しばらくヨハネの福音書の学びをお休みしていましたが、本日より、再びヨハネの福音書の解説に入らせていただきます。
前回はヨハネの福音書12章20~33節から「十字架、それは世界の転換点」という題でお話ししました。実際に、この世界はイエス様の十字架によって大きく変わりました。
本来は次に13章を扱う予定でしたが、本日取り上げる37節からの御言葉を無視するわけにはいきませんでした。この箇所は、イエス様がご生涯の中で民衆に語られた最後のお言葉だからです。そしてこのお言葉は、当時の民衆だけでなく、私たちに対しても、ヨハネの福音書が書かれた目的を示しています。
すなわち、ヨハネの福音書の目的とは、
ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
この御言葉のあとには、イエス様と弟子たちのお話、そして十字架と復活が続いていきます。
1.イエスを信じるとは
ヨハネの福音書12章37〜43節をお読みください。イエス様がこれほど多くのしるしを行われたのに人々は信じなかったこと(12:37)、議員たちの中にも信じた者が多くいたことが記されています。
12:42 しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。
12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。
今日の御言葉が、イエス様の公生涯で民衆に語られた最後のお言葉だとすれば、私たちはまず、イエス様の公生涯をもう一度振り返ってみる必要があります。
イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられると、公生涯と呼ばれる約3年半にわたり、「神の国の福音」を宣べ伝える活動を始められました。ヨハネの福音書1章では、バプテスマのヨハネの弟子たちの中から、最初の弟子たちがイエス様のもとに集まりました。アンデレが最初に弟子となり、アンデレの兄弟シモン・ペテロも紹介で加わりました。さらにピリポが弟子になり、ピリポの紹介でナタナエルが加わりました。その後、弟子たちはイエス様とともに歩き、多くのしるし(奇蹟)を体験しました。
公生涯での最初の奇蹟は、カナの婚礼で水をぶどう酒に変えられたことでした。また、過越しの祭りのときには、さまざまな病人を癒やされ、それを見たニコデモが夜にイエス様のもとを訪れました。その後も、王室の役人の息子の病を権威によって癒やし、安息日にはベテスダの池にいた病人を癒やされました。しかし、安息日に人を癒やしたことで、律法を厳しく守ろうとする宗教指導者パリサイ人たちが敵対するようになりました。
イエス様はその後も、人々に福音を語りながら多くの奇蹟を行われました。一方で、パリサイ人たちはあらゆる場面でイエス様を妨害しようとしました。イエス様を信じる人々を会堂から追放したり、姦淫の現場で捕えた女性を使ってイエス様を迷わせようとする策をめぐらせたりしました。
ヨハネの福音書11章では、エルサレム郊外のベタニア村でラザロを死後4日目に蘇らせる奇蹟を行われます。この出来事を見たユダヤ人たちは驚き、多くの人がイエス様に興味を持つようになりました。過越しの祭りの前、イエス様がエルサレムに入られると、人々は心から歓迎しました。しかしイエス様を憎むパリサイ人たちは、当時の宗教指導者たちと共謀して、イエス様を捕えて殺そうと計画しました。多くの人はイエス様をキリストと信じたいと思いながらも、そう告白するとユダヤ社会から追放されるのではないかという恐れを抱いていたのです。
だから、「これほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった」とあります。聖書はそのわけをこう説明しています。「それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった」と。
まず一つ目の御言葉は、イザヤ書53章1節にある
「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」
です。イザヤは「だれが信じたか」と問うています。これは「だれも信じなかった」という意味です。その理由は、そこにうたわれている人物が
「蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3)
とあるからです。これは、人々がイエス様をどのように見ていたかを示しています。私たちは外見だけで判断して、イエス様がキリストであると信じることができなかったのです。
また、イザヤはさらにこう言っています。
「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」
これは、神様が人々の心をかたくして、イエス様を理解できないようにされたことを示しています。
このことは神様の計画でした。心がかたくされた人々は、イエス様をキリストとして受け入れず、十字架につけて殺してしまったのです。その後、ペテロはエルサレムでの説教でこう語りました。
「使 2:36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
しかし、それでも多くの議員がイエス様を信じていました。ここでいう「議員」とは、当時のユダヤ最高議会サンヘドリンの人々のことです。サンヘドリンは、大祭司が議長をつとめ、70名の律法学者や長老で構成されていました。彼らは宗教や民事・刑事の裁判をし、法律を定め、律法学の教育も行っていた、とても優秀な人たちです。
だからこそ、中にはイエス様こそキリストだと心から認めた人もいました。しかし、彼らは口に出して告白しなかったのです。
