愛にこたえる人生の使命

聖書箇所:ヨシュア13:1〜7

説教者:高橋堅治

今日は、聖書を通して、私たち自身に与えられている「人生の使命」について、ご一緒に考えてまいりましょう。

1.神の手に握られる喜び

さて、ここからは聖書を通して、「神様は、私たち一人一人にどんな目的、どんな使命を与えておられるのか」について、ご一緒に考えてみたいと思います。

「使命」と聞くと、なんだか難しそうに感じるかもしれません。でも、簡単に言えば、「私たちは、たまたま生まれてきたのではなく、神様の目的があってここに置かれている」ということです。

このことを考えるために、ある興味深い「たとえ話」をご紹介しましょう。香川県に「松原・琴林(ことばやし)公園」という場所があります。そこには、掃除用の「熊手」があちこちに置かれていて、そばに「わたしを5分間使ってください」という看板があるそうです。観光客がそれを見て面白がり、熊手を使って掃除をするので、公園はいつも綺麗だそうです。でも、この熊手たちは、毎日使われるので2年ほどで壊れて、取り替えられてしまうそうです。

一方で、私の家の物置の奥には、もう10年も置きっぱなしの熊手があります。ほとんど、使われていません。

さて、もし皆さんが「熊手」だとしたら、どちらの人生(熊手生)がいいでしょうか?「2年ですり減ってしまうけれど、持ち主の手に握られて、役に立って終わる熊手」それとも「10年間、ほとんど、持ち主の手に触れられることなく、ただ物置に飾られている熊手」

私なら、やはり「使われる熊手」でありたいと願います。道具は、使われてこそ輝くからです。私たち人間も同じです。

聖書はこう語ります。

「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10)

私たちは、神様の作品、神様の道具です。しかし、ここで誤解しないでください。「神様に使われる」というのは、元気に動き回ることだけではありません。病気で寝ている時も、年老いて体が動かない時も、私たちが神様と共に歩むなら、私たちは立派に「神様の御手の中」にあります。重要なのは、「どれだけ動けるか」ではなく、「持ち主である神様の手に握られているか」です。神様の手に握られて生きること、それが私たちの目的であり、使命の第一歩です。

では、神様が私たちに求めておられる「良い行い」とは、具体的に何でしょうか?

マタイの福音書26章に、ある女性の姿が記されています。ベタニアのマリアです。彼女は、イエス様が十字架にかかられる直前、非常に高価な香油の入った壺を持ってきて、惜しげもなくイエス様の頭に注ぎました。弟子たちは「もったいない!無駄だ!」と怒りましたが、イエス様は言われました。「わたしに良いことをしてくれました。」(マタイ26:10)

マリアは、イエス様を愛していました。言葉だけでなく、自分が一番大切にしているものを捧げることで、その愛に「こたえた」のです。これが、聖書が言う「良い行い」です。神様の愛に、感謝と愛で応答することです。

「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」(マタイ26:7)

しかし、ここで私たちは思います。「マリアはいいなぁ。目の前にイエス様がおられたから、直接香油を注ぐことができた。でも、イエス様はもう天に帰られて、ここにはおられない。私たちはどうやって、イエス様に愛を注げばいいのだろう?」

その答えが、マタイの福音書25章にあります。「最後の審判」の場面で、王であるイエス様は、正しい人たちにこう言われるのです。「あなたがたは、わたしが空腹であったときに食べ物を与え、病気のときに見舞ってくれたね」と。正しい人たちは驚いて、「主よ、いつ私たちは、あなたにそんなことをしたでしょうか?私たちはあなたのお顔を見たこともありません」と答えます。その時、イエス様ははっきりと言われました。

「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)

これが答えです。目の前にいる家族、職場の同僚、助けを必要としている隣人。その人たちに親切にすること、愛を持って接すること。それが、そのまま「イエス様に香油を注ぐこと」になるのです。

