いのちを豊かに得る―その1 神を愛する

聖書箇所:ヨハネ10:7〜10

説教者:高橋堅治

先週は、ペンテコステ礼拝でした。ペンテコステ礼拝は、弟子たちに神様の御霊、聖霊が下ったことを記念するものです。当時、人々はこの新しい教えに驚き、多くの人々が教会に加わりました。

「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(使徒2:46〜47)

このように、彼らは喜びと真心を持って生活し、多くの人々がその姿に賛同し、共に加わりたいと願うようになったのです。

さて、私たちはどうでしょうか?現代のクリスチャンも、当時の彼らのように喜びと真心を持って生活し、私たちのような生活をしたいと思うのではないでしょうか。でも、全ての人々がこのような生活をしているかというとそうではないかもしれません。もしそうでないなら、当時の人々と比べて私たちに足りないものは何なのでしょうか?

これまで、私たちはヨハネの福音書を少しずつ学んできました。約1年間学んできましたが、まだ6章までしか進んでいません。このヨハネの福音書は全部で21章ありますので、このペースだとあと2年半もかかってしまいます。他にも色々な聖書の箇所を一緒に学びたいと思っていますし、現在のビジョンを考える中で集中的に御言葉を学ぶことも必要だと感じています。そこで、今後は第四週にビジョンに関する重要なことを聖書から学び、第二週にヨハネの福音書を学ぶことにします。また、ヨハネの福音書についても、もう少し要点を押さえて進めていこうと思います。

1.いのちを豊かに得る

まず、さきほど読んでいただきましたヨハネの福音書10章10節を見ましょう。

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)

イエス様は「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」と言っています。イエス様は、私たちが永遠のいのちを豊かに受けることを望まれています。

みなさんは、「イエス様を信じれば、死んだ後、天国に行くことができます。」という言葉を聞いたことがありますよね。たしかにそうですが、私は少し納得できないところがあります。この言葉を聞くと、「イエス様を信じて、清らかな生活を送るのは嫌だ。だから、死ぬ直前までイエス様を信じないで、死ぬ前に信じて天国に入るのが一番だ」という人がいます。こういう人のことを、「天国泥棒」と呼ぶことがあります。

しかし、信仰生活について正しく理解していれば、その考えが間違っていることに気づくはずです。よくある誤解のひとつは、「イエス様を信じたら、清く正しい生活をしなければならない」というものです。もし私たちが、「クリスチャンは清く正しい生活をしなければならない」と考えてしまったら、それが間違いのもとです。そうすると、信仰生活が楽しくなくなるだけでなく、他のクリスチャンたちを裁いてしまうかもしれません。そして、まだクリスチャンになっていない人々には、クリスチャンになることがとても大変に思えるでしょう。

信仰生活は、イエス様の教えに従って生きることを楽しむことです。イエス様を信じることで、心に平安と喜びがもたらされます。そして、その結果として自然に清く正しい生活が送れるようになるのです。ローマ6章4節にこんな御言葉があります。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」(ローマ6:4)

わたしたちは、イエス様を信じ、洗礼を受けたときから、「新しいいのち」の歩みを始めたのです。ですから、イエス様は次のように言いました。

「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20〜21)

神の国、天国は、既に、私たちの「ただ中にある」のです。クリスチャンにとって、天国は死んでから行くところではなく、既に天国にいるのです。えぇっ、本当?と驚くかもしれません。天国は、目に見えないからです。では天国は何か、聖書には、

「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(ローマ14:17)

「神の国は、ことばではなく力にあるのです。」(Ⅰコリント4:20)

とあります。天国は、「聖霊による義と平和と喜び」です。また、力だと言っています。

もし、私たちがもう天国で生活を始めているとしたら、どうして私たちは義や平和、喜びを感じることができないのでしょうか。地上で天国のような生活ができたら、とても素晴らしいことだと思いませんか。

どうしたら、得ることができるでしょうか。マタイの福音書7章13〜14節を見ましょう。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7:13〜14)

これは、イエス様が山の上で人々に教えたことの一つです。イエス様は私たちに「狭い門から入りなさい」と勧めています。その狭い門は「いのちに至る」からです。

一方で、イエス様は「滅びに至る門」もあることを教えています。その門は大きくて、道も広く「入って行く者が多い」と言っています。私たちの人生には広い門と狭い門があり、どちらの門を選ぶかは私たち次第です。

「狭き門」と言うと、私たちは難関大学の入試のような難しい事柄を思い浮かべます。この「狭き門」を通るには、優秀な学生が一生懸命勉強して、やっと合格できるかどうかというほどに狭いものです。しかし、イエス様が言われた「狭い門」は、入ろうと思えば誰でも入ることができます。でも、多くの人は誰もが選ぶ広い門から入ってしまうというのです。

「いのちに至る狭い門」は、入るのが難しいのではなく、選ぶのをためらってしまう門なのです。

以前にも紹介しましたが、ハーバード大学では85年間も幸福度について調べてきました。調査対象は約2600人でした。その中で、調査対象であったハーバード大学卒業生2人の例が紹介されています。

