先週は、イースター礼拝でした。顧問牧師はコリント人への手紙 第一 15章からお話されました。そこでは、パウロが復活されたイエス様について、多くの弟子たちの証言を元に証言をされていました。実際に、イエス・キリストの生涯を振り返ったとき、処女降誕と復活が最も理解ができないことだと思います。特に、科学の発展が著しい21世紀に、復活などを信じるのは滑稽だと思う人もいます。しかし、私はイエス様の復活は本当だと心底信じています。私はこれまで科学技術の様々な面で学んできました。その中で科学とは、繰り返し生じる現象から原理原則を導き出すものです。それには繰り返しが必要です。イエス様の出来事は、最初で最後のことであり、奇蹟と言われる分野です。ですから、科学では説明できないことなのです。そして、復活の主は、私、あるいは皆さんの人生をかけて体験していくことなのです。
さて、今日はヨハネの福音書15章の後半の部分から、「片思いの神の愛」について学びたいと思います。
1.世はイエスを憎んだ
ヨハネの福音書15章18〜21節をお読みください。
ヨハ15:18 世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。
15:19 もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。
イエス様は「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。」と言われました。イエス様は、この世界が私たちを憎むなら、既にイエス様を憎んだことを思い出しなさいと言われます。イエス様が福音を宣べ始める前に、荒野で悪魔の誘惑を受けました。
ルカ4:5 すると悪魔はイエスを高いところに連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、
4:6 こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。
4:7 だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」
悪魔は、イエス様に、この世界の栄華をみせました。そして、悪魔を拝むならあなたにあげようと言いました。もともと、この世界は、イエス様のものでしたが、人間の堕落によって、悪魔の支配に陥りました。イエス様は悪魔を拝み、悪魔に妥協することはしません。悪魔に支配されたこの世界は、造られた方である神様を知らず、イエス様も知りません。
ヨハ1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
そこでイエス様がされたことは、この世界から人々を選び、ご自分のものとしたのです。
15:19 わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。
この意味は、イエス様が世界から外に選び出したという意味をもっており、語源は違いますが、教会を意味するエクレシア(外に呼び出された人々)に近い意味を持ちます。
私たちは、イエス様によって、この世界から外に、イエス様のものとして選び出された者ですから、この世界から見ると、異邦人です。世界がイエス様を憎むなら、イエス様のものとなった人々も憎むというのです。
20節でイエス様は迫害という言葉を使っています。迫害とは、「狩人が獲物を追っていく」意味があります。ちょうど、イエス様が行動するところに、いつもパリサイ人たちが来て監視し嫌がらせをする有様に似ています。
キリスト教の歴史は、迫害の歴史であったともいえます。
初代教会は、ローマ帝国により迫害を受けました。多くのクリスチャンたちが殺され、隠れた生活を強いられました。当時、ローマ帝国は、今の日本のように、多神教的な寛容さをもつ社会でした。実際に様々な宗教が認められていました。しかし、ただ、キリスト教にだけは敵意を向けられました。その理由は、クリスチャンによる皇帝礼拝の拒否にありました。皇帝を主(ドミヌス)と呼ぶことを拒み、「主はイエス・キリスト」と告白するクリスチャンの存在は、ローマ帝国の政治的秩序の根底を揺るがすものでした。ローマ帝国は、皇帝を神格化することで秩序を守ろうとしました。しかし、クリスチャンは、その皇帝の神格化は嘘であると表明することになります。ローマ帝国は、故に、クリスチャンの存在を嫌ったのです。
日本の歴史には、長い年月の間、ずっとキリスト教を迫害してきた歴史があります。ことの始まりは1549年にフランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本に伝え、38年後の1587年にバテレン追放令が豊臣秀吉によって敢行されました。この背後には、ポルトガル・スペインが植民地化政策としてキリスト教を利用したという政治的な背景がありました。そればかりではなく、キリシタンたちの「主はイエス・キリスト」という告白、幕府の権威を越える存在があること、神の前に全ての人々は平等という思想が身分制度を根底から否定することから、踏み絵制度が250年間も続きました。明治時代になって隠れキリシタンが現れたとき、3400人が捕えられ、多くの人々が殉教しました。欧米からの抗議を受け、1873年にようやくキリスト教は解禁されました。1891年に内村鑑三不敬事件があり、クリスチャンを天皇を拝まない非国民とされました。太平洋戦争下では、神社参拝を強制されたようです。私はある先生が戦時中の話をされたのを聞いたことがあります。教会の礼拝のとき、礼拝堂に天皇を奉る祭壇があり、そこに敬礼してから礼拝をしていたそうです。クリスチャンにとって、「主はイエス・キリスト」と告白することはとても大変であったことがわかります。
現代の日本の社会は、どうでしょうか。日本国憲法で信教の自由が約束されていますが、クリスチャンホームに生まれなかった多くクリスチャンは、多くの問題を抱えます。イエス様に出合わなかったら、何も苦労することがないことばかりです。
私たちは、親族や家族の間で、仏壇・お墓・法事・檀家という慣習をめぐり、軋轢が生じるのです。また、地域では、神社の氏子やお祭りなどの慣習で軋轢が生じます。
例えば、仏壇でのお参り、墓参り、法事、お盆など、それまで何も問題なく正しい先祖への向き合い方をしてきたのに、クリスチャンとなったとたん、それが普通では無くなるのです。私自身、若いころにイエス様を信じてから、仏壇に手を合わせることをしなくなりました。そのことを家族にはどれほど悲しまれたかは今も理解しています。
