断することが大切なのです。
神様との関係も同じなのです。壁ができたときは赦しを願い、また、信仰に喜びが無くなれば、もう一度、関係を取り戻すことが必要です。私たちは、聖書が勧める良い人生を歩むために、神様をどのように愛するかが重要なのです。
2.自分自身を愛する
では、私たちが神様を大好きな人のように愛するにはどうしたら良いのでしょうか。これについては、もうひとつの大切な戒め「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」の「自分自身を愛する」ことの中で一緒に学びます。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉から、隣人を愛する基準は「自分自身を愛する」ことであるのがわかります。
さて、誰もが知っているグリム童話の白雪姫に、次のようなシーンがあります。うぬぼれが強く、自分よりほかの人が少しでも美しいと落ち着いていられない女王さまが、不思議な鏡に「鏡や、鏡、壁にかかっている鏡よ。国じゅうで、だれがいちばんうつくしいか、いっておくれ」と尋ねます。鏡はいつも「女王さま、あなたこそ、お国でいちばんうつくしい」と答え、女王さまは、この鏡がうそをいわないことをよく知っていたので、安心するのでした。
この白雪姫の物語に出てくる女王さまは、嘘をつかない不思議な鏡を持っていました。女王さまはいつも鏡に尋ね、鏡が「あなたこそ、この国でいちばん美しいです」と答えるのを聞くと、女王さまは安心しました。彼女は、自分ではなく他の人からの言葉で自分が美しいと信じたのです。
私たちも同じで、他の人からの評価によって、自分のことを信じるようになるのです。ですから、他の人から自分が愛される価値があると知ることで、初めて自分自身を愛することができるのだと思います。
では、自分に対する評価が正しくなかったり、それが得られなかった場合はどうなるでしょうか。それは、テモテへの手紙 第二 3章1〜5節に書かれたパウロの言葉のようになるのではないかと思います。
「そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。」(Ⅱテモテ3:2)
パウロは、世の終わりの時代になると、人々は自分だけを愛するようになると言っています。つまり、金を愛し、大きなことを言い、高慢で、神を冒涜し、両親に従わず、人との関係が悪く、快楽を愛するようになるのです。要するに、自分さえ良ければいいという人になるのです。
前回、ハーバード大学で行われた幸福度の調査研究について紹介しました。この研究は85年間、2600人を対象にして、人間の幸福について調べたものです。研究の結論は「幸福の二大因子は、他者と過ごす時間とその質である」でした。この結果から、終わりの日には、人々は幸福でなくなると言えます。なぜなら、他人との関係がほとんどなくなる状態を示しているからです。
では、どうしたら幸福になれるのでしょうか。それは聖書の言葉を守ることです。「自分自身を愛し、隣人を愛する」なら、ハーバード大学の研究結果である「他者との時間とその質」をしっかり確保できるのではないでしょうか。
現在、学校では進化論を教えています。これは、特定の宗教教育を避けるためだと思われます。進化論では、何もない状態から生物が生まれ、長い年月をかけて次第に進化し、その結果が今の人類だと説明しています。この教育の影響で、多くの人々は進化論を真実だと信じ、神を迷信だと考えて否定するようになっています。また、キリスト教に関する多額の献金や、宗教二世による被害報道が広まることで、人々は信仰に対してさらに疑わしいと感じるようになっています。
白雪姫の女王さまは、嘘をつかない鏡の言葉によって、自分が美しいと信じることができました。私たちも、自分自身を愛するためには、嘘をつかない鏡の言葉が必要です。それが、創造主である神様の言葉なのです。
前回、顧問牧師がゲッセマネの園と十字架上でのイエス様の祈りについて話されました。父なる神様もそのときに痛みをもって苦しまれたのです。父なる神様が御子イエスをこの世に遣わし、私たちのために十字架で死なせたのは、私たちが命を持つためです。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネ4:9)
このような神様の愛を知ったとき、人はどのように答えるのでしょうか。ダビデは、詩篇8篇で次のように言っています。
「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」(詩篇8:4)
私たちは「人とは何ものなのでしょう」という驚きと疑問を持つに違いありません。こんなに小さな私に、神様が心を留めてくださることが不思議に感じるのです。そして、「自分自身を愛する」とは、この創造主である神様が私に心を留めてくださり、私を愛してくださるということを信じることなのです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)