2人の経歴

ジョン:ジョンは大学院を優秀な成績で卒業して、弁護士になりました。彼は「自己の内なる欲求を満たす」と言われたように出世を重視し、成功と高い報酬を得ました。

レオ:レオはジャーナリストを目指していましたが、故郷で高校の先生になりました。

55歳のときの質問

2人が55歳になったとき、ハーバード大学で「人生は喜びより苦しみの方が多いか」という質問がありました。ジョンは「はい」と答え、レオは「いいえ」と答えました。

理由

ジョン:ジョンの最初の結婚はうまくいかず、子供たちとも疎遠になってしまいました。彼は「人とつながれず悲しい」と感じていました。再婚しましたが、愛のない結婚生活のまま亡くなりました。

レオ:レオは熱烈な恋に落ちて結婚しました。年収は普通でしたが、家族と一緒に幸せな生活を送りました。

研究結果

ハーバード大学の研究チームは、「幸福の二大予測因子は、他者と過ごす時間とその質である」と結論づけました。

この2人の対照的な人生から、私たちは多くのことを学べます。多くの人は良い人生を送るために、高い学歴・地位、高い収入を求めますが、それが必ずしも喜びにつながるわけではありません。時には私たちの人生から喜びを奪うこともあります。

このように、多くの人が選ぶ広い門が私たちを幸せにするものではありません。イエス様は、私たちにいのちに至る門を選ぶことを勧めています。この門こそ、イエス様ご自身なのです。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。」(ヨハネ10:7)

2.神を愛する

人生の生き方を学ぶために、聖書を読む人が多いと思います。しかし、残念ながら、聖書を読んでもその生き方を身につける人は少なく、その後、本棚に置かれたままになっていることが多いのではないでしょうか。実際、多くの人が聖書をキリスト教の経典と考えていると思います。でも、私は聖書はキリスト教の経典だけではないと思っています。

私は以前、機器の設計をしていました。製品を販売するときには、必ず設計者自らが書いた取扱説明書を添付しました。取扱説明書は、製品の詳細な仕組みや安全性を知っている設計者でないと書けません。この取扱説明書は、製品を使う上で極めて重要です。例えば、私たちが電子レンジを買ったとします。その時、最初に、取扱説明書にある電子レンジの使い方や注意事項をきちんと読む必要があります。そうしないと、レンジ機能をうまく使えないばかりか、危険なこともあります。

私たち人間を創った神様は、私たちを創りっぱなしにしているでしょうか?いいえ、創り主の神様も、きちんと、取扱説明書を書いています。それが、聖書です。聖書には、人間の最高の生き方や注意すべきことがたくさん書かれています。

でも、この聖書は難しいだけでなく、内容がとても多いのです。2017年版の新改訳聖書は、旧約聖書が1635ページ、新約聖書が519ページ、全部で2154ページもあります。声を出して読むだけでも、寝ずに読んだとして4日もかかります。それでも、内容を理解するのは難しいでしょう。

例えば、私たちが電子レンジを使う前に、取扱説明書を全部読んで理解することはないと思います。電子レンジが何か、使うときに気をつけることが分かれば良いですよね。聖書も同じように、必要なポイントを知っていれば、より良い人生の生き方を学ぶことができるのです。

実は、聖書のポイントは次のところに書かれているのです。マタイの福音書22章35〜40節をお読みください。ひとりの律法の専門家がイエス様に、律法の中でどの戒めが一番重要かと尋ねる場面です。

「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。」(マタイ22:37〜38)

「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:40)

この話は、ひとりの律法の専門家がイエス様に質問したことから始まります。イエス様は2つの御言葉を用いられました。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」、これは旧約聖書の申命記6章5節の言葉です。また、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」、レビ記19章18節の言葉です。イエス様は、「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」と言われました。すなわち、この2つの戒めが、律法と預言者、すなわち聖書全体を表しているというのです。ですから、このポイントをしっかり学んでおくことが重要なのです。

時間がないので、今日は「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」ということについて学びます。この言葉は「神様を愛しなさい」という意味です。どうやって愛するかというと、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして」愛するのです。「尽くして」とは、「すべての○○をもって」という意味です。ですから、心、いのち、知性がわかれば、どうやって神を愛するかがわかるのです。

では、心、いのち、知性とは何かを学んでいきましょう。

心(καρδία) 英語読み:カルディア 心の感情や情熱を表します。

「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)

「しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。」(マタイ15:18)

いのち(ψυχή) 英語読み:プシュケー 心の意志、認識を表します。

「私の霊は私の救い主である神をたたえます。」(ルカ1:47)

使徒の働き4章32節では、信じた大勢の人々が心と思いを一つにして、すべてを共有していたと記されています。

知性(διάνοια) 英語読み:ディアノイア 心の思考、判断力を現します。

エペソ2章3節では、私たちもかつては肉の欲のままに生き、生まれながら御怒りを受けるべき者であったと記されています。

「また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。」(Ⅰヨハネ5:20)

