毎月第四週は、教会のビジョンについて考える時間としてきました。これまでに、聖書の本質である「神を愛すること」「自分を愛すること」「隣人を愛すること」を学んできました。そして、私たち人間は、神様によって愛の関係を持つために創造された存在であり、教会も愛の共同体として存在することを学びました。さらに、私たちは「父なる神様」の養子であり、神様を「お父さん」と呼ぶことができるということも学びました。
今日は、信仰が弱い人、キリストにある幼子について、聖霊が与えて下さる喜びについて学びましょう。
1.信仰の弱い人
ローマ人への手紙14章13〜19節をお読みください。要となる句は次のとおりです。
「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。」(ローマ14:15)
「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(ローマ14:17)
「ローマ人への手紙」14章1節でパウロが「信仰の弱い人を受け入れなさい」と言ったのは、ローマの教会で信仰の強い人と弱い人が対立していた問題に触れたものでした。ここでの「信仰の弱い人」とは、信仰に関する考え方が他の人に比べて敏感だったり、特定の習慣にこだわる人のことを指しているのです。
例えば、2節では「信仰の強い人」と「信仰の弱い人」の違いが食事について説明されています。「信仰の強い人」は何を食べても問題ないと信じていますが、「信仰の弱い人」は宗教的な理由で肉を避け、野菜しか食べないことがありました。この背景には、当時の文化や宗教的な習慣が関係していると考えられます。
現代でも「自分は信仰が弱い」と謙虚に言う人もいますが、ここで言う「信仰の弱い人」とは、信仰の対象についてまだ慎重で、信仰の強い人に比べて自由に振る舞えない面がある人のことを意味していると考えられます。
当時のローマ教会には、2つのグループがいました。1つはユダヤ人クリスチャンで、もう1つはユダヤ人ではないクリスチャンです。ユダヤ人には「コーシャ」と呼ばれる食事の規律があり、これはレビ記11章1〜47節に書かれている言葉から作られています。コーシャには、食べてよい動物や、健康で欠陥がないこと、偶像にささげられた肉ではないことなどの条件があります。ユダヤ人はこの規律を厳しく守り、出どころが不明な肉を食べると神に対して罪を犯すかもしれないと考える人もいました。そのため、野菜だけを食べることを選ぶ人もいたのです。これがパウロが「信仰の弱い人」と呼んでいる人たちです。
一方、パウロが言う「信仰の強い人」は、律法にこだわらず何でも感謝して食べる人たちのことです。特にユダヤ人ではないクリスチャンは、ユダヤの律法に従う習慣がなかったので、気にせず何でも食べることが多かったようです。パウロの「信仰の強い」「信仰の弱い」という考え方は、律法にどれくらい影響を受けているかを考えてのようです。
しかし、パウロは「信仰の弱い人」を否定しているわけではありません。パウロは、「食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです」と言っています。つまり、「信仰の強い人」も「信仰の弱い人」もお互いを尊重しなければならず、神が両方の人を受け入れているのだから、互いを見下したり裁いたりしてはいけない、というのです。
パウロは、14節15節で、食べ物のことで兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいない、とも言っています。
この文は、「神が受け入れている人たち、つまりキリストがその人たちのために代わりに死んでくださった人々に対して、一方的に強要することは愛ではなく、相手を滅ぼしてしまう行為だ」と言っています。これは、たとえば、普段は野菜しか食べない人が、他の人からの強制によって肉を食べてしまうと、その人は自分を罪人だと感じ、良心が責められることになるからです。
「しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14:23)
信仰が弱い人たちは、コーシャと呼ばれる食事のルールに反する行動を取っても、神様に対する自分の良心を傷つける必要はありません。なぜなら、もしその人が「ルールを破るのはよくないこと」と感じながら肉を食べてしまうと、自分を罪人として責めてしまうからです。
また、信仰が弱い人たちが、コーシャのルールを守らない信仰の強い人を裁くことも良くないことです。それは、キリストが死によって私たちを律法(昔のルール)から自由にしてくれたからです。この自由を無視する考えは、キリストの死を無意味にすることになってしまいます。だから、コーシャのルールを守らないのは罪だと感じてしまうユダヤ人のクリスチャンたちは、パウロにとって「信仰が弱い人々」と見なされていたのです。
「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2:21)
パウロは、この弱いとされる人たちについても、「神がその人を受け入れてくださった」ことや、「キリストが代わりに死んでくださった」ことを示しています。だから、彼らを兄弟姉妹として愛し、受け入れるべきだと教えているのです。
私たちも、他の兄弟姉妹や別の教派の信仰について見たとき、相手のしていることがよく分からないと感じることがあります。例えば、什一献金(収入の10分の1を献金すること)、安息日、冠婚葬祭での行い、ペンテコステ教会やカトリック教会での信仰の形などが、理解しづらい場合があるかもしれません。そして、それを批判したくなることもあるでしょう。しかしパウロは、そうした人たちについても、「神がその人を受け入れてくださった」こと、「キリストが代わりに死んでくださった」方であると理解し、受け入れるべきだと教えています。
最も大切なことは、イエス様が私たちに「互いに愛し合うこと」を望んでおられるという点です。
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」(Ⅰペテロ4:8)
私たちは皆、キリストが私たちのために代わりに命を捧げてくださった、大切な存在なのです。
2.キリストにある幼子(肉の人)
「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。」(Ⅰコリント3:1)
「あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。」(Ⅰコリント3:3)
パウロは、ローマの教会で食べ物について意見の対立があったとき、みんなが「キリストが代わって死んでくださった人」であることを認め合い、互いを受け入れるように求めました。パウロは一方で、こういったねたみや争いの状態にある人たちを「肉の人」、ただの人だとも表現しています。また別の言い方で「キリストにある幼子」とも呼び、キリストを信じているけれども、まだ信仰が成長しきれていない幼い子どもと同じような状態だ、と言っています。
先週、私は自分自身もこの「肉の人」なのだと感じました。それは、自分には愛がなく、喜びがない状態でした。実のところ、先週は仕事が忙しく、休むことなく働き続けていました。そのせいで気持ちが高ぶり、イライラしていました。何をしても空しい状態、そんな時、聖書に登場するある人物のことを思い出しました。
それはソロモン王のことです。ソロモン王は、紀元前9世紀にいたユダヤの王で、非常に裕福で功績のある人物でした。彼は毎年「666タラント」(現代の価値で約3000億円相当)もの金を得ていました。また、彼の食事の器はすべて金製で、他にも多くの財宝を持っていました。ソロモン王の宮殿では、1日分の食事だけでもたくさんの食材が必要とされ、小麦粉は食パン5万個分、牛30頭、羊100匹が使われていました。
また、彼には700人の妻と300人の側室がいました。そして、数々の功績を残し、神殿や町の城壁を建設し、他の国々と貿易を盛んに行っていました。彼は「詩篇」「箴言」「伝道者の書」「雅歌」などの書物も書き残しました。こうしたことから、普通の人々から見ると、ソロモン王は夢のような人生を送った人と言えるでしょう。
しかし、彼は「伝道者の書」で、「私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。」(2:17)と言っています。私は、ソロモン王こそが最も成功を収めた「肉の人」だったのではないかと思います。
アメリカの心理学者であるアブラハム・マズローは、人間の「欲求の階層」という考え方を提唱しました。この考え方では、人間の欲求には5つの段階があり、低いレベルの欲求が満たされると次のレベルの欲求が出てくるとされています。
5つの段階は次のようになっています。
1. 生理的欲求:空腹を満たしたり、生命を維持するために必要な基本的な欲求です。
2. 安全の欲求:安心して生活できる環境が欲しいという欲求で、例えば体が安全で経済的にも安定した環境で暮らしたいと思うことです。
3. 社会的欲求:家族や友達、会社などの社会のグループに所属して、安心感や一体感を感じたいという欲求です。
4. 承認欲求:グループの中で評価されたり、自分の能力を認めてもらいたいという欲求です。
5. 自己実現の欲求:ありのままの自分で好きなことをし、社会に貢献したいという欲求です。
現代では、マズローの欲求の階層は色々な場面で使われています。たとえば、社員のやる気を引き出すために、これらの欲求を満たす制度を作る会社もあります。
ソロモンの人生を振り返ると、彼はこれら5段階の欲求をすべて満たした人だと考えられます。しかし、彼は「すべては空しく、風を追うようなもの」と言っています。この世の全てを満たしても、肉の人では、喜びが得られないのです。
ソロモン王と自分を重ね合わせて、今の自分を振り返ってみました。たとえ、ソロモンと比較して平凡なものであっても、マズローの欲求の殆どが満たされた状態でした。
しかし、私もその「すべては空しく、風を追うようなもの」だと感じ、心からの喜びがありませんでした。このときの自分が、「肉の人」であったかもしれません。
そのような中で祈り続けるうちに、聖霊によって与えられる喜びを求める必要があると感じました。聖書に、
「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(ローマ14:17)
「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。」(ローマ8:6)
とあります。肉の人では、死に行き着いてしまうのです(ローマ8:6 参照)。
以前、聖霊体験についてお話ししました。それは聖霊に満たされた状態となる意味です。一度でも聖霊に満たされたときの喜びを体験すると、他のことが色あせて感じられるものです。ですから、私たちは、肉の人のままではなく、いのちと平安をもたらせる聖霊によって満たされる必要があるのです。
3.聖霊による結実
「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。」(ヨハネ14:16〜17)
ここで、聖霊について紹介します。聖霊は、「御霊」や「助け主」と呼ばれる神様です。イエス様は2000年前にこの世界に来られ、十字架で人々の罪を贖い、復活後に天に戻られました。そして、聖霊が私たちに与えられ、今までの2000年間、ずっと私たちと共にいて、私たちを導いてくださる方です。
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。」(ヨハネ16:13)
この方によって、私たちは聖書の言葉を理解し、救いへと導かれるのです。
「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。」(エペソ1:13)
そして、この方を通して、キリストの救いを信じたとき、この方が私たちに天国へ行くためのパスポート(証印)を与えてくださるのです。
この方に従って生きるなら、私たちは「実」を結びます。その「実」は、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」といったものであり(ガラテヤ5:22〜23)、私たちが本当に心から欲しいと願うものです。これは、マズローの欲求で説明されるものよりもさらに上にある、特別な欲求です。
さて、喜びが足りないと感じた私は、「御霊の実」である聖霊の喜びを与えてくださいと祈りました。信仰が弱い人、肉の人が本当に聖霊による喜びが与えられるのか、と考えました。
そんな時、祈りながら歩いていたとき、大豆畑を見ました。その大豆畑は、たくさんの大豆が実った木がありましたが、木は古くなり、葉が虫に食べられてとても傷んでいました。
翌日、御霊は、「あの大豆の実は一瞬で大きくなったのか?」と問いかけられました。私は「いいえ」と答えました。
大豆は、時間をかけてゆっくりと成長していきます。しかし、その間に、木は弱り、葉も傷ついてしまったのです。しかし、その葉で作られた栄養分は、大豆を甘みのある大きな実にしたのです。
それから、御霊は、「人間も同じではないか」と言われました。私たちも、大豆の木や葉のように傷つき、疲れ果てる弱い者、肉の人かもしれません。しかし、御霊が一緒なのですから、御霊の実は私たちの中で育ち、愛という栄養を蓄えて大きくなるのです。その成長は短い期間ではありません。傷つきながらも、ゆっくりと確かに育っていくのです。
先日、あるクリスチャンのセミナーに参加したときに、ある方の証し(クリスチャンとしての体験や信仰についてのお話)を聞きました。その方は、自分から進んで地域の掃除活動に参加したり、多くの人と友だちになり、キリストについて話を伝える活動をしている方です。毎日、キリストについて話す相手に出会えるようにと祈っているそうです。そして、多くの人がその方に興味を持ち、質問をするようになったそうです。
その方の秘訣は、毎朝、聖霊に満たされるまで祈りながら待つことだそうです。
今日は、信仰の弱い人、肉の人について学びました。信仰姿勢が違っていても、「神が受け入れて下さった方、キリストが代わって死なれた方」である兄弟姉妹を受け入れ愛することを学びました。
また、肉の人(ただの人)は本当の喜びは得られない、喜びは御霊によるもので、御霊によって私たちの内に成長していくものであることを学びました。私たちは、どんなに傷ついても、御霊が私たちを成長させ、結実に導いて下さるのです。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。