神様の愛に「ありがとう」と応答して、隣人を大切にする。その時、私たちは「物置の熊手」ではなく、神様の手にしっかりと握られた「生きた器」として、輝くことができるのです。

2.形を変えて続く神の計画

ヨシュア記13章1〜7節をお読みください。ヨシュアが年を重ねて老人になったとき、主が、占領すべき地がまだ非常にたくさん残っていると告げ、その地を相続地として分け与えるよう命じられる場面です。

さて、私たちの「使命」について、旧約聖書のヨシュアという人物を通して、もう少し深く見ていきましょう。

ヨシュアは、モーセの後継者として、イスラエルの民を約束の地「カナン」へと導いた偉大なリーダーです。彼は若い頃から戦いの最前線に立ち、神様の命令に従って勇敢に戦ってきました。しかし、そんなヨシュアも、やがて年を重ねます。ヨシュア記13章1節には、このように書かれています。

「ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。【主】は彼に告げられた。『あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。』」(ヨシュア13:1)

当時、ヨシュアはおそらく100歳前後でしょう。もう十分すぎるほど働きました。ところが神様は、「あなたは老人になった」と認めた直後に、「しかし、やるべき仕事(占領すべき地)は山ほど残っているぞ」と言われるのです。

一見すると、これ、ちょっと怖い言葉ですよね(笑)。現代風に言えば、「君はもう定年だけど、ノルマはまだ達成できていないから、死ぬまで働け」と言われているようで、なんだか「ブラック企業の社長さん」みたいに聞こえるかもしれません。皆さんも、「神様、もう年ですから勘弁してください…」と言いたくなる時がありませんか?

しかし、神様は決してブラックな主人ではありません。神様はヨシュアに、「老体に鞭打って、今まで通り剣を持って戦え!」とは言われませんでした。続く6節と7節の言葉に注目してください。

「……わたしがあなたに命じたとおり、あなたはその地をイスラエルに相続地としてくじで分けよ。今、この地を九部族とマナセの半部族に相続地として割り当てよ。」(ヨシュア13:6〜7)

ここにとてつもない「恵み」があります。これまでヨシュアの仕事は「先頭に立って敵を追い払うこと(=戦うこと)」でした。しかし、ここからの神様の命令は違います。「敵を追い払うのは、わたし(神)がやる。だからヨシュア、あなたのこれからの仕事は、民に土地を分け与えることだ」と。

神様は、ヨシュアの年齢と体の弱さをちゃんとご存知でした。だからこそ、「使命」そのものは取り消さず、「使命を果たすためのやり方(役割)」を変えてくださったのです。

「戦士」としての役割は終わりました。しかし、「長老として、民に神の恵みを分配する」という新しい役割が与えられたのです。ヨシュアの人生を貫く使命、「神の民を安息の地に導く」という目的は変わりません。でも、そのアプローチは、若き日の「剣」から、老年の「采配」へと変化しました。

これは、私たちにとっても大きな励ましではないでしょうか。私たちは年をとったり、環境が変わったりすると、「もう昔のように奉仕ができない」「誰かの役に立てない」と落ち込むことがあります。しかし、神様は「あなたの使命は終わりだ」とは決しておっしゃいません。「あなたの使命はまだ続いている。ただ、今のあなたにふさわしい、新しいやり方に変えよう」と招いてくださるのです。

先ほどお話しした通り、私たちの人生の目的は「神様の愛に応えて、良い行いをする(隣人を愛する)」ことです。若い時は、体力を使って奉仕をしたり、あちこち走り回って人を助けることがその「やり方」だったかもしれません。しかし、年を重ねたら、今度はその経験を用いて人の相談に乗ったり、静かに祈りを捧げたり、あるいはただそこにいて微笑むことで、神様の愛を「分配する」役割に変えられるのかもしれません。

使命は、一生終わりません。ただ、その時々の年齢や状況に合わせて、神様が必ず「今のあなたにできる、最善のやり方」を備えてくださいます。ですから私たちは、どのような時も焦らず、安心して、神様の御手の中で生きていくことができるのです。