つまり、心、いのち、知性というのは、私たちの心がどのように働くかを表しています。簡単に言うと、心から神様を愛しなさいという意味です。では、もう少し詳しく説明して、カルディアで愛する、プシュケーで愛する、ディアノイアで愛するとは具体的にどういうことかを見ていきましょう。

心(カルディア)を尽くして

すべての感情を使って神様を愛することです。神様に感謝したり、喜んだりすることです。でも、実際、私たちのすべての感情が、神様を愛するための感情ではありません。それは、怒り、恐れ、悪意などは神様は喜ばれません。ですから、私たちは、怒り、恐れなどの否定的な感情を取り除くことが必要です。

「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。」(エペソ4:31)

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(マタイ5:8)

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

いのち(プシュケー)を尽くして

愛するという意志をもつことです。神様が主人で、自分が僕であるという考えを持ちましょう。それは、神様の命令を守ることにつながります。

「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」(Ⅰヨハネ5:3)

聖書によると、神様の命令は私たちにとって重荷にはなりません。なぜなら、神様は私たちを愛していて、私たちの幸せを願っているからです。だから、もし私たちが神様の命令を重荷だと感じるなら、まず、それが本当に神様の命令なのかを疑ったほうがいいです。

以前に、ベテスダの池で38年間病気だった人の話をしました。安息日に、イエス様はその人を癒しましたが、その人が寝床を持って歩いているのを見たユダヤ人たちは、安息日にそんなことをしてはいけないと言いました。このことがその人にとって重荷となり、彼の喜びを失わせ、イエス様のことをユダヤ人たちに告げ口してしまいました。彼のミスは、安息日を誤解していたことでした。安息は本来、私たちが休むために神様が与えてくださったものです。例えば、安息日に教会の礼拝に出なければならないという神様の命令はありません。神様の命令は重荷ではないのです。

ですから、「御言葉に従う」というイメージから、自分が頑張らなければならない、一生懸命に努力しなければならないと考えると、喜びを失ってしまいます。

また、ベテスダの池の彼を指摘したユダヤ人たちのように、聖書の言葉を用いて、他の人を裁かないように注意したいものです。愛は批判ではなく、自ら行うものですから。

知性(ディアノイア)を尽くして

御言葉による判断力を身につけることです。そのためには、ただ神様の御言葉を読むだけでは足りません。御言葉をどうやって具体的に使うかを考え、心の中で何度も思いめぐらすことです。

「どれほど私はあなたのみおしえを愛していることでしょう。それがいつも私の思いとなっています。」(詩篇119:97)

すなわち、私たちの教会理念にある、御言葉に生きるということです。

3.日々、新たにされる

それでは、心、たましい、知性によって神様を愛する例を見てみましょう。

あなたは、とても心配性だとします。いつも「大丈夫かな」「心配だな」と未来のことについて不安に感じています。まだ起こっていないことについて、怖がっているのです。

このような場合、恐れのために心によって神様を愛することができない状態になっています。そこで、神様を愛する気持ちを持つためには、この恐れを取り除く必要があります。

「わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」(エゼキエル11:19)

私たちの中にいる聖霊は、私たちの石のように固い心、つまり怒りや恐れなどの悪い感情を取り除いてくれます。だから、自分の恐れを正直に話し、イエス様に渡しましょう。この祈りは、自分の意志で神様を愛そうとする行為であり、たましいによって神様を愛することになります。このとき、聖霊は、新しい柔らかい心として神様の言葉を与えて下さるのです。

たとえば、あなたは、

「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)

という御言葉を頂いたとします。

その段階は、頭で神様の言葉を知っただけの状態です。まだ、心の思いとはなっていません。たとえば、あなたは、「労苦はその日その日に十分あります」という神様の言葉を繰り返し繰り返し考えます。そして、あなたは、今日だけでもやることがたくさんあって、一生懸命に頑張ればいいんだ。明日のことは神様に任せようと考えます。そして、もし何か心配になったときに、この「労苦はその日その日に十分あります」という言葉が心に浮かんできて、今日頑張ればいいんだという気持ちになれたとすれば、あなたは御言葉が心の思いとなったと言えます。これが、知性によって神様を愛することです。

その結果、今まで心配で恐れがいっぱいだったあなたは、心配を恐れずに、神様に明日のことを任せて、神様を喜ぶことが出来るようになります。これが、心によって神様を愛することです。

このように、神様との関係を築いていくなら、私たちは神様から義、喜び、平安、そして、恐れに打ち勝つ力をもらいます。それが、神の国を表す「聖霊による義と平和と喜び」なのです。私たちは、初めから上手にできるのではなく、日々の生活を通して、少しずつ、変えられていくのです。このことを聖化と言います。

「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(Ⅱコリント4:16)

部会では、実生活で神様に対して、感情を表すことをしているか、意志をもって愛する、神様の命令をどう守るか、神様の命令で負担だと感じていることはないか、ご自身の石の心は何かないか、石の心を取り除き、肉の心を頂く実践方法を一緒に学びたいと思います。

次回の第四週は、自分を愛し、隣人を愛することを学びます。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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