このことをイエス様も知っておられました。
マタ10:34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。
10:35 わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。
このことは、イエス様への忠誠と家族への忠誠が真っ向から衝突することを意図しています。
家族や親族は大切な身内ですから、それを裏切るような態度は自分自身とても辛いです。それでも、私は「主はイエス・キリスト」と告白します。それは、私のために命懸けで死んでくださったイエス様を知ったから、また、いまも、私を支え愛して下さるお方を知ってしまったからです。
それでは、私は何ができるでしょうか。私は、拝むことはしませんが、先祖や亡くなった身内を大切にしたいと思っています。また、イエス様を知らず、理解できない家族が先祖や亡くなった方を想い手を合わせる心も尊重したいと思います。また、地域では神社に関わる役はすべて断っていますが、それ以外の役は積極的に引き受けようと思います。
ロマ10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
ローマ10:9の「イエスは主」と告白することに、イエス様から選び出された人々は、命がけで告白してきのです。迫害は、世はイエス様を憎んだからであり、一方で、世からキリストの者として選び出されたことの証でもあるのです。
2.神は実に世を愛された
ヨハネの福音書15章22〜27節をお読みください。「わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいます。」(15:23)、また「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」(15:26)と語られています。
22節の御言葉は、イエス様がこの世界に来られて御言葉を語らなかったら、罪は無かったとありますが、これは自分の罪を弁解することができたかもしれませんという意味です。人類の堕落以降、この世界の人々は神様を知らずにそれぞれ自分勝手な道を歩むことができました。もし世の終わりがやってきて、最後の審判で神様の前に立たされ、自分の生涯の裁きを受けるとしたらどうでしょうか。私は、神様の裁きがあるなんて知らなかった、知っていたらもっと正しく生きたはずだと、弁解ができたかもしれません。イエス様は、イエス様の言葉、そして、わざを体験して、それでもイエス様を拒むならば、それは弁解することはできないと言っています。
私たちも、創造主である神様を知り、その神様が私たちを愛し、イエス・キリストが罪のために十字架に架かり、私たちに罪の赦しの恵みを与えて下さると知った。それでもなお、この神の愛を退け、キリストの十字架の赦しを受け入れないならば、あなたはもう弁解の余地はないというのです。
それならば、イエス様の福音を聞かなければよかったと思うなら、それは神様の愛を拒否したいという思いがあるからかもしれません。
神を知らないという人々にも、聖書は弁解の余地はないとはっきり言っています。
ロマ1:20 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
1:21 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。
(ローマ1章20〜23節をお読みください。)
実は、私たちは神様という存在がおられることを知っているというのです。しかし、その本当のお方を知っているはずなのに、神と認めないところに問題があります。
一方、聖書は何と言っているか。
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神様は実に世を愛されたのだと言っているのです。それは、イエス・キリストを信じる者が滅びることなく永遠のいのちをもつために、私たちに与えられた。私たちの罪を許すために十字架にかけられ死なれ、私たちが永遠のいのちをもつために復活されたのです。これほどの神の愛を受けていながら、その愛を拒むことに何の理由があるのでしょうか。
神様は、実にこの世を愛されました。しかし、この世はイエス様を憎んでいます。ここに、神様の片思いの愛があります。「主はイエス・キリスト」この言葉の重さを深く感じます。
先週、香港から来られた、ある教会の牧師の集会に参加させていただきました。
その教会では、中国宣教180年の記念に、中国宣教の父と呼ばれるロバート・モリソン師の墓で献花を奉げたそうです。このモリソン師は中国宣教の後、中国の地で亡くなられたといいます。そして、それから多くの宣教師が中国を訪れましたが、ほとんどが中国で捕えられ殺されていったと言います。この牧師は、中国に多くの宣教師が来られたが、これまで中国から世界に宣教した人はいないということに気づいたそうです。そして、この牧師は、このように祈られました。「神様、私たちを用いて下さい。福音のために、あなたに奉げます」
このように祈られたのは、彼の霊の父の言葉があったからだと語っています。彼は、若いころ、教会の礼拝に出ることが嫌いでした。しかし、あるきっかけで、若い彼を預かり、彼と共に過ごし、彼を指導する人に出合いました。彼は、霊の父と呼んでいますが、その人の生き方は、完全に主の僕としての生き方であったそうです。そして、この牧師に語られた言葉は、「神は実に世を愛された。この神があなたのうちにおられるなら、あなたも世を愛するはずである。」この言葉に立って、この牧師は神様に自分と教会を奉げたと言います。現在、この牧師の教会は、多くの宣教師を世界各地に派遣し、神様の愛を現わす宣教をしています。能登半島の大きな地震の後、能登の復興のために、現在も何人かの宣教師たちが能登に入り人々を助ける仕事をされています。
イエス様は言いました。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。」と。このように、イエス様にこの世から選ばれたクリスチャンは迫害を受け憎まれます。しかし、イエス様は、実にこの世を愛されました。これは、神様の片思いの愛です。そして、この片思いの愛は、私たちにも同じように愛することを求めます。「イエスは主」と告白することは、私たちの取り巻く世界から異物のように嫌われるかもしれません。しかし、イエス様が愛したように、私たちも隣人を愛する者となりたいと思います。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。