天に宝を蓄える

聖書箇所:マタイ6:19〜20

説教者:高橋堅治

毎月の第4週には、私たちの教会の「目標」や「大切にしていること」について、みんなで考えています。そして、そのときに私が神様から学んでいることも、みなさんと分かち合っています。

先月は、教会の「きまり」や「ルール」について考えました。教会ではルールを大事にしていますが、それよりもっと大切なのは「愛」をもって行動することです。ときには、人を愛するためにルールを少しやぶることがあるかもしれない、ということもお話ししました。

今日は、「『天に宝を蓄える』という御言葉」から、「天に宝を蓄えるってどういうことなのか」を、みなさんといっしょに考えていきたいと思います。

1.地上に宝を蓄えるのはやめなさい

「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。」(マタイ6:19)

イエス様は「山上の説教」という教えの中で、「地上に宝をためるのはやめなさい」と言われたのです。

この「山上の説教」は、神様の子どもとしてどう生きるかを教える、イエス様の大切な話です。

では、なぜ地上に宝をためてはいけないのでしょうか?

それは、その宝が「虫に食べられたり、さびたり、泥棒に盗まれたりする」からです。

当時、人々はきれいな服も宝物として大事にしていました。でも、保管する方法が今ほどよくなかったので、服は虫に食べられたり、金属のものはさびついたりしました。また、宝物をしまっていた場所も泥棒に簡単に壊されてしまったのです。

イエス様が「宝をためるのをやめなさい」と言ったのは、宝そのものが悪いからではありません。

その宝が、いつかなくなってしまったり、使えなくなったりするものだからです。

たとえば、エジプトの有名なピラミッドには、王様が亡くなったときにたくさんの宝物が一緒に埋められました。でも、その宝は亡くなった王様にはもう使えませんでした。

また、すばらしいくらしをしたソロモン王も、「伝道者の書」という書物の中で、自分の体験を語っています。

「私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。」(伝道者2:18)

ソロモン王は、一生けんめい働いて手に入れたたくさんの物が、自分が死んだ後は、あとを継ぐ人に残されるだけだということに気づき、それがむなしいと感じました。(伝道者2:18〜19)

今の時代でも、お金持ちの人が亡くなった後に、子どもたちが「遺産」をめぐってけんかすることがよくあります。たくさんのお金や財産を残しても、それが本人のためになることはなく、むしろ家族の中で争いのもとになることもあるのです。それは、とても悲しいことです。

では、私たちはこの世の「お金や財産」をどうすればよいのでしょうか。それは、ただためるのではなく、「上手に管理する」ことです。

お金や宝物をずっとため続けても、いつかは価値がなくなってしまうことがあります。だから私たちは、それらをためるだけでなく、「どう使うか」「どう生かすか」を考えて行動することが大切なのです。

マタイの福音書25章14節に、

「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。」(マタイ25:14)

神様は、私たちに財産を預けて任せたと言います。主人はそれぞれの能力に応じて、五タラント、二タラント、一タラントを渡して旅に出かけました。五タラントと二タラントを預かった者は商売をしてもうけましたが、一タラント預かった者は地面に穴を掘り、主人の金を隠しました。(マタイ25:15〜18)

神様は、わたしたち一人ひとりに、力に合った量の財産(お金や物など)をあずけてくださっています。でも、「一タラント」をあずかった人は、それを土にうめてかくしてしまいました。つまり、その財産をただ持っていただけで、何の役にも立たなかったのです。

では、神様からあずかった財産を、どうやって正しく使えばよいのでしょうか。

イエス様は、「不正の管理人のたとえ」を使って、わたしたちが財産をどのように管理すればよいのかを教えてくださっています。(ルカ16:1〜)

ある家の管理人が、主人のお金をむだに使っていることがばれてしまいました。そこで管理人は、自分の立場が悪くならないように、主人にお金を借りている人たちの借金を少なくしてあげて、その人たちに気に入られるようにしたのです。イエス様は、

「わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。」(ルカ16:9)

と言われました。つまり、この世で持っているお金や物を、自分のためだけではなく、人のために使うと、死んだあとに「永遠のいのち」に入れてもらえるかもしれない、ということが言われているのです。地上の宝は、たくわえるものではなく、人のために使うものなのです。

2.天に宝を蓄えなさい

「自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。」(マタイ6:20)

イエス様は、私たちに「天に宝を蓄えなさい」と教えてくださっています。なぜなら、天にある宝は「虫に食べられたり、さびたりせず、泥棒にも取られない」からです。

では、「天に宝を蓄え」るとはどういう意味でしょうか?そして、どうやってそれをするのでしょうか?

この「天に宝を蓄える」という言葉は、とても大事なので、よく気をつけて考える必要があります。なぜなら、新興宗教の中には、このイエス様の言葉を自分たちの都合のいいように使ってしまうところがあるからです。たとえば、「天に宝をためるために、教会にたくさんお金を出しなさい」と教えるのは、正しくありません。そして、献金をすれば、天に宝がたまると思ってしまうのも、正しくありません。

実は、私は最近まで、「献金をすれば天に宝がたまる」と思っていました。ですから、ある日私は祈りました。「イエス様、私が今どれだけ天に宝をためているか、見せてください」と。すると、天にある私の宝の箱の中は、なんと空っぽだったのです。

私は不満を言いました。「あのとき、私はあんなにお金を出しました。そして、いろんなことをがまんしてがんばりました。でも、宝の箱は空っぽなんですか」と。そのとき、私は大きな思い違いをしていたことに気づいたのです。

天に宝を蓄えるって、どういう意味でしょうか?

ある日、私がお世話になっている先生が、こんなふうにお話しされました。

「注意しなければならないのは『良い肉』です。これが教会に入って来ないように見張っていましょう」

みなさんも、こんなふうに思ったことがあるかもしれません。ふだんの生活の中で、正しくて立派に見える人を見たときに、「あの人がクリスチャンになったら、すごく良い働きをして、教会もどんどん大きくなるだろう」と考えることです。

でも、その人がそのままの考え方でクリスチャンになったとしたら、どうなるでしょうか。たとえば、その人がこれまでの知識ややり方をそのまま教会で使おうとするなら、実は神様の国にとっては価値のないものなのです。

パウロは、「良い肉」の人でした。(ピリピ3:4〜6)

彼は生まれつきのユダヤ人で、「律法による義については非難されるところがない者」と言われるほど、神さまのきまりをしっかり守っていたパリサイ人でした。でも、キリストと出会ってから、その人生が大きく変わったのです。

「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」(ピリピ3:7)

パウロは、昔の自分が大切にしていたものを、今では「それはむしろ損だった」と考えるようになりました。(ピリピ3:8)

パウロは、以前の自分のことを「肉」と呼んでいます。「肉」とは、この世の自分のことです。たとえば、この世の自分自身、お金や知識、地位などです。

肉と呼ばれる自分自身、知識、お金や地位などは、地上の宝といってもいいでしょう。それらはいつかなくなってしまうものなのです。更に、

「肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)

と書かれています。つまり、自分のことばかり考えて生きている人は、神様を喜ばせることは出来ないのです。また、イエス様は天に宝を蓄えることをルカの福音書でこのように言っています。

「自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。」(ルカ12:33)

自分の持っているお金や物を売って、困っている人に分け与えるということは、「自分の肉」を手ばなすという意味です。そしてそのあとで、「天に宝を積む」ことができるのです。わたしたちが、いつまでもなくならない宝を天にたくわえるためには、まず、肉をすてることが必要です。

では、実際に「天に宝を積む」にはどうするかというと、「神様の霊(御霊)」に導かれて生きることです。

「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:8)

「肉に蒔く者」というのは、ふだんの生活で、自分のやりたいことばかりを大事にして、欲しいものを手に入れることばかり考えたり、聖書の教えをあまり気にせず、お金や物をたくさん持つことや、自分や家族がうまくいくことを一番に考える人のことです。

一方で、「御霊に蒔く者」というのは、この世のお金や物を、神様のためや人のために使い、福音を大切にして、神様が望んでおられることをしようとする人のことです。

だから、御霊に導かれて生きることが、天に宝を積むことなのです。

「御霊によって歩みなさい。」(ガラテヤ5:16)

3.御霊によって歩む

でも、「御霊によって歩むこと」は、あのパウロにとっても簡単なことではなかったのです。

ローマ人への手紙7章15〜24節をお読みください。「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。」(ローマ7:15)

パウロは、「ローマ人への手紙」という聖書の中で、こんなふうに言っています。

「私は、自分が何をしているのか分からないのです。なぜなら、やりたいと思っている良いことはやらずに、むしろ、やりたくないと思っている悪いことをしてしまうからです。」

