あなたを独りにはしない — 共に住まわれる助け主

聖書箇所:ヨハネ14:15〜26

説教者:高橋堅治

皆さん、おはようございます。

しばらく間が空いてしまいましたが、今日からまたご一緒に、ヨハネの福音書の旅を続けていきましょう。お休みしていた間、皆さんの歩みはいかがだったでしょうか。

これまで皆さんとこの福音書を読み進めてきましたが、皆さんの心には、どんな場面や言葉が残っているでしょうか。

ヨハネの福音書は、他の福音書とはまたひと味違う、独特の「心の深み」がありますよね。イエス様が何を語られたかだけでなく、その時、イエス様がどんなお心であったか、その「内側」まで深く触れさせてくれるのが、この福音書の大きな魅力です。

振り返れば、物語はイエス様の公の働きから始まり、弟子たちの心が揺さぶられ、主に従う決断が描かれてきました。ベタニアの村で、死んだラザロを生き返らせるという、あの驚くべき「命の奇跡」が起こったとき、皮肉にも、闇の勢力はイエス様を亡き者にしようと、その包囲網を急速に狭めていきました。そして物語は、13章……あの「最後の夜」へと突入しました。

弟子たちは、イエス様が自分たちの足を洗ってくださるという、身を切るような愛を体験しました。しかし同時に、その場には「裏切り」の予感と、「先生がいなくなってしまう」という、言いようのない重苦しい不安が漂っていました。

今日開く14章15節から26節は、その不安の真っ只中で語られた、イエス様の「遺言」とも言える大切なメッセージの一部です。愛する人が去っていく。残される者はどうすればいいのか。

この絶望的な状況の中で、イエス様が語られたのは、意外にも「愛」と「平安」、そして「もう一人の助け主」の約束でした。

「もし、あなたがたが私を愛しているなら……」イエス様はそう語り始められます。

今日はこの箇所から、三つのことをご一緒に味わいたいと思います。

  • 愛とは、主と共に歩むという「決心」。
  • 十字架がもたらした「心の直通電話」
  • 私たちの弱さに寄り添う「最高の味方」

今、不安や孤独を抱えながら生きる私たちに、主はどのような希望を語りかけておられるでしょうか。ご一緒に、御言葉の深い海へと漕ぎ出していきましょう。

1.愛とは、主と共に歩むという「決心」

ヨハネの福音書14章15節、21節、23〜24節をお読みください。「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:15)

さて、ここから一つ目のポイントに入ります。「イエス様を愛する」とは、具体的にどういうことなのでしょうか。

皆さんは、「好き(Like)」と「愛している(Love)」の違いについて、考えたことがあるでしょうか。

「好き」というのは、言わば「感情」です。「今日は気分がいいから好き」「あの人のここが素敵だから好き」。しかし、感情は天気のように変わるものです。

それに対して、聖書が語る「愛」は、感情を超えた「意志」であり「決意」です。相手のために行動し続ける、という「揺るがないコミットメント(約束)」のことなのです。

イエス様はこう言われました。「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」

これは、「私のことが好きなら、言うことを聞きなさい」という強制ではありません。むしろ、「私を信頼して人生を預けると決めたなら、私の言葉を大切にして歩みたくなるはずだよね」という、愛の招きです。

「イエス様を愛します」という告白は、単に気持ちが高ぶることではなく、「イエス様の言葉を人生の指針として生きていきます」という「人生の方向転換」を意味します。

一番わかりやすい例が、結婚式です。

結婚式の誓約を思い出してみてください。「健やかなる時も、病める時も……命ある限り、愛し、敬い、支え合うことを誓いますか?」ここで新郎新婦は「はい、誓います」と答えます。

これは「感情の約束」ではなく「意志の約束」です。「病気の時も、喧嘩をした時も、感情がついてこないような時であっても、私はあなたを愛し、大切にすると決意しました」という宣言。これこそが、聖書が語る「愛」の姿です。

子育てもそうですね。子どもが夜泣きをして、ヘトヘトになり、可愛いと思える余裕がない時でも、親は子を守り、慈しみます。それは感情を超えた「愛という決意」があるからです。

