御霊なる主の働き

聖書箇所:Ⅱコリント3:1〜18

説教者:高橋堅治

先週の礼拝では、顧問牧師のお証しを聞かせ頂きました。その中で、聖書の言葉や言葉による勧めではなく、ある施設の方々の姿を通して、キリストは顧問牧師の心を変えていったことを教えて下さいました。

現代、オレオレ詐欺などから、個人の情報を明かさすことを嫌うようになり、また、コロナの影響から、人と人との関係が希薄になりました。ましてや、社会問題になったオウム真理教により人々は宗教への関わりを恐れ、福音宣教が以前に増して難しい状況になっております。しかし、その施設の人々のように、その人の内なるキリストの恵みと喜びに触れるとき、言葉による以上に、福音宣教に十分な影響力があることを知りました。

今日は、ペンテコステ礼拝、ペンテコステとは五旬節の意味ですが、御霊が降って教会が誕生した記念日でもあります。今日は、御霊による奉仕について一緒に考えたいと思います。

1.私たちはキリストの手紙

Ⅱコリント人への手紙3章1〜3節をお読みください。「私たちの推薦状はあなたがたです。」「あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。」(Ⅱコリント3:2〜3)

パウロは、ローマ帝国内の宣教活動を始めたアンティオキア教会から遣わされた伝道者として、AD50年頃、小アジアと呼ばれる、現在のトルコ、ギリシアの地域にある町々を旅行しました。2回目の旅行で、パウロはコリントを訪れ、そこに1年半滞在し、教会を築きました。コリントはアフロディテ神殿があり、そのために偶像礼拝と性的放縦の習慣が蔓延し、コリント教会も影響を受けていました。パウロは数年後に、第一の手紙を書き送り、コリント教会の様々な問題を指摘しました。その結果、パウロとコリント教会の関係にヒビが入り、更にパウロはテトスに託して、叱責の手紙を送りました。その結果、コリント教会が悔い改めた知らせをテトスから聞き、和解の喜びを書いたのが第二の手紙だと言われています。ところが、なおも、コリント教会には、パウロを否定する教師たちがいました。彼らは、他の権威ある教会の推薦状を携えてコリント教会に入り込んだのです。そこで、パウロは、自分たちにも推薦状が必要なのかと聞きました。

パウロは、手紙の中で、「私たちの推薦状はあなたがたです」と言っています。そして、「それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています」と言っています(Ⅱコリント3:2 参照)。それは、パウロたちによって、コリント教会に福音が伝えられ、彼らの心は福音によってすばらしく変わったこと、それがパウロたちの良い働きを証ししているというのです。

すなわち、パウロは、「あなたがた(コリント教会)が、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙である」と言うのです。この手紙は、「墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたもの」だというのです。墨によって書くとは、偽教師たちが携えた推薦状のように、人が書いたものです。それに対して、キリストの手紙は、神の御霊によって書かれたものです。また、石の板とは、モーセの律法を表し、人々の心を石のように固く、冷たいものにし、そして言葉によって裁くものですが、心の板は温和で、愛で包み込むようなものです。

パウロがコリント教会の人々に、「キリストの手紙」だと言うように、私たち自身も、「キリストの手紙」なのです。私たちは、キリストの福音、すなわち、キリストの十字架の死によって与えられた罪の赦し、キリストの復活による永遠のいのちを与えられました。私たちがキリストを受け入れたときから、私たちの生き方は大きく変えられたのです。私たちの心にも、すばらしい変わりようがありました。

先ほど、皆さんと振り返りましたように、先週、顧問牧師はある施設での証をされました。その方の生き方を見て、先生は、その方の心にあるキリストの手紙をお読みになったのです。そして、その方のキリストの手紙を通して、ご自身をキリストに明け渡し、御霊によって心に書き出されました。それだから、先生の証しも、キリストの手紙なのです。

そして、私たちひとりひとりも、キリストの手紙です。キリストの手紙である私たちは、私たちの生き方を通して、すべての人に語り伝える力のあるものになったのです。

2.御霊に仕える務め

Ⅱコリント人への手紙3章4〜9節をお読みください。「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(Ⅱコリント3:6)

先月は教会の奉仕はチームによることを話しました。パウロがコリント教会を築くとき、パウロだけが働いたのではなく、実にパウロと共に働く人々の働きがありました。この働きをパウロは務めと呼びました。務めとは、ギリシア語でδιακονία(ディアコニア)といい、英語でministry、日本語だと「奉仕」を意味します。先に、パウロは、奉仕の資格について語っています。

パウロは「何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。」と言います。すなわち、「コリント教会を建て上げたのは自分たちだ」と主張しないというのです。なぜなら、「私たちの資格は神から与えられるものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さ」ったからです。神によってキリストの福音に仕える者にされたのだから、ただ当たり前のことを行ったに過ぎないというのです。そして、この奉仕はモーセがイスラエルに律法を伝え従うように勧めたこと以上に、栄光に富む奉仕であると言うのです。なぜなら、モーセが勧めた律法には、人の罪を裁きますが、罪を赦す力はありません。人々の罪を赦し、生かす力は御霊にあるのです。だから、彼らの奉仕は、御霊に仕える奉仕として、栄光を帯びたものだというのです。

だから、御霊に仕える務め(奉仕)を行う者は、人々に仕えるのではなく、その奉仕を御霊から与えて頂き、人々ではなく御霊に対して仕える者です。だから、その資格は人々ではなく御霊から頂くのです。御霊の導きにより奉仕をする者は、人々から賛辞を得ようとはしません。それは神様の栄光を帯びたものだからです。