しかし、イエス様は、マタイ16章13~15節にあるように「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねておられます。イエス様は、私たちに、「イエス様は私の○○」という告白を期待しています。ここでペテロが次のように答えています。
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)
そして、この答えを、イエス様は喜ばれました。
「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」(マタイ16:17)
キリストであると信じたのは、創造主が明らかにされたからであり、御霊の働きによるのです。
キリストと告白することはとても重要です。心でイエス様を信じるだけでは不十分なのです。なぜなら、キリストによる救いは、告白をして初めて得られるからです。(ローマ10:9, 10)
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
しかし、これらの議員たちは告白しませんでした。その理由は、次のような決まりがあったからです。
ヨハ9:22 すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。
もしイエス様をキリストと公に告げれば、会堂から追放され、ユダヤ教の共同体から排除されることになります。それはサンヘドリンの議員としての立場を失うことを意味しました。議員はその地位によって、名声や権力、富を保証されていました。ユダヤ社会で大きな尊敬を受け、ローマ帝国の制限がある中でも裁判や立法の権力を持ち、会堂での講義料や支援金も得ていたのです。
もしイエス様をキリストと告白すれば、そうしたすべてを失うことになりました。しかし、聖書は彼らについてこう述べています。
「彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した。」
この言葉が示すように、彼らは人の評価を恐れて、真実を口にしなかったのです。
ですから、現代において、イエス様を公けにキリストと告白するとはどういうことでしょうか。
まず洗礼があります。洗礼は「イエス様をキリストと信じます」と公に告白することを意味します。洗礼を受けた人は「私はクリスチャンです」とだれにでも言えるようになります。あなたは、自信をもって「私はクリスチャンです」と人に言えますか。
もし言えないとしたら、サンヘドリンの議員たちのように、自分の立場を失うことを恐れているのかもしれません。クリスチャンと告白することで、何を失うと感じますか。人から「いい人だね」「立派だね」と言われることばかり気にして、自分の価値をそこに求めているなら、私たちも「神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した」と言えます。
パウロもこう言っています。
「ガラ 1:10 今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」
人からの栄誉を一言でいうと、世間体です。世間体とは、周囲の人々から自分が認めらてることで、周囲の人々に自分を愛してほしいと求める生き方です。一方、神からの栄誉とは、神様に愛されている自分を認めることです。そして、神様が愛して下さる自分を知って、自らが神様を愛し、神様が愛しておられる隣人を自分と同じように愛することです。この神からの栄誉こそ、人間の本来の生き方と言えます。なぜなら、「愛されている者として、積極的に愛していこうとする生き方」だからです。
ですから、まず、私たちは救いのために、イエス様をキリストと告白しようではありませんか。特に、イエス様をキリストと公けに告白することは、洗礼です。洗礼は、イエス様は救い主と公けに告白することも意味しています。そして、この洗礼を受けた事実があると、私たちは堂々と「私はクリスチャン」と言えるようになるのです。そして、クリスチャンであるなら、自信をもって、「私はクリスチャン」と告白しようではありませんか。また、私たちは神の栄誉を愛する者として、自信を持ちましょう。もし、自らが「クリスチャン」と言えば、人から「本当にクリスチャンなの?」と言われるのではないかとか、クリスチャンと告白する自分のために、神様の御名が汚されるのではと心配する人もいるでしょう。心配しないでください、神様の栄光は、私たちのちっぽけな人間で汚されるものではありません。また、クリスチャンは、「よい人」「立派な人」ではありません。よい人、立派な人とは世間体であり、それは人からの栄誉です。神様の栄誉を頂いたものとして、自分が駄目な人間であることを認め、キリストに頼って生きていく者となりましょう。なぜなら、イエス様を信じるとは、自分の行為ではなく、イエス様の行為に頼って生きるということであり、自分が、愛されているから愛する、赦されているから赦すことができるのです。
2.イエスを信じる生き方
ヨハネの福音書12章44〜50節をお読みください。イエス様は大きな声で「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。」(12:44)、「わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。」(12:47)と言われました。
イエス様は、民衆に向かって、最期の言葉を大きな声でこう言われました。
「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。」