イエス様を愛するのも同じです。自分の状況が良くても悪くても、イエス様の言葉を信頼して、一歩を踏み出す。その「決心」こそが、イエス様が喜んで受け取ってくださる愛の形なのです。

「でも、自分にはそんな強い意志なんてない……」と思われるかもしれません。安心してください。この「愛の決心」には、驚くべき神様の応答がセットになっています。

イエス様はこう約束されました。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛されます。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現します。」さらに、「父もわたしもその人のところに行って、その人と一緒に住みます。」

これは、宇宙を造られた神様が、あなたの人生という家の中に「引っ越してきて、共に暮らす」と言ってくださっているのです。

あなたが「イエス様、あなたに従います」と手を伸ばすとき、神様もまた、全力であなたを抱きしめ、あなたの生活のど真ん中に居座ってくださる。人生の労苦も、喜びも、すべてを分担してくださるのです。

では、目に見えないイエス様が、具体的にどうやって私たちと共に住んでくださるのか。そこには、「十字架」という大きな出来事を通した、私たちの想像を超える「変化」がありました。次に、その「変化」について見ていきましょう。

2.十字架がもたらした「心の直通電話」

さて、ここから話はさらに深まります。

イエス様は、十字架にかかられる前と後で、私たちとの関係が劇的に変わるとおっしゃいました。その鍵を握るのが、三つ目のポイントである「聖霊」なる神様です。

イエス様は、不安がる弟子たちにこう約束されました。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでも、あなたがたと、ともにおられるようにするためです。」(16節)

ここで「助け主」と訳されている言葉は、元の言葉(ギリシア語)では「パラクレートス」と言います。これは「そばに呼ばれた者」という意味です。

何かあったとき、すぐに駆けつけて助けてくれる弁護人のような、あるいは人生のどんな嵐の中でも一番近くで支えてくれる親友のような存在、それが聖霊様です。

イエス様は、私たちを「孤児」にはしない、と力強く宣言してくださいました。これは、「あなたを一人ぼっちで放り出したりはしない。見捨てたりはしない」という、主の愛の誓いです。

では、具体的に何が変わるのでしょうか。

これまで弟子たちにとって、聖霊は「外側から」働く存在でした。しかし、イエス様が十字架にかかり、復活された後は違います。イエス様は「その方(聖霊)は、あなたがたの中に、内におられるようになる」と言われたのです。

これは比喩ではありません。イエス様が天に帰られた今、イエス様の代わりである聖霊様が、私たちの心のど真ん中に「住まい」を構えてくださるのです。

この変化は、通信手段の歴史に例えると分かりやすいかもしれません。

昔、携帯電話がなかった頃を思い出してください。大切な人と話すには、家に帰って黒電話を使うか、公衆電話を探さなければなりませんでした。「特定の場所」に行かないと、つながれなかったのです。かつての礼拝もそうでした。「エルサレムの神殿」に行かなければ、神様に近づけないと思われていました。

しかし、今はどうでしょう。私たちは皆、スマートフォンを手にしています。出張先でも、家事の最中でも、電車の中でも、いつでもどこでも、一瞬でつながることができますよね。

聖霊様が与えられたというのは、それ以上に素晴らしいことです。電波の状態や充電を気にする必要もありません。聖霊という「最高のつながり」によって、いつでも、どこでも、絶望の淵にいるときでさえ、私たちは神様と直通でつながっているのです。

いえ、つながっているだけではありません。「つながる道具(スマホ)」と違うのは、聖霊様は「意思を持ったお方」として、あなたの内で共に喜び、共に泣いてくださるということです。

かつて神様の教えは、石の板に刻まれていました。しかし今、聖霊様が私たちの内に来られることで、神様の思いは、私たちの「心の板」に直接書き記されるようになりました(エレミヤ31:33)。

これを専門的な言葉で「相互内在」と言いますが、こう覚えてください。「イエス様が私の中に、私がイエス様の中に」。

ティーバッグを熱いお湯に入れると、お湯が紅茶になり、紅茶がお湯の中に満ちるように、私たちはイエス様と分かちがたく、ぴったりとした一体感の中に生かされているのです。