私たちの内には内なるキリストが住んでおり、そのキリストが私たちに能力を与え、権威を与えておられます。私たちは人々の顔色をみて自らの奉仕をするのではなく、御霊の思いを知って自らが御霊に仕えるように奉仕をするのです。自分の力や能力、権力に頼らず、すべて神が私たちに与えて下さった恵みとして、御霊によって行うことです。旧約聖書の預言者ゼカリヤもこう言っています。

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は言われる。」(ゼカリヤ4:6)

先月、私たちはチームで教会に仕える仕組みを作りました。それぞれのチームにはリーダーがいて、チームは自律的に奉仕をすることができます。必要なことは、私たちは人に仕えるのではなく、御霊に仕えるということです。すなわち、神様の御心は何かをいつも考え、御霊の喜ばれることを実施することです。そして、それはパウロが言うように、人々を救い生かす栄光に満ちあふれた奉仕なのです。

(例話)

これから紹介するのは、ある方のお証しです。この方は、花を生ける奉仕をされています。

お花は、以前、習っていましたが、生ける事に対して苦手意識を植えつけただけで、正直あまり楽しくなかったのです。最初は、習った通りの型で生けていました。

しかし、ある時、無性にフラワーアレンジメントがしたくなりました。見様見真似で、自分の感覚を信じてアレンジしてみたら、今度はすごく楽しくなりました。自然界全部が神様の言葉だと感じ、お花の一本一本を、神様と会話しながら、生けていきました。

そうして生けたお花を、周りの方々から、『素敵ね、生け方を教えて欲しい。』と言われたのですが。

私は、聖霊様と共に、自分の感覚で生けているので、他の方々に教えることが出来ないのです。

私の生けるお花に流派は無いのです。自己流ですと伝えましたら、『あなたの生ける花は聖霊流だよ』と言われ、とても嬉しかったです。

人の評価のために神経を注ぎ、振り回されていくのは嫌だし、もしそうなら神様に取り除いていただきたいです。また人から褒められすぎるのも辛いです。

私のお花を見て、兄弟姉妹にも、1週間の疲れを癒していただけるようにと祈りつつ、生けさせていただいています。私ではなく、聖霊様に、私の腕を用いて、生けさせていただいている感じです。

そして、楽しく心のままに生けています。世間は、神様と反対の事を言うと感じています。

だから、私は、人から何を言われても、神様と会話をしながら、動いています。

私たちも、人の評価ではなく、私たちの内におられる聖霊に仕える奉仕者となりたいものです。

3.変えられていく手紙

Ⅱコリント人への手紙3章14〜18節をお読みください。「しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。」(Ⅱコリント3:16)「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。」(Ⅱコリント3:18)

パウロは、イスラエルの人々の理解が鈍くなったと言っています。イスラエルの人々は、キリストが来られても、キリストに従うことをしませんでした。なぜなら、彼らに、モーセの律法という覆いが掛けられていたからです。

出エジプト記34章29〜35節には、モーセの顔が輝いたため人々が近づくのを恐れ、モーセが顔に覆いを掛けたことが記されています。

モーセはシナイ山で神と会い、神から与えられた契約の石板を携えて降りてきたとき、神様の栄光を受けて、彼の顔は輝いていました。人々は、その輝きを恐れました。そのため、人々に輝きを見せないために、神様と会うとき以外は顔に覆いをしました。

この覆いは、今も多くのイスラエルの人々の心に掛かっているものです。どんな覆いなのか、それは、神様の裁きに対する恐怖心です。その恐怖心から、今も彼らはモーセの律法を事細かく守ろうとしています。

実に、この覆いは、キリストを知らない人々にも掛けられていると思います。日本人にとって、神は恐怖の存在だと思います。それは、神の怒りを鎮めて、災いが起こらないことを願う信心があるからです。これは、神を恐れるあまりに、かえって神から目を背けようとするのです。目を背けようとすることは、私たちの心に覆いをかけることと同じだと思います。

しかし、「人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます」とあります。立ち返るというのは、ἐπιστρέφω(エピストレフォー)という意味で、行動と人格全体が方向転換することを意味します。すなわち、福音を聞き、心から悔い改めし(μετανοέω(メタノエオー))、その結果として行動や人格が変えられていることを意味します。そのとき、私たちの覆いが取り除かれるのです。覆いを取り除かれたときに何が起こるか、御霊である主の姿を見ることができるようになるのです。

何度も私は皆さんに証していますが、私は神様のために何もできない自分を長い間、苦しんでいました。悔い改めても罪を犯してしまう自分、また、神様のご愛に対して何のお返しも答えもできない自分を自分自身で責めていました。ある夜、私はそのことに酷く自分を責め悲しむことがありました。そのとき、私の心の内に、御霊は来てくださり、私に対して、「そのままでいいんだ、わたしはあなたを深く愛している」とい声が聞こえました。私はそれ以来、自分を責めることを辞めました。私を深く愛して下さるお方の御心は、私が頑張って行うことではなく、神様が私を深く愛しておられることを知って喜ぶことを望まれているからです。

私たちは、「しなければならない」という重荷からではなく、「主のためにしたい」という喜びから奉仕を考えてみてはどうでしょうか。御霊は、私たちを深く愛しておられるのですから、私たちが喜びをもって御霊に仕えること、心から望んでおられるはずです。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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