ここでイエス様を信じるというのは、この天地を造られた創造主である神様を信じるということです。神様がイエス様をこの世に遣わされたのは、イエス様を信じることで、暗やみの中に残らないようにするためです。暗やみとは、神様のいない状態、すなわち霊的な暗やみ、知らないことの暗やみ、罪に支配された暗やみを指します。
そのうえで、イエス様は不思議な言葉を続けられました。
「わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません」
なぜなら、イエス様は人を裁くために来られたのではないからです。もし裁くために来られたなら、神様の力を使ってすべての罪ある人を滅ぼされたでしょう。しかし、そうすればこの世に人はひとりも残らなかったはずです。なぜなら、すべての人が罪を犯しているからです。
ロマ 3:10 次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
それでイエス様は人の姿で来られ、ご自分のいのちを十字架でささげて、私たちの罪を背負ってくださいました。だから、私たちは罪が赦され、神様のいない暗やみに残ることなく、イエス様によって救われたのです。すなわち、義人として、生きる者にされました。
そしてイエス様は、私たち自身の裁きを私たちにゆだねられました。
「わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。」(ヨハネ12:48)
イエス様を拒むとは、イエス様をキリストとして信じないということです。つまり、「イエス様は私に必要ない」「イエス様の十字架は私にはいらない」と言う人です。その人は、終わりの日にイエス様の言葉によって裁かれます。イエス様の十字架の贖(あがな)い、すなわち私たちの罪の代わりに死んでくださった身代わりの死を受け入れないなら、最後の審判でその人の罪はその人にとどまり、罪がその人を死へと導くのです。
つまり、人が救われるかどうかは、イエス様をキリストと信じるか信じないかだけで決まります。イエス様は、その判断を私たち自身にゆだねておられるのです。
これは、自動車の任意保険にたとえられます。任意保険に入るかどうかは自分で決めますが、事故を起こしたとき、入っていなければ大きな代償を支払わなければなりません。
イエス様への信仰は、私たちの将来に必ず訪れる審判に関わる大切な問題です。イエス様を信じないという選択は、永遠の死につながる大きな代償をともなうのです。反対に、イエス様を信じることは、永遠のいのちを保証された生き方を選ぶことなのです。イエス様をキリストと信じた者に、神様は聖霊をお与えになります。聖霊は、永遠のいのちの保証書なのです。
エペ 1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。
先週、顧問牧師は「赦されない罪は存在しない」とおっしゃいました。これは、イエス・キリストの十字架による救いの力によって、私たちが犯したどんな罪も(たとえ殺人や盗みのような大きな罪であっても)赦されるという事実を示しています。それは、イエス様を「私の救い主」であり、「私の罪をすべて引き受けてくださった方」として信じるからです。
しかし、聖書には「赦されない罪」があるとも書かれています。イエス様ご自身がこう言われました。
「マタ 12:31 ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。」
ここでいう「御霊に対する冒瀆(ぼとく)」とは、聖霊が証しするイエス様の救いをまったく受け入れず、イエス様をキリストとして信じようともしないことを指します。つまり、イエス様を拒み、おっしゃることばを心に留めない人は、この赦されない罪を犯しているというわけです。
ヨハ3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
今日は、聖書に出てくるニコデモという人を紹介します。ニコデモはヨハネの福音書に3回登場する人物です。過越の祭りのとき、イエス様が行われた奇蹟を見て、夜ひそかにイエス様を訪ねたのがニコデモでした。彼はパリサイ人の一人で、ユダヤ人の議員でもありました。
ヨハ3:1 「さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。」
ニコデモはイエス様と話をするうちに、イエス様に強い興味を抱きました。ヨハネの福音書7章では、パリサイ人たちがイエス様のことを悪く言っているとき、ニコデモがイエス様をかばう場面があります。また、イエス様が十字架で亡くなられた後、ニコデモは没薬(もつやく)と沈香(じんこう)を持ってきて、イエス様の遺体に用意しました。
伝承によると、のちにニコデモはイエス様の公然(こうぜん)たる弟子となり、ペテロとヨハネから洗礼を受けたといわれています。しかし、ユダヤ人たちはそれを知って怒り、議員としての地位を奪い、残酷に打ちのめし、最後にはエルサレムから追放したとも伝えられます。彼の親族であるガマリエルは、田舎の屋敷にニコデモをかくまい、亡くなった後はステファノの墓の隣に埋葬したそうです。
ニコデモは、イエス様を知り、イエス様を信じ、「人からの栄誉でなく、神からの栄誉を愛した」人でした。
あなたはどう思いますか。
イエス様から永遠のいのちを受け取るかどうかは、一人ひとりにゆだねられています。
私は、あなたがイエス様の永遠のいのちを選び取ることを願っています。
聖霊(せいれい)も同じように、あなたがそのいのちを受け取ることを願っておられます。
神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。(ユダ1:21)
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。