3.日常を「香油」に変えて

ここまで、私たちに与えられている使命は「神様の愛に応えて、良い行いをすること」だとお話ししてきました。しかし、神様は、その「良い行い」をどのような形で行うかについて、一人一人に「オーダーメイドの計画」を用意してくださっています。

新約聖書を見ると、パウロやペテロといった人たちが登場します。イエス様は、パウロには「異邦人に私の名を伝える」という使命を与え、ペテロには「私の羊を牧しなさい(教会を導きなさい)」という使命を与えられました。それぞれ、役割も性格も違いますが、神様から「あなたにしかできないこと」を託されたのです。

「しかし、主はアナニアに言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。』」(使徒9:15)

「わたしの羊を牧しなさい。」(ヨハネ21:16)

では、自分の使命はどうやって見つかるのでしょうか?それは、人から言われるものではありません。誰かがこう言ったから、とか「有名な誰かが言ったから」ではありません。使命とは、神様ご自身が、あなたの心に直接語りかけてくださるものです。

たとえば、マザー・テレサをご存知でしょう。彼女はある日、汽車に乗っている時、神様から「最も貧しい人たちの中にいき、彼らに仕えなさい」という特別な呼びかけを聞きました。それをきっかけに、彼女は安定した学校教師の立場を離れ、スラム街へと入っていきました。大変な道でしたが、彼女の心には深い「喜び」と「確信」があったと言います。

使命とは、たとえ体が疲れたとしても、心が満たされるものです。「私はこのために生きているんだ」という深い喜びがある場所、それがあなたの使命の場所です。

以前にもお話ししたことがありますが、ある日本人女性の証しをもう一度シェアさせてください。彼女はカナダに移住しましたが、言葉の壁もあり、病院の掃除婦として働くことになりました。最初は「こんな仕事、したくない」「生活のために仕方がない」と、不満を抱えて働いていたそうです。しかしある日、「神様はすべての人に使命を与えておられる」という話を聞いて、ハッと気づかされたのです。

彼女は思いました。「イエス様は、人々の罪や汚れをきよめるために、この世に来てくださった。…あれ?私が毎日している『掃除』も、汚れを落としてきれいにすることだ。ということは、私はイエス様と同じような働きをしているのではないか!」

その瞬間、彼女の中で「掃除」が「雑用」から「聖なる使命」へと変わりました。彼女は決心しました。「イエス様のような掃除婦になろう」と。人が見ていなくても、心のこもった掃除をする。汚れを見逃さず、徹底的にきれいにする。そして、すれ違う患者さんには、イエス様のような笑顔で接する。彼女は、モップがけをしながら、祈りを捧げ、愛を注ぐようになったのです。

その結果、どうなったと思いますか?彼女はその病院で「年間最優秀職員」に選ばれました。通常は医師や看護師長しか選ばれない賞です。しかし、賞をもらったこと以上に素晴らしかったのは、彼女の毎日の仕事が、イエス様に捧げる「香油」になったということです。

皆さん。私たちも同じです。牧師や宣教師になることだけが使命ではありません。主婦として家庭を守ること、会社で誠実に仕事をすること、地域でゴミ拾いをすること、病床で家族のために祈ること。その場所で、イエス様の心を胸に抱いて行うなら、それは立派な「使命」です。

最初に、マリアがイエス様に香油を注いだ話をしました。カナダの女性にとっては、日々の掃除が香油でした。皆さんにとっての「香油」は何でしょうか?

あなたが今置かれているその場所こそが、神様があなたを「遣わした」場所です。熊手のように神様の手に握られ、ヨシュアのように年齢に応じたやり方で、そしてこの女性のように愛を込めて。今週も、それぞれの場所で、小さなイエス様(隣人)に愛を注いでいきましょう。それこそが、私たちが生まれてきた目的であり、人生を貫く使命なのですから。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

聖書書名: