先週の礼拝では、顧問牧師がルツ記のお話をしてくださいました。ルツはユダヤ人から見ると「異邦人のモアブ人」でした。モアブ人はアブラハムの甥ロトの子孫で、偶像ケモシュを礼拝していました。そのため、申命記23章3節には、ユダヤ人社会に受け入れてはいけないと書かれています。申命記は「モーセの律法」と呼ばれ、ユダヤ人の生活や法律に関する大事なルールです。
でも、ルツはダビデ王の先祖になり、ユダヤ人社会に受け入れられました。なぜそんなことが起こったのか、私はよく分かりませんでした。モーセの律法は、今の言葉で言うと「ルール」や「規則」のようなものです。私たちの社会や教会にもルールや決まりごとがたくさんあります。教会にも41条の規則があり、会計や役員、奉仕についてもいろいろと決まりがあります。今日は、こうしたルールをどう守ればよいのか、一緒に考えてみたいと思います。
1.人間の命令と神の戒め
マルコの福音書7章1〜9節をお読みください。パリサイ人たちと律法学者たちは、イエスの弟子たちが昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのはなぜかと尋ねました。イエス様は答えられました。「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」(マルコ7:8)
イエス様を、当時のパリサイ人や律法学者たちは憎みました。イエス様は彼らのルールに従わず、安息日に病人をいやしたり、「神様を自分の父」と呼んだりしたからです。だから彼らはイエス様をいつも見張って、文句をつけました。
ある日、弟子たちが「手を洗わずに食事をした」とき、またイエス様を責めました。
「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」
この「言い伝え」とは、口で伝えられてきたルール(口伝律法)のことです。宗教のリーダーたちは、それを厳しく守るよう教えていました。
ある律法学者は手を洗わなかったことで仕事をやめさせられたり、別の人は牢屋で飲み水が少なかったのに、それを手洗いに使い、命を落としそうになりました。その人は「よくやった」と褒められたそうです。
ユダヤ人にとって律法はとても大事です。律法を守ることで祝福があると信じていました。
「もし、あなたがたがわたしの掟に従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、……あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかに自分たちの地に住む。」(レビ26:3、5)
ユダヤ人がバビロン帝国に支配されたのは、「神様に従わなかったせいだ」と考え、その反省からますますルールを守るようになったのです。
ネヘミヤ記9章29〜30節には、彼らが律法に立ち返ろうとせず、そのため地のもろもろの民の手に渡されたことが記されています。
でも、聖書には書かれていない生活の細かいこともたくさんあります。だから人々は、口伝律法として新しい決まりを作っていきました。
たとえば、手を洗う決まりは、聖書の「祭司が神殿で手を洗う」という言葉をもとに、「みんなも食事前に手を洗うべき」と広げていきました。
出エジプト記30章20〜21節(祭司が手足を洗う規定)と、「あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。」(レビ記20:26)が、その根拠でした。
このように、祭司がパンを捧げる→ユダヤ人もパンを食べる前に手を洗う、というように広がっていったのです。
イエス様はこのことを指して「偽善者」と呼びました。偽善者とは、「演技をする人」という意味もあります。つまり、神様を本当に思っていないのに、形だけ宗教的にふるまう人のことです。
『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」
でもイエス様は「それはむなしい」と言います。人が作った決まりであって、本当に神様のことを思っていないなら意味がない、ということです。
自分の信仰をふりかえってみよう。
なぜ礼拝に参加するのか?
なぜ聖書を読むのか?
なぜ献金や奉仕をするのか?
なぜ賛美を歌うのか?
なぜ祈るのか?
神様のことをするとき、心から神様を思っていないとそれは意味がありません。
2.神様の言葉は愛の言葉
マルコの福音書7章10〜13節をお読みください。イエス様は、「あなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています」と言われました(マルコ7:13)。
イエス様は、言い伝えを守ることで、神様の言葉を無くしてしまうことがあると言いました。モーセの十戒のひとつ「あなたの父と母を敬え」はとても大切な教えです。でも当時の律法には「人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら、その人が、父または母のために、何もしな」くてよい、というものがありました。それを使って、親へのお金や助けをしなくてよいという言い訳にしていたのです。
では、「あなたの父と母を敬え」と神様が言われたのはなぜでしょうか。
エペソ人への手紙には、
「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。(エペソ6:2)
神様が「親を敬いなさい」と言ったのは、私たちが祝福されるためです。また、聖書の言葉に「何か付け加えたり、取り除いたりすると祝福を失う」と書かれています。それは、神様の言葉は、私たちが幸せになるための言葉だからです。
黙示録22章18〜19節には、この書のことばにつけ加える者、取り除く者への警告が記されています。
聖書の最も大切な教えは、
「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:40)
神様の言葉は、愛の言葉です。
しかし、イエス様の弟子たちが安息日に麦畑で穂を摘んで食べたとき、パリサイ人たちは「ルールを破っている!」と責めました。
「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(マタイ12:2)
それに対して、イエス様は、
「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。」(マタイ12:7)
と言っています。
同じように、パリサイ人たちは、イエス様が取税人たちや罪人たちと食事をしていました。彼らは自分が聖なる者と思っていましたから、取税人や罪人と食事をすることはいけないことと考えていました。
マタイ9章10〜11節で、パリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言いました。
パリサイ人たちの伝統的な考えでは、取税人たちや罪人たちと一緒に食事することが、自分が汚れる、聖さを保てないと考えていました。だから、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言いました。
しかし、イエス様は同じように、
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マタイ9:13)
と言いました。
ルールや決まりごとは、人を2つのグループに分けてしまいます。つまり、「ルールを守っている人」と「守っていない人」のグループです。そして、ルールを守っていない人は、悪い例として見せられたり、罰を受けることになったりします。でも、神様が本当に大切にしているのは、「真実の愛」なのです。
このことは、ホセア書6章6節に書かれています。
「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」(ホセア6:6)
ここでいう「真実の愛」とは、「人を思いやる心」や「やさしさ」、つまり「憐れみ(あわれみ)」のことを意味しています。
神様は、何かの規則やルールをつくって、その規則、ルールを守れなかった人を責めたりするのではなく、すべての人に対して「思いやり」や「やさしさ」を持ちたいと願っておられるのです。神様の言葉は、私たちにとって規則、ルールのように思えますが、実は私たちが幸せになるための愛の言葉です。
3.ルール・規則より愛
それでは、もうひとつの聖書個所から、もう少し深く学びたいと思います。
みなさんはエズラ記を読んだことがありますか?
これは旧約聖書の中のひとつで、歴代誌の後にあります。エズラ記は、祭司であり学者であったエズラが書いたものです。エズラが生きていたのは、今から2500年前、紀元前450年頃のことです。その当時、ユダヤの国は、大きなバビロン帝国に負けてしまい、人々はバビロンに連れていかれました。これをバビロン捕囚といいます。
でも、その70年後、ペルシャ帝国のクロス王が、ユダヤ人たちを自由にして国に帰ることができました。エズラは、この帰ってきた人たちと一緒に、神殿を建て直し、人々が神様の教えを大切に守るように働きかけました。
エズラ記9章11〜14節には、エズラが異国人との結婚を問題視して神殿で祈った言葉が記されています。
エズラが神殿で祈っているとき、神様の命令を破って、外国人と結婚している人々を問題に考えていました(申命記7章3節)。
エズラ記10章2〜3節では、人々が「これらの妻たちと、その子どもたちをみな追い出しましょう。律法にしたがってこれを行いましょう」と言いました。
その結果、人々は外国人の妻と子どもたちを、みんな家から出してしまいました。たしかに、それは神様の教えに従ったことでしたが、離婚という問題によって、多くの人がつらい思いをしました。
エズラは、モーセの律法をしっかり守ることを、ユダヤ人の中に根付かせました。これがのちに、律法学者やパリサイ人という宗教指導者のもとになっていったのです。
でももし、エズラが、「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」という神様の心をよく知っていたら、どうだったでしょうか。もちろん、それは実際に起こったことではないので、はっきりと言えません。もしかしたら、少し違ったやり方により離婚まで至らなかったのではないかと思います。
最初にお話ししたルツは、外国人でしたが、ユダヤ人の社会に受け入れられました。私は、それは「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」という神様の本当の愛の心にかなっていたからではないかと思います。
普通なら、律法に厳しく従えば、ルツのような外国人の女性は、ユダヤ人の社会に入ることはできなかったはずです。でも、ルツはユダヤ人のいちばん大切にしている神様を心から信じ受け入れました。ルツが言った言葉の中に、その気持ちがよく表れています。
「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ記1:16)
このように、ルツは「神様を信じ、神様の民と一緒に生きたい」という、とても大切な気持ちを持っていました。それが、神様が一番大切にしておられる真実の愛につながっていたのだと思います。
さて、今回、ルール・規則について話してきたのは、私がある出来事を通して、深く考えさせられたからです。
杏の里教会では、誰かが入院したときに、お見舞いの金額を定める決まりがあります。ある方から、よく相談を受けるのですが、私はいつもその決まりに従ってすぐに答えを出していました。あるとき、「本当にそれでいいのかな?」という気持ちが心の中に湧いてきました。ただ決まり通りにやるだけでは、何か足りないように感じたのです。
たしかに、世の中にはたくさんのルール、規則があり、それによって、社会の秩序が守られています。でも、教会はそれだけではないと、私は思うようになりました。教会は、キリストの体です。そして、教会の頭はイエス様です。教会は、イエス様の心が表れ、イエス様の思いが行われるところです。だから、私は、ルール、規則だけに従うのではなく、それよりももっと大切なことがあると気づかされました。
「たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」(Ⅰコリント13:2)
どんなに立派なルールや規則があっても、そこに愛がなければ、それは意味のないものになってしまいます。私は、入院の見舞い金を相談されたとき、その人のことを思いやる時間を取らず、ただ決まり通りに物事を決めてしまっていました。まさに、「神のことばを無に」してしまうことだと感じました。
たとえば、誰かが入院したときにお見舞いをする場合、相手が今どんな状態にあるのか、教会員であるなしに関係なく、どれくらいの金額を包むのがよいかを、愛を込めて考えることが大切です。
その時間を惜しむのではなく、その時間を大切にするのです。
イエス様の思いを大切にすることです。愛のない教会にイエス様はおりません。
今年は、教会規則の見直し、会計のルールを改めたりする予定があります。このような時だからこそ、ルール・規則以上に、愛することを第一に考えてはどうでしょうか。
Ⅰコリ14:1 愛を追い求めなさい。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。