みなさん、思い返してみてください。キリストに出会う前と後を。キリストに出会う前、私たちはⅡテモテ3章1〜4節に記されている人々と同じだったのではないでしょうか。
例えば:
- 自分だけを愛し:自己中心的で、世界は自分を中心に回っていると思っていた。
- 金銭を愛し:お金があれば何でもできると考えていた。
- 大言壮語し:自分を過大評価し、自慢ばかりしていた。
- 高ぶり:他人を見下し、裁いていた。
- 神を冒瀆し:神なんて知らないと言っていた。
- 両親に従わず:親の言うことを聞かなかった。
- 恩知らず:人の親切に感謝しなかった。
- 汚れた者:不敬虔で、偶像を崇拝していた。
しかし、神様が私たちを命がけで愛してくださっていると知ってから、これらの考えが間違いだと気付いたのではないでしょうか。そして、神様の愛を知ったことで、私たちも神様を愛せるようになったのです。
私たちが神様を愛せるのは、神様がまず愛してくださったからなのです。(Ⅰヨハネ4:19 参照)
そして、神様が愛しておられることを知ることは、自分自身を愛することにつながります。白雪姫の女王さまが嘘をつかない鏡の言葉で自分が美しいと信じていたように、私たちは、嘘を言わない創造主である神様によって、イエス様を私たちの代わりに十字架にかけるという鏡を通して、私たちが高価で尊く、愛されるべき存在であるということを教えて頂いているのです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)
自分自身を愛せなくなりそうなときは、十字架を見上げて、偽りのない神様の愛を感じてください。
3.互いに愛し合う
神様の私たちに対する愛は本当です。では、なぜ神様は私たちのような小さな人間を愛してくださるのでしょうか?
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」(創世記1:27)
創造主は人を「われわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」(創世記1:26)と言われました。神の「かたち」とは何でしょうか。神様ご自身は、目に見えないお方なので、神様のような本質に創造されたと考えてよいでしょう。神様の本質は、愛です。
「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。」(Ⅰヨハネ4:8)
この愛は「アガペーの愛」と言い、相手の幸せを願い、相手のために尽くす愛です。そして、愛は人格同士の関係の中で生まれるものです。神様は父、子、聖霊の三つの人格を持っておられるので、愛を本質とされています。つまり、父、子、聖霊の間に存在するものが愛なのです。神様の最も重要な本質が愛であるため、神のかたちとして造られた人の本質も愛なのです。そのため、人は一つの人格ではなく、互いに愛し合う関係として男と女という二つの人格で創造されたのです。
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。(マルコ10:7〜8)
ところが、最初の人アダムとエバは、悪魔の誘惑により罪を犯しました。罪の結果、神と人、そしてアダムとエバとの愛の関係が壊れてしまいました。愛が本質である神様は、人も愛する存在として作りましたが、人は神を愛せず、代わりに偶像を作りました。人は神を見失い、自分だけを愛するようになってしまったのです。
神様は、人との愛の関係を修復するために、御子イエスをこの世界に遣わしました。イエスは十字架にかかり、復活することで、この愛の関係を修復しました。イエス・キリストを救い主として受け入れた私たちは、神様の愛を知り、神を愛する者となりました。
イエス様は、キリストの愛を受けた人々による共同体を立て上げました。それが教会です。教会をギリシア語でエクレシアと呼び、その意味は、「共同体」という意味をもちます。人と人との繋がりを意味します。
さて、教会という人々の共同体の目標は、エペソ4章13節にあるように、一人の成熟した大人になることです。
「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」(エペソ4:13)
教会は、一人の成熟した大人になることを目指しています。一人一人が神様と同じようにそれぞれの人格を持っていますが、互いに愛し合うことで一つになることを目指すのです。
神様が造られた共同体には、夫婦と教会があります。これらの共同体は、神様の似姿であり、それぞれの人格が互いに愛し合い、一体になることを目指しています。その方法とは、自分自身を愛すること、つまり、神様が十字架で命がけで愛してくださったことを受け止め、互いに神様に愛されている者同士を愛することなのです。
「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:11)
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。