だからこそ、私たちはどんな場所でも祈り、賛美することができます。なぜなら、あなたの体そのものが、今や「神様の住まい」となっているからです。

3.私たちの弱さに寄り添う「最高の味方」

さて、先ほど「イエス様を愛するとは、従おうと決心することだ」とお話ししました。でも、こう聞くと、「決心」という言葉にプレッシャーを感じてしまう方もおられるのではないでしょうか。

正直なところ、私たちの決心というのは、なんと脆いものでしょうか。

「今日からダイエットをするぞ!」と固く決意しても、目の前のお菓子に負けてしまう。いわゆる「三日坊主」です。私も耳が痛い思いです。

自分の好きなことですら続かないのに、ましてや、聖書の教えに従って、自分を捨てて愛し、仕えて生きるなんて……。自分の力だけでできるはずがありません。自力に頼ろうとすればするほど、私たちは挫折感を味わうことになります。

しかし、まさにそのために、聖霊なる神様が来てくださったのです。

聖霊は、私たちの弱さを責める方ではありません。むしろ、私たちが小さな声で「イエス様、私は弱いです。でも、あなたに従いたいです」と決意したその瞬間を、誰よりも喜んでくださる方です。そして「よし、私が一緒に歩こう」と、私たちの背中をそっと押してくださるのです。

私自身の話をさせてください。

以前、私が教団のある務めに就いた時のことです。ある方から、非常に厳しい言葉を投げかけられました。神学校で学んでいない者は、神の召命を受けていない、と。

私はその言葉に深く傷つきました。自分は主から認められていないのか。主が私に語って下さったこと、そして私が自分の仕事や生活を犠牲にしてまで仕えようとしてきたことは、無意味なのか……。夜、一人になると悲しみが押し寄せ、私は神様に泣きながら訴えました。

その時です。私の心の中に、聖霊の静かな、しかし確かな語りかけが響きました。

「子よ。あなたの悲しみを、私は知っている。……わたしを見てごらん。わたしはこの二千年もの間、人々に仕えてきたが、いつも目立たない存在だった。わたしは、あなたにもそのような者であってほしいのだ。」

ハッとしました。聖霊は、父なる神と主イエスを指し示すために、ご自身は決して表舞台に立たず、縁の下の力持ちとして二千年間、教会を支え続けてこられた。その聖霊が、「私はあなたの痛みを知っている。私があなたを認めている」と言ってくださったのです。

「人の評価ではなく、このお方が私を知ってくださっているなら、それで十分だ」。そう思えた時、私の心に新しい力が湧き上がり、仕える決心を新たにすることができました。

ヨハネの福音書14章26節で、イエス様はこう約束されました。

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださるのです。」(ヨハネ14:26)

聖霊は、私たちが孤独な時、傷ついている時、一番必要な「イエス様の愛の言葉」を、最高のタイミングで思い出させてくださるお方です。

パウロも、こう言っています。

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)

あなたが「イエス様を愛したい」と願うその「志」さえも、実は聖霊があなたの中で始めてくださった仕事です。そして、それを実行する力も、聖霊が注いでくださいます。

ですから、愛する皆さん。自分の弱さを見つめてため息をつくのは、もう終わりにしましょう。あなたの内に住んでくださる、この謙虚で力強い「助け主」を見つめてください。不平や疑いを捨てて、聖霊が思い出させてくださるイエス様の言葉を、しっかりと握りしめましょう。

そうすれば、私たちはこの世にあって、自分自身の力ではなく、神様の光を放つ「世の光」として輝くことができます。私たちの歩みは、聖霊と共にある限り、決して無駄にはなりません。

やがてイエス様ともう一度お会いするその日、「あぁ、聖霊に助けられて、ここまで来ることができました」と、その労苦を誇りに思い、主と共に喜び合う時が必ず来ます。

今週も、この素晴らしい助け主、聖霊と手を取り合って、イエス様を愛する喜びの歩みを進めてまいりましょう。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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