つまりパウロは、「神様に従って、正しいことをしたい」と思っているのに、実際にはそうできなくて、反対のことをしてしまうと言っているのです。

そして、パウロはそれが「私のうちに住んでいる罪」のせいだと言っています。つまり、自分の心の中にある「罪」が、自分のしたいことをじゃましている、というのです。

聖書では、「罪」について2つの言い方があります。

ひとつはローマ人への手紙7章17節に出てくる「罪(sin)」で、もうひとつはヨハネの手紙第一1章9節にある「罪(sins)」です。英語で見ると、「sin」は単数形、「sins」は複数形で、それぞれ意味がちがいます。

まず、「sin(単数形)」は、人間の中にある「罪の性質」や「罪の根」のことを表します。

一方、「sins(複数形)」は、実際にやってしまった「悪い行い」や「罪の行動」のことです。

私たちがしてしまった悪い行動(sins)は、イエス・キリストの血によってゆるされ、きよめられます。

でも、その行動を生み出す「罪の性質(sin)」は、私たちの心の中に残っていて、それが原因で「本当はしたくない悪いことをしてしまい、したいと思っている良いことができない」ことがあるのです。

それで、パウロという人は、「私はなんてみじめな人間なんだろう。だれがこの死に向かう体から私を助け出してくれるのだろうか」と言ったのです。(ローマ7:24)

私たちも同じようなことがあるかもしれません。

心の中にある罪の性質が、私たちを悪い行動へと導き、あとで「なんであんなことをしてしまったんだろう」と後悔することがあります。

その罪の性質がなくなってほしいと思っても、時々出てきて、自分自身や周りの人もつらくさせてしまうのです。

しかし、パウロはこのように言っています。

「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:25)

神様の恵みによって、わたしたちの中には「2つの気持ち」があるままにされています。

1つ目は、キリストによって新しくされた自分で、「神様をよろこばせたい」と願う気持ちです。

もう1つは、昔の自分のままで、罪の力に引っ張られてしまう気持ちです。

この2つの気持ちは、わたしたちが死ぬときまで、またはイエス様がもう一度来られて、わたしたちの体をすばらしいものに変えてくださるときまで、ずっと続くのです。

そんな中ですから、わたしたちは「御霊」に導かれて生きていくことが大切です。

では、どうすればよいのでしょうか?

まず大事なのは、「御霊が自分の中に住んでいる」と信じることです。

わたしたちが「福音」を聞いて、「イエス様が自分の罪をすべてゆるしてくださる」と信じているなら、その人には御霊が与えられています。なぜなら、

「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:3)

私たちの心の中に「御霊」、つまり神様の霊がいてくださることがわかると、私たちはパウロのように2つの気持ちが表れます。すなわち、心では神様にしたがいたいと思っているのに、実際には悪いことをしてしまう自分がいて、つらく、情けなく感じます。

そんなとき、私たちは「罪の性質」に苦しむことになります。だから毎日、自分(肉)を捨てて、「十字架」にすがることが必要です。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(ルカ9:23)

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(ガラテヤ5:24)

十字架を背負うとは、具体的には聖書を読み、祈り、御霊に従おうとすること、あるいは試練かもしれません。そうやって、私たちは自分の心をイエス様にささげるのです。これが「聖化」です。

「神様の御霊」にしたがって生きるとき、神様は私たちに「よろこび」を与えてくださるのです。

私は、洗礼を受けて教会学校の先生をしていたときに、子どもたちに聖書を教えながら、自分がとても悪いことをする心を持っている人間だと感じました。心の中では、「お前はうそつきなんじゃないか」と思ってしまうこともありました。

でも、洗礼を受けたことで、私はイエス様と切りはなせない関係になっていました。何年か教会の礼拝に行かなくなっていましたが、またイエス様のところに帰ったとき、本当にうれしい気持ちになりました。

それでも、自分の中の悪い心はなくなりませんでした。それから、どんなにがんばっても、うまくいかないと感じていました。パウロと同じです。

でも、私の罪の行いは、イエス・キリストが十字架で流された血によってゆるされ、きよめられているとわかりました。このような私でさえも、神様は特別な恵みにより、「神様のことばを伝える人」として用いてくださっています。

そして、聖霊は私に「天に宝を積むように」と、新しいチャレンジを与えてくださっています。

私は、もし誰かにほめられたときでも、「自分がすごいのではなくて、それはイエス様がしてくださったことなんだ」と思って、イエス様に感謝し、賛美することにしています。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

天にある本当の宝というのは、私の心の中におられるキリストご自身のことなのです。それが、聖化により、日々、私の内で大きくなることが、天に宝を蓄えることです。そして、それこそ、御霊によって歩むことでもあります。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

聖書書名: