隣人を愛する

聖書箇所:ルカ10:25〜42

説教者:高橋堅治

毎月第四日曜日の礼拝では、私たちのビジョンについて考えるために、聖書の大切な教えを共に学んでいます。これまで、マタイの福音書22章から、私たち人間のための取扱説明書である聖書のすべてに関わる戒めを学んできました。今日は、聖書の場所を少し変えて、ルカの福音書から同じ戒めについて学びたいと思います。

1.神を愛し、自分自身を愛する

ルカの福音書10章25〜28節をお読みください。律法の専門家が「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねると、イエス様は律法に何と書いてあるかを問い返されました。彼は、神を愛すること、隣人を自分自身のように愛することを答え、イエス様は「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と言われました(ルカ10:28)。

マタイの福音書では、ある律法の専門家がイエス様に「律法の中でどの戒めが一番重要ですか」と尋ねました。イエス様は「神を愛すること」と「隣人を自分自身のように愛すること」が重要であり、聖書全体がこの二つの戒めにかかっていると答えました。

ルカの福音書でも、同じような二つの戒めが登場します。律法の専門家が「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と質問します。「受け継ぐ」とは、手に入れるという意味です。この質問に対して、イエス様は律法の専門家に「律法には何と書いてありますか」、つまり「モーセ五書には何と書いてあるか」と聞きました。そして、律法の専門家がこの二つの戒めを答えました。

イエス様は「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と言われました。イエス様が言うのは、この二つの戒め、つまり「神様を愛し、隣人を自分自身のように愛すること」によって、永遠のいのちを得ることができるということです。それは、聖書そのものを実行することなのです。

今日は、これまで学んできたことを振り返ります。特に「神様を愛すること」と「自分自身を愛すること」について復習しましょう。

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉を覚えていますか?これは神様を愛する方法を示しています。ルカの福音書では、マタイの福音書にある言葉に「力を尽くし」という部分が追加されています。

心(カルディア)は感情のことを指し、いのち(プシュケー)は意志を、知性(ディアノイア)は判断力を意味します。ルカによる福音書の「力(イクスゥス)」は能力を表しています。つまり、感情で神様を喜び、感謝するという愛の表現をし、自分の意志で神様に従うことが大切です。そして、神様の御言葉について深く考え、知性を使うことも重要です。「力」とは、自分が持っている能力を使うことを意味します。私たちは皆、それぞれ神様から特別な能力を与えられています。この能力を活かすことが大切です。このようにして、これらを用いて、神様との良い関係を築くことです。

また、自分自身を愛するとは、神様の目から見た自分自身を愛することです。普段、私たちは、自分自身を正しく評価できません。欠点ばかりに目をつけてしまい、時には自分が嫌になることもあります。誰もが自分に失望した経験があると思います。しかし、神様は私たちを高価で尊い存在であると言っています。どれほど高価で尊いか、それは神の御子イエス様が十字架に架けられて死んだほどです。自分ですら認めない自分の本当の価値を認めて下さるのは、唯一の神様ご自身なのです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」を行うには、この2つの愛が不可欠です。

2.隣人を愛する

ルカの福音書10章29〜37節をお読みください。律法の専門家が「では、私の隣人とはだれですか」と尋ねると、イエス様は、強盗に襲われた人を祭司とレビ人は反対側を通り過ぎ、一人のサマリア人だけが、かわいそうに思って介抱したというたとえを話されました。「あわれみ深い行いをした人」が隣人だと専門家が答えると、「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われました(ルカ10:37)。

律法の専門家がイエス様に「では、私の隣人とはだれですか」と質問しました。(ルカ10:29 参照)。彼にとっての隣人は、自分が嫌う人々を除いた人々であったのです。当時のユダヤ人は、隣人を家族や親族、同胞と考えていました。そのため、この律法の専門家は、ユダヤ人のイエス様に同意を求めて、「私の隣人とはだれですか」と尋ねました。イエス様はこの答えのために、善きサマリア人のたとえを話されました。

このたとえに登場する3人の重要な人物は、強盗に襲われた人に対して、異なる態度を示す3種類の人です。それは、祭司、レビ人、サマリア人です。

祭司は、当時、神殿に仕えて、儀式を行う人です。彼らはモーセの律法を信じ守りました。レビ人はユダヤの公務員で、普段から国民の健康・福祉のために仕事をしていました。一方、サマリア人はユダヤ人と仲が悪く、付き合いがありませんでした。ユダヤ人もサマリア人を嫌っていました。

強盗に襲われた人は、エルサレムから旅をするとき、サマリアの通過を嫌ったようです。そのため、彼は迂回路のエリコに向かったことが分かります。すなわち、この人はユダヤ人で、サマリア人を嫌っていたことが分かります。ところが、彼は強盗に襲われ、服を奪われ、半殺しの状態にされてしまったというのです。

イエス様は、このたとえ話の中で、祭司、レビ人、サマリア人が強盗に襲われた人の近くを通る場面を描きました。祭司はその人を見て見ぬふりをして反対側を通り過ぎました。普通なら率先して助けるべき祭司が助けなかったというのです。通常では考えられないことです。同じようにレビ人も、その人を見て反対側を通り過ぎました。これもあってはならないことです。そこにサマリア人がやってきて、この強盗に襲われたユダヤ人を見つけると、かわいそうに思い、彼を介抱し、できる限りのことをして助けたのです。これもまた、当時の社会ではありえないことです。すなわち、このたとえは、まったくありえない話なのです。イエス様は、なぜこのようなたとえ話をされたのでしょうか。

イエス様はこのたとえ話をした後、律法の専門家に尋ねました。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」と。律法の専門家の答えは、「あわれみ深い行いをした人」でした。彼は、憎いサマリア人だなんて口を裂けても言えません。実際、このたとえでは、強盗に襲われた人と関係をもった人は唯一、サマリア人だけだったので、答えられないはずです。

イエス様は律法の専門家に「あなたも行って、同じようにしなさい」と言いました。これは、「あなたもこのサマリア人のように分け隔てなく愛しなさい」というのです。イエス様は、地位や身分、同胞、敵味方関係ない愛の行為を求められました。隣人とは誰かを考えるのではなく、私たちが愛をもって関係を結ぼうとする相手が誰でも隣人になることを教えているのです。

自分自身を愛することは、神様の目から見た自分自身を愛することです。この「善きサマリア人」こそ、イエス様であったと言われます。私たちの人生で、イエス様は、私たちの人生で、強盗に襲われた人のように、苦難に遭い、傷つき、弱り、倒れてしまうことがあります。神様、イエス様は、そんな私たちを見て、かわいそうに思い、近づいて、介抱して下さったはずです。それは、私たちのために、いのちを捨て、聖霊と永遠のいのちを与えて下さったのです。それを知っている私たちだから、すなわち、神様が私たちを捜し(関係を作り)、愛して下さったように、私たちも、関係を作り(隣人とある)、愛することを求めておられます。

一方、このたとえの中の祭司、レビ人を考えてみましょう。本来、彼らは強盗に襲われたユダヤ人の同胞であり、愛の関係を持つもののはずです。しかし、彼らはその人を助けず、通り過ぎてしまいました。彼らはその人と関係を築こうとはしなかったのです。私たちも、周りの人々との関係を考えてみましょう。伴侶、家族、教会の人々に対して、愛の関係をもっているでしょうか?

このたとえに登場する祭司やレビ人のように振舞っていないでしょうか?

私たちには恐れがあります。もし、関わると、時間、労力、お金を使うことになるという恐れかもしれません。善きサマリア人であるイエス様は、時間、労力、お金を惜しまなかったのです。ですから、私たちは、この恐れをイエス様に委ねることで、積極的な愛の人になることができます。

その一人、使徒パウロは、エペソの教会の長老たちとの別れ際に次のように勧めました。

使徒の働き20章34〜35節でパウロは、「主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだ」と述べています(使徒20:35)。

3.隣人になる

ルカの福音書10章38〜42節をお読みください。マルタはイエス様をもてなすために心を乱し、「私の手伝いをするように、おっしゃってください」と訴えました。主は答えられました。「必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。」(ルカ10:42)

サマリア人のたとえに続く聖書の物語は、マルタとマリアの間に起こる出来事でした。この部分は、福音書を書いたルカが挿入したものだと言われています。ですから、この物語は、実は善きサマリア人のたとえの続きと考えてもよいと思います。

イエス様はある村に入られました。この村は、エルサレムの近郊にあるベタニア村です。ここには、イエス様が愛した家族、姉マルタ、妹マリア、弟ラザロが住んでいました。イエス様一行は、マルタの家に招かれて客となりました。マリアは、イエス様の足もとで、イエス様のお話しを熱心に聞き入っていました。一方のマルタは、一生懸命にもてなしをしていました。そして、とうとう、マルタはイエス様に苦言を吐きます。

「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」

しかし、イエス様はマルタに「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです」と答えました。

なぜイエス様はこのように答えたのでしょうか。

ここでは、隣人になるという観点で考えてみます。

ユダヤ人は、旅人客への接待をとても重要視してきました。創世記18章2節から、アブラハムは三人の旅人をもてなします。実は、この三人はみ使いであったのです。その後、旅人をもてなすことが重要な習慣となりました。それだから、マルタもイエス様一行を懸命にもてなしていました。このマルタは、何もしないでイエス様の話を聞いているマリアに怒り、イエス様が私を分かってくれないと失望していたと思います。

みなさんがマルタだったら、どうでしょう?マリアに対して、そのような感情をもつのではないでしょうか。

「隣人になる」とは、相手を思いやる心をもつこと、相手と良い関係を結ぶことです。

マルタは、イエス様一行を「おもてなし」しました。料理を作り、配膳をしました。ひとりで一生懸命切り盛りしたのです。

おもてなしとは、「相手を大切に思う行為」です。ところが、このときのマルタの心は、「いろいろなことを思い煩って、心を乱し」たようです。彼女は、おもてなしを自分で計画し、自ら働きました。しかし、おもてなしでは、イエス様の心への配慮やマリアの希望を汲んでいなかったようです。それは、社会習慣の要求、すなわち、世間体を守ることであり、彼女自身が他者からよく見られたいという自己欲求から来たもののようです。

イエス様のお心はどうだったのでしょうか。「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました」と言われました。そうです、イエス様は、ご自身が語ることばを聞いてほしかったのです。隣人になるとは、本当のおもてなし、相手を大切に思う行為です。

ここまで来れば、マルタとマリア、このとき、どちらがイエス様の隣人になったかわかりますね。

聖書のⅠコリント13:4~7には、愛の基準が記されています。

「愛は寛容であり、愛は親切です。」(Ⅰコリント13:4)

愛とは何かと書かれています。私たちの行為が、愛を基準としているかどうかを、この御言葉によって評価することができます。もし、愛の基準から離れていたら、どうあるべきかを省みるとよいでしょう。このことは、知性によって神様を愛することにつながります。

聖書の